第5話 10万馬券と勘違いな桜花賞(5)

文字数 2,827文字

2020年年4月11日土曜午後2時過ぎの陽は天を駆けていた。
シェアハウスのリビングは春にしては熱が部屋に籠もる。
ほんの十分前に10万馬券を的中して大騒ぎした住人たちの興奮の残滓なのか。
大穴を仕留めた残響は佳人たちに次のレースを見る気持ちを薄くする。
興奮冷めやらない冴が口ずさむ。
こうして住民たちによる桜花賞の予想合戦膜が切って落とされる。
「デアリングタクト、明日の桜花賞のオススメ。エルフィンステークスの勝ち馬ね」
差し馬が好きな冴が桜花賞では一押しだと住民に勧める。
分かりますよと優がデアリングタクトのエルフィンステークスを回顧する。
4コーナーでも後方3番手、直線では大外を選んで直線一気に突き抜ける。
弾けた、という表現が近いかも知れない。
しかもゴール前を流して、2着とは4馬身差、1:33.6の好時計のオマケつきだ。
「それと、デアリングタクトのエルフィンステークスは、アーモンドアイのシンザン記念を彷彿させるしね」
アーモンドアイのシンザン記念、出遅れる形で最後方、直線で後方から二頭目、200の標識付近からやっと加速を始めたかと思うと、一気にゴールを駆け抜けた。
伝説の片鱗を見せた序曲、将来を示すオーヴァーチュアと冴が位置づける。
トライアル以外からのオープン戦を完勝してからの桜花賞参戦が似ているという。
冴は髪をかき上げ目に力を入れ、現役の名牝の名を口にして、デアリングタクトと比類した。
冴に感化させられたか、鞍さんも『デアリングタクトはいいですね』と評価する。
「その馬に対抗するとなると…」
「レシステンシアでしょ」
逃げ先行が馬好きな果凛が優の口を塞ぐように主張する。
「あの去年の阪神ジュベナイル、あの一方的な逃亡劇を見せられたら…」
あなたはついて来れるの?という挑発的な速いペースで逃げまくり、直線では後続を突き放す5馬身差のレコード勝ち、これも強い競馬だ。
果凛はうっとりしながら、桜花賞はレシステンシアの勝ちじゃないのと言う。
「その時のラップは12.2-10.5-11.0-11.8-12.0-11.2-11.5-12.5です」
ラップは左からスタート1F(200m)から右のゴール8F(1600m)の各1F(200m)を示す。
優が阪神ジュベナイルフィリーズのラップを披露すると、前半3Fは33.7秒でハナ譲らずに押し切るんだからねと果凛も満足そうだ。
「トライアルのチューリップ賞は、ため逃げを試した感があるよねぇ」
本来の姿ではないのではと、残念そうな冴。
『トライアルは12.2-11.2-11.7-12.0-12.2-11.3-10.9-11.8で、前半3Fは35.1秒ですね』と、優がラップを持ち出す。
「で、直線の瞬発力勝負では一息かなって」
そう結果を果凛は踏まえた。
「今回は鞍上にレジェンドジョッキーですよね」
鞍さんが日本の第一人者の騎乗に期待を寄せる。
「今度は阪神ジュベナイルのようにハイラップを刻んで、引き離しての逃げから押し切りだよ」
気が早い果凛が勝利宣言をする。
「ハイラップならデアリングタクトの後方待機からの末脚で差し切りだねぇ…」
「…祖母のデアリングハートは桜花賞3着だぜ、雪辱戦だね」
口を大きく開け閉めした冴も負けじと言い返す。
「スタートセンス、ペース配分に長けた第一人者、レジェンドジョッキーの手綱捌きに酔いしれたいかも…」
「…でも若武者の伸び盛りのような騎乗と新馬からのコンビ継続は魅力ですしねぇ」
レシステンシアとデアリングタクトの騎手でも鞍さんは煩悶していた。
『あと一日、贅沢な懊悩だわねぇ』とどちらを軸にするか鞍さんは腕組みして首を傾げる。
「明日まで悩みますか」
「それが楽しいんだし」
冴と果凛の休戦宣言を住民全員がその通りだと頷いた。

「Darig(大胆な)、Tactics(戦法)、いい馬名の付け方ですね」
デアリングタクトの馬名の由来を優が評する。
元吹奏楽部の冴は自分にとっては、Darig(大胆な)、Taktstock(音楽の指揮)だという。
桜花賞の予想合戦も一息、ロングソファーで冴は優に耳打ちする。
「ある意味大胆な騎乗だったわね。デアリングタクト」
冴が長い髪をかき分けながら、エルフィンステークスの記憶を優と一緒に戻す。
後方追走のレントから、ゴール直前の鬼脚、プレティッシモまでを想い起こしていた。
本番の桜花賞でも突き抜けるよう、二人は『指揮者』の騎手が100%で挑めますようにと祈っていた。

「じゃあ、さ。競馬やろっか。阪神牝馬ステークス」
冴は阪神のメインレース名を告げると、促すように優の背中を叩いた。
「よし」
気合いを入れた冴は黒い髪ゴムを口に咥え、両手で髪を高い位置で纏めた。
「スカーレットカラーはどう?女の子同士なら差はないと思うけど」
妹の果凛を呼ぶと、待ってましたと返事が響く。
「果凛は連勝中のサウンドキアラかな」
冴が差し追い込み系のスカーレットカラーなら、果凛は比較して
先行系サウンドキアラをチョイス。
「サウンドキアラはデアリングタクトの騎手も乗りますし、桜花賞向けた一戦ですね」
優は明日に向けた前哨戦だと注目した。
「果凛ちゃんと冴さんの予想、乗りましょうか」
鞍さんが嬉しそうに馬連1万円にしますねと表すと、リビングの掛け時計に目を遣ると『いけない、もうこんな時間』と冴に向く。
冴は焦る鞍さんを宥めるように優しく語る。
「紅茶を淹れる準備しておきますよ」
「果凛も手伝う」
お茶の時間ですね、分かっていますと姉妹はキッチンに向かい、湯を沸かし始め、ティーカップと皿の準備に手をつける。
出掛けようとする鞍さんは、何かを思い出したように慌てて優にスマホでネット投票の操作を依頼する。
「優くん、馬券を買っておいてくださいませんか?」
「はぁ、はい」
いきなりの要望に生返事となる。
「もう急がなきゃ」
焦る鞍さんはシェアハウスの管理人とは別な個人所有のスマホを『お願いね』と優に渡す。
忙しく渡された優は目を開けたり閉じたりしながら、『分かりました』と叩首した。
『近所のパティスリーでタイムセールが始まるの♡』と言い残してシェアハウスを後にした。
知る人ぞ知る洋菓子店で15時からのティータイム限定、濃厚チーズケーキがお目当てだ。
『阪神牝馬ステークス』の発走は15時35分となる。
シェアハウスから往復するとギリギリの時間だ。
『本当は競馬観戦したいのですが』と悩ましい鞍さんは優に『間に合わなければ、結果を一緒に楽しみたいですね』と爽やかな笑顔を残していた。
迷う結果が、今回はスイーツが優先らしい。
優は一抹の不安を覚えるが、鞍さんの柔らかな表情が憂慮を打ち消すように思えた。

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