第49話 優と惠、メイドと執事の物語 ダービーはイングランド貴族の宴(1)

文字数 2,515文字

今週末は「東京優駿」、いわゆるダービーだ。
2020年5月25日月曜夜は日曜までの一週間、ダービーウィークの初っ端といえる。
優はダービーに向けてもう一度、参考レースを自分の部屋で確認する。
夕食の直前、コントレイルが好きな冴が『ナイショ♡』といい、優の部屋に押しかけていた。
同じ馬のファンである女性と初めて長い時間を過ごす場所は己の六畳間でない気がする。
心音を速くした優は皐月賞と青葉賞をスマホに降臨させた。
両膝を抱えて座る冴がスマホを覗こうと寄り添う、彼女の黒い長髪が優の赤い頬を掠めた。

「コントレイルっ、来た!」
冴の一言で、皐月賞の記憶が蘇るのは4コーナーの大外。
コントレイルが自然と滑らかに先頭を目指す。
だが、一緒にコントレイルを再度応援する冴の目が厳しい。
1枠を内で我慢して、3コーナーで外に持ち出す『そういう乗り方か』と冷静だ。
その騎乗なら直線は他馬に邪魔されず、馬場の良い外目を走れる。
彼女の目には『内で包まれる不利がない』安堵と『大外距離ロスに騎乗は真の名馬のみに許された競馬』という緊張がない交ぜになる。
四角捲り気味に前を捉えようとするその姿。
『ディープインパクト』
口を揃えた優と冴が一瞬、目が合うが、喧噪の大画面へと戻る。
内からサリオスが抜けようとする。
その外、コントレイルが抜きにかかる。
1馬身の間、サリオスとコントレイルは併走する。
お互いを認め合うように寄り添い、合間を詰める。
デートの開始だ。
刹那、サリオス先頭か、そうはさせじとコントレイル。
コントレイルが先頭へ踊り出ると、サリオスは必死に食い下がる。
じわりと差が広がると半馬身差。
同じ脚色を楽しむようなコントレイルと追いすがるサリオス。
差が詰まらないまま、二頭はフィニッシュへと身を投げ出す。
コントレイル先頭でゴール。
二人はランデブーに酔いしれ、暫く動けなくなっていた。

ダービートライアル青葉賞。
テレビでのライブ観戦時はリビングでは鞍さんがオーソリティをハイテンションで応援していた。
彼女は海外G1を制覇した名牝シーザリオが好きで、孫のオーソリティを推していたのを優は思い出す。
2コーナーではオーソリティは5,6番手の内。
『ナイスなポジションッスね』と優が賞賛する。
1000m62秒、遅めなのかを見透かすように中段の動きが激しくなる。
4コーナー手前、オーソリティは7番手となる。
思わず冴さんの眉間に厳しさが寄る。
直線、オーソリティはインコーナーを利して、先行集団に取り付こうとする。
だが、行き場がない。
冴さんと一緒に息を詰まらせる。
ぽっかりと馬群が空く部分にオーソリティが外へと位置を変える。
直線が開けている、右鞭、持ち替えての左鞭で鼓舞を打ち続ける。
『器用に立ち振る舞うねぇ』と漆黒の髪を梳きながら嬉しそうにする。
フィリオアレグロ、ヴァルコス、オーソリティが三頭横に並んだ勝負。
オーソリティがヴァルコスを追う、この二頭が内のフィリオアレグロを躱す。
結果は分かっているのに思わず力が入るゴール前の二人だ。
オーソリティがヴァルコスを抜き、クビ差になったところがゴールイン。
さらに首差で3着がフィリオアレグロ。
『勝負強いしぶとい勝ち方だねぇ』と彼女がスマホに顔を寄せると頬が触れる。
ライブ当時、鞍さんはオーソリティの勝利に両手を叩いて喜んでいたのだが。
オーソリティはレース後に故障が判明してしまった。
『ダービーに出走させたかったねぇ』に優が頷くと額が合わさる。
密かな恥ずかしさと残念さを優は冴さんと共有していた。

「まずいよね?」
冴がダイニングテーブル左隣の優に問いかける。
「まずいですね」
優は六人掛けテーブル中央の冴に応諾する。
「えっ、味付けおかしかったですか?冴さん、優くん」
鞍さんは心配そうな顔を斜向かいに座る冴と優に振り向ける。
ダービーウィークの月曜夜、夕食時のダイニングだ。
優と向かい合う惠が『何事か?』と怪訝そうな表情で箸を口にする。
『いや、違います』
並ぶ優と冴が苦笑し、男女混成の声音が夜のダイニングに木霊する。
「コイツら頭の中はダービーで一杯だね」
テーブル中央で冴に向かい合う果凛が箸の先で数えるように二人を指すのを、左隣の鞍さんは行儀が悪いと窘める。
「というよりコントレイルなんですよ」
『ね』と嫌みを含みながら惠は口元を下げ、ボブを二つにしたお下げを揺らす。
優が図星の恥ずかしさから顔を背け、冴が澄ました顔で平然を決め込んでいた。
コントレイルという名馬は冴も優も好きだ。
不満げな惠が一瞥を終えると口一杯に夕飯を放り、飲み込む。
「まあ、私はサリオスですけど」
「だよなー。今度はリベンジだぜ」
果凛が右肘で惠の腕を軽く突いて賛同する。
「ディープインパクトですかね」
無敗の三冠馬ディープインパクト、史上最強との誉れも名高い名馬だ。
鞍さんは名馬の名前を冴と優に投げ『ディープインパクトとコントレイルとの比較』が気になるのではと、二人に問うた。
二人の無言は同意の証明だ。
その沈黙はコントレイルがディープインパクトに比類しうる可能性を意味する。
皐月賞で大外を回しての完勝なら、三頭目の無敗の三冠馬への道がある。
だが、一冠目を半馬身差で勝ったばかりでは、俄にも信じ難い思いもある。
コントレイルに対する期待と一抹の不安が『まずい』となる。
『まずい』は、コントレイルファンの複雑な心境だ。

「今の私にとっては『まずい』はオーソリティのダービー回避ですかねぇ」
鞍さんが独り言を吐き、肩を落とす。
鞍さんは気持ちを切り替える。
「それじゃあ、参考レースを観ましょうか」
オーソリティを忘れるように鞍さんが誘う。
「ディープインパクトの皐月賞とダービーです」
女神に誘われて、賛同しない住民などはいやしない。
全員が行儀悪く食べ急ぎ、シンクに集い後片付けで騒がしい女性四人が微笑ましい。
「優、準備しておけよ」
後ろを振り返りツインテールを揺らす果凛の台詞が、リビングへと歩む優の背中を後押しした。
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