第53話 優と惠、メイドと執事の物語 ダービーはイングランド貴族の館(5)

文字数 2,480文字

「一冠目は完敗ですね」
皐月賞でのサリオスへの惠の感想だ。
鞍さんが両手を握り締め、瞼を閉じながら『残念ながら』と口を開く。
「秋はもう短期免許の騎手は乗れません、今回は覚悟の騎乗かと」
短期免許の切迫した状況へと惠は想いを巡らす。
去年のサートゥルナーリア、サリオスの皐月賞を踏まえてその騎手の心中は幾ばかりか。
素人に分かる筈も無い、深淵な世界であろう。
敢えて、邪な妄想を意味の無い言の葉で紡ぐという。
「蒼く冷徹な紅蓮の激しい炎」
ツインテールのカチューシャが同意するように前後に揺れる。
「私もその業火に焼かれてみようかな、もう一度…」
果凛の言を受け、覚悟を決めた惠の瞳が鞍さんを突き刺す。
「でも、私はコントレイルかなぁ」
ワイングラスにキスした冴はコントレイルが勝利した皐月賞で、幻影に呻らされるという。
「4角ではディープインパクト」
そういうと優が続く。
「直線ではシンボリルドルフ」
無敗の三冠馬と比類は競馬ファンとして最上級の褒め言葉だ。
「生まれてきてくれて、ありがとう。ですかね」
そう、いいたいですと澄んだ瞳の鞍さんにコントレイルのファンである優と冴が『そうですね』と同意の眼差しを投げる。

「後はサトノフラッグかな。この馬も府中のレコードホルダー、弥生賞の競馬が出来れば」
リベンジご希望は鞍さんのお見立てだ。
「巡り巡ってレジェンドジョッキーが乗りますよね。その縁を応援したいです」
そういうとレジェンドジョッキーの手綱捌きに期待を寄せる。
普段は聞き手に回ることも多い鞍さんが、大会の最初から予想を披瀝する。
『冴さんは?』と主人に問われたダークスーツが麗しい家令が恭しく答える。
「コントレイル、サリオス、サトノフラッグですかね」
『やっぱりこの三頭かと』とした上で、『コントレイルとサリオスは抜けている』と評価する。
そして、『ヴェルトライゼンテ』が『サトノフラッグ』に次ぐ3着候補だと言う。
コントレイルをマークして2着だったホープフルステークスの頑張りはダービーでこそだと主張する。
後は『ブービー人気の皐月賞で2番手追走を4着したウインカーネリアンが痛恨の大外枠は残念の一言』とのことだ。

何か言いたげで身を乗り出しそうな優に『お待たせしました、どうぞ』と鞍さんは優美の手を向けた。
椅子から立ち上がった優はスカートの後を結ぶリボンを遊弋させながら、左脚を斜め後ろに引き右膝を曲げて頭を下げる西洋式のお辞儀をする、カーテンシーだ。
晩餐会の途中で失礼しますと両手でスカートの裾を少し上げてのご挨拶の後、口を切る。
「現代のダービーで、単勝が2倍以下だった馬が以下の九頭です」
優がコホンと咳のふりして言い始める。
「1973年のハイセイコーが想定1.1倍で3着、1983年のミスターシービーが1.9倍で1着、1984年のシンボリルドルフが1.3倍で1着、シービーとルドルフは二年連続の三冠馬ですね」
「そのルドルフの息子、1991年のトウカイテイオーが1.6倍で1着、1994年のナリタブライアンが1.2倍で1着、ブライアンも三冠取っています」
「そして、2005年のディープインパクトが1.1倍で1着、ルドルフ以来の無敗の三冠馬、息子のコントレイルが父の記録に挑みますね」
「2007年のフサイチホウオーが1.6倍で7着、2015年のドゥラメンテが1.9倍で1着、2019年のサートゥルナーリアが1.6倍で4着ってトコですかね」
『そのうち勝ったのは六頭です』とは優が紹介する。
「今年のコントレイルは果たして…どうなるのか?」
冴がワイングラスと鋭い目線を優に向ける。
「競馬が記憶のスポーツなら、昨年のダービーを振り返りたいです」
ホープフルステークスからぶっつけで臨んだ皐月賞を勝ち、四戦四勝となったサートゥルナーリアを例として、優がさらに続ける。
コントレイルと似た臨戦過程が気になる素振りだ。
「単勝1.6倍と圧倒的人気を背負ったダービーでは残念にも4着だったねぇ」
サラダを口にした冴が口元をきつく結ぶ。

「サートゥルナーリアといえば、シーザリオ産駒のダービー制覇、エピファネイアが2着、リオンディーズが5着の果たせなかった夢に賭けていましたよ」
赤ワインを喉に落とした鞍さんが当時を語ると『シーザリオは好きでしたからねぇ』と目尻を下げる。
サートゥルナーリアのダービー後は呆けてしまったと鞍さんが頭を搔くのが微笑ましい。
「リオンディーズの時は金曜日の前売り時点で単勝1番人気でした。これは嬉しかったんですよ」
最終的には4番人気でマカヒキの5着になり、負けた訳ですが、上がり最速をマークしたことには満足しましたとも。
「じゃあ、次は2013年のエピファネイアですかね」
牛肉の赤ワイン煮を楽しみながら優が物語を紡いでくださいよと促す。
「ええ、あの時の思い出でね。東京競馬場にいてね…」
同じように煮込みを味わう惠が関心あるように早く話して頂けますかと目を見開き、乞い願う。
エピファネイアが直線、一旦、抜け出してきたときは鞍上の名を腹の底から叫んだという。
その刹那、外からキズナが追い込んできて、全方位からのレジェンドジョッキーへの応援にかき消されたという。
「観戦していたレジェンドジョッキーファンは泣いていたけど、私だって泣いたわよ、違う意味で」
牛肉をフォークに刺す鞍さんは屈託なく笑う。
「今年、オーソリティが出走していれば、どうだったの?」
果凛がそう問うと即答。
「単勝勝負よね」
オーソリティの母ロザリンドはシーザリオの娘、それでシーザリオの孫にあたるわけだ。
青葉賞で初重賞制覇、熱いレースだった。
「青葉賞馬はダービーを勝てない」というジンクスを破って欲しかったが、
骨折による戦線離脱は残念で仕方がないわねぇということだ。
「またシーザリオの仔が出走するが楽しみよねぇ」
そう言う鞍さんは次世代に思いを馳せる。
父がモーリスのシーザリオの2歳牡馬も期待大とのことだ。
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