第4話 10万馬券と勘違いな桜花賞(4)

文字数 2,809文字

ゴールしてから数分が過ぎる。
審議対象のレースではないので、あと少しで『確定』して払い戻しが決定するだろう。
四人がソファーに腰掛け、脱力していた。
テレビは消えておりリビングに静寂が戻る。
テレビを見ないのは、他のレースへの関心が失われたからだ。
皆、静かにレースの結果を待っていたいのだ。
「どのくらいの配当?」
「確か、単勝で7番人気、1番人気、10番人気だから万馬券以上は確実かと」
「後、数分で確定するんじゃない?」
イラつく果凛の問いに気を紛らわせようと優が懸命に答え、冴がぶっきら棒に反応する。
鞍さんは無言で遠くを眺めていたが、居たたまれない雰囲気からか、リビングから自分の部屋へ戻ってしまった。
残った三人は長い数分の時の刻みに身を任せていた。
中学高校で吹奏楽部だった冴さんが、コンクールの結果発表を思い出すという。
同じ学校で吹部の後輩だった果凛も硬い表情で肯首する。
優がいらつくようにスマホ画面『レース結果』のアイコンを何度も叩く。
なだめるように冴はコンクール全国大会の成績発表、緊張感はこの比じゃないと戯けてみせた。
「『確定』です」
大声を張り上げた優が手にしたスマホを熱視線が取り囲む。
周囲に圧された優は見辛いなと思いつつも『払戻金』を見据えて代表して発表する。
「ええっと、3連単は…。1、4、10でこれは…」
六桁の数字は直ぐに声に出せないぞと、優は困惑しながら何とか口にする。
「104,970円です」
数字を耳朶にした皆は一斉に暗算を巡らせた。
これは1049.7倍という意味で、鞍さんは1,000円賭けていたので配当は1,049,700円ということだ。
無機質な数字がこれ程までに人を興奮させるとは感慨深い。
「いぇーい」
皆一斉にジャンプすると同時に鞍さんが紙袋を手にリビングに戻って来た。

鞍さんが袋から手にした紙片を三回に分けて天井へと高く解き放つ。
「えいっ」
「えぃ」
「えーいっ」
一万円札の紙吹雪が舞う。
ひらひらとリビングで踊るのを冴と果凛がさらに天井に向けて両手で掬い、さらに吹雪を宙へと投げる。
優が漂う枚葉を床に落とすまいと下から汲み上げる。
リビングで遊弋する一万円札百枚の紙吹雪。
福沢諭吉が狂喜乱舞し、幸せをもたらした宇治平等院の鳳凰が翻る。
真新しい紙幣のインクと和紙の匂いがリビングに満ちてくる。
皆、お金の大切さは分かっている、けど、今はこの仲間と馬鹿騒ぎに酔いしれたい気分で一杯だ。
果凛がその小柄な体を精一杯伸ばし、身長のある冴がソファーに寝転び紙の演舞を眺め、優は何度も腕を振るい回してしゃくり上げ、鞍さんは嬉しそうに光景を目にしていた。
外からの眩しい午後の太陽と煌めきが紙幣を幾度となく照らしていた。
鞍さんが眩しさに耐えられないという感で、陽光を背にするとリビング中央のピアノに向かう。
皆がピアノに注目すると、鞍さんは『サウンドスケープ』だよと曲名を披瀝し、歌への参加を促す。
アニメの主題歌でもあり、住民たちが歌う気満々なのに優も感化される。
『サウンドスケープ』とは、『音の風景』として普段の生活の中で音との関わりの概念としての意味もあると冴が博識を披露する。
鞍さんは日常生活の中で『競馬』がどう関わっているのかを住民たちに問うているのかもしれない。
『TRUE』の名曲『サウンドスケープ』を鞍さんは弾き始め、歌う。
鞍さんに続いて果凛、冴と加わり優も参加し、だんだんと歌が大きくなる。
鞍さんがトーンを絶頂へ誘うと全員で大合唱だ。
旺盛で爽快な曲、前向きで元気が出る歌詞、伸びのあるエネルギッシュな本来の歌声へ少しでも近づこうと住民たちは必死に喉を震わせる。
歌い終わると果凛、冴が勝者を称える。
「ジョッキー、ありがとー」
「ジョッキー、頑張ったー」
そんな二人を横目に優と鞍さんは語り始める。。
「ファストライフ。お見事な予想ですね」
「ありがとうございます。僕より騎手と馬を誉めてください。道中は控えめで、後半徐々にポジションを上げて、直線は少し追い出しを待って、ゴールはキッチリ先頭。馬も彼女の指示通りに頑張り抜きました。長距離戦の差し馬はこう乗るんだという好騎乗ですね」
優はレースを回顧した。
「二月の落馬事故で骨折し、入院して。復帰しても中央競馬では確か三十五戦勝てなくて。我々部外者では、口にした表面上の言葉でしか理解できないけど」
「嬉しいですよね」
鞍さんは表情を緩めて、手を叩く。
「嬉しいでしょうね。復帰初勝利、芝2600戦初勝利」
優の同意に鞍さんが女性騎手の将来に思いを馳せる。
「また一つ、限界を超えた感じですかね」
「一ファンとして、そうだと思いますし、自分自身最高を目指して欲しいです」
優も決して上から目線でない、次のレースに向けた応援を吐露した。
現在、中央競馬唯一の女性ジョッキー。
海外のウィメンジョッキーズワールドカップで優勝して、新潟のリーディング騎手になって、一日四勝もある。
コパノキッキングでは中央競馬の女性騎手として初の中央競馬重賞勝ちを修めた。
そして二月に落馬事故。それからの復帰。
「ホント、彼女の姿には励まされるな」
優が本音を吐くが、鞍さんも同じ想いだろうと想起する。
「こんな状況で、ありがとうって言いたいですよね」
鞍さんはほとんどのスポーツイベントが中止に追い込まれる中で、競馬が開催される奇跡と騎手への感謝を重ね合わせて、しみじみ語る。
10万馬券的中はお初だよねの鞍さんに冴と果凛が腰にしがみついて騒ぐ。
もう分かったわよと逃げ腰の鞍さんが何だか愉快だ。
鞍さんが何とか二人を振り切るのを確認した優は果凛へ意識が向かうと、目が合う。
お互いに恥ずかしくなり視線を外すと、優は鞍さんに背中を叩かれた。
鞍さんが行けとばかりに細めた眼を果凛に振る。
優が果凛に向かうと、彼女は右手を出す。
手のひらが軽くタッチし健闘を称える。
「ファストライフおめでとう」
「ラヴィアンレーヴも格好よかったよ」
鞍さん曰く、馬券を取った時はタッチが一番という。
冴が二人の背中を祝して抱き着き、優の肩をよかったなと震わせる。
優は安堵と苦笑を混ぜた不思議な表情を浮かべる。
「皆さん、これからはお片付けの時間ですよ」
鞍さんがさあキレイにしましょうと『ぽん』と手を叩く。
「はい!」
高校の部活のような一糸乱れぬ気持ちのいい返事と破顔が返る。
「少しはシェアハウスの予備のお金として置いておくとして…」
「…後はどこかに寄付しますかねぇ」
10万馬券の使い道を鞍さんが考えていた。
鞍さんらしいと思う四人は楽しかった時間を床から逃すまいと一枚、また一枚と拾い上げる。
10万馬券的中の余韻を競馬仲間全員が味わっている、この瞬間。
だから、競馬は止められない。
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