第35話 唄え!内山田洋子と熱きクインテット ヴィクトリアマイルの大合唱(3)

文字数 3,207文字

「来ちゃいました」
シェアハウスのチャイムが響くと、ヒロコはリビングに昼と同じ姿で現れた。
食事後のシェアハウス、ヒロコの来襲に備えて住民総出で後片付け、終わった瞬間だ。
『じゃあ、合唱始めますがその前に…』とヒロコは優と惠に経験を問うと、偶然にも二人は高校生の文化祭、クラスの出し物で合唱経験があるという。
「これは運命よ」
リビングの照明に手を突き上げ、光を浴びたヒロコはご満悦となる。
週末用のワインだといって勝手にワインセラーに一本入れて、リビングに向き直る。
「さて、パートはどうすっかな?」
ヒロコは輪になった六人を見回し、住民たちの声音を思い浮かべる。
「まず、果凛ちゃんとヒロコが『ソプラノ』で、冴さんと惠ちゃんは『メゾソプラノ』、鞍さんと優くんは『アルト』だな」
『えっ、『女声三部合唱』ですか?』
惠と優が息ぴったりに驚きを口にする。
『女声三部合唱』は『ソプラノ』『メゾソプラノ』『アルト』の構成で、その名の通り女性のみの編成である。
高い声なら、男性の優は本来なら男声の高音域の『テノール』担当だ。
音域としては『テノール』より『アルト』の方が高い。
女声の低音域の『アルト』を男性が担当するのは本来『おかしい』ということだ。
声でも女扱いかよと愚痴を表情に浮かべる優に、惠は頷きながらご愁傷様だけど頑張れと背中を二度ほど叩いた。

「『調教』はヒロコ流でいくよん♡」
合唱練習を『調教』と呼び、やる気の笑みを湛えたヒロコが指示を出す。
「じゃあ、ウォーミングアップから」
ヒロコは『やったことあるんだろう?』と模範を示すように首の力を抜いて右回り、左回りにゆっくりと回し始める。
人間でもサラブレッドでもトレーニング前の準備運動とクールダウンは重要だよとヒロコは続ける。
「ほら、優くん。両肩を後ろと前に回す時は胸の中心を意識して肋骨を広げる!」
トレーニングセンターでの調教前、『曳き運動』と『乗り運動』の重要さは分かっているよねと『調教師』の叱咤激励がリビングに飛ぶ。
「『曳き運動』のストレッチが終わったら、『乗り運動』のブレスのトレーニングだからね」
ブレスのトレーニングとは、腹に手を当て腹筋を意識して腹式呼吸の確認と子音の「S」を使って横隔膜を意識して息を吐く、「S」を使って息を吐くとき横隔膜を使って息を二回止めて三回目に通常の永く伸ばす方法に戻る、という。
これがヒロコにとっての『乗り運動』らしい。
競馬の調教に例えられて頑張る住民たちが可笑しい惠はヒロコに睨まれないようにと、笑いを必死に堪えながら息を吐いていた。

それからの夕食後は毎日が『調教』でシェアハウスがトレセンと化していた。
ストレッチとブレスのトレーニングの『曳き運動』と『乗り運動』
続いて、ハミングを使ってのユニゾンと発声練習がヒロコにとっての『ダグ運動』らしい。
ユニゾンとは同時に同じ音を奏でることだ。
ハミングを使ってのユニゾンは『ソプラノ』は「a」から、『アルト』は「o」からハミングを作り、半音ずつ上げて音高と音色に気を遣い、声を溶け合わせていく。
「優くん、力入りすぎ、楽にして」
「惠ちゃん、顔を真っ直ぐにね」
『内山田師』の必死の『調教』である。
次の発声練習は母音を使ったレガートとスタッカートだ。
レガートとは音と音をなめらかに歌うことで、スタッカートとは音符よりも短く切って歌うことだ。
二音程のレガート、三音程跳躍をレガートに歌い、三度の上昇・下降を滑らかに歌う。
四音程の跳躍をレガードに歌い、オクターブの跳躍はスタッカートとレガードの合わせ技だ。
基本レガート練習の後には、息の力を利用した速いパッセージで歌う訓練をおこなう。
音をメロディ間で上下させ、声域を広げようとイメージする。
「鞍さん、息の流れを意識して」
「果凛ちゃん、喉のアタックで音を切るんじゃなくて、お腹を使って音を切って!」
「冴さん、丹田をイメージして」
ベテラン勢にもヒロコは容赦ない。
そして母音を使った練習で頭蓋骨の響きと、子音の確認もする。
他には任意の高さで声を出す鼻腔共鳴の練習、唇を閉じて息を一定量で流し声帯で音を出す『リップロール』や舌を上の歯の裏につけて「r」の発音を長く一定の息の速度で流す『タングドリル』も取り入れられた。

「『ダク』の後は『キャンター』いくからね」
『内山田師』は『キャンター』と呼んだ、パート練習を指示する。
『ソプラノ』の果凛と洋子、『メゾソプラノ』冴と惠、『アルト』の鞍さんと優。
パート練習とは、パートと呼ばれた『ソプラノ』『メゾソプラノ』『アルト』の各声部の分かれての合唱のハーモニーに向けた練習だ。
「じゃあ、曲は『夏の思い出』ね」
曲の舞台は尾瀬の湿原、生き生きとした情景を切り取った名曲だ。
譜面を渡しながらヒロコが曲の説明をした。
二人一組で向かい合って呼吸・言葉・音程・リズムなどがズレないように集中して歌う。
リズム・言葉・強弱・呼吸など細かいところを丁寧に練習する。
この練習で跳躍する音程や発音のタイミングを揃えるという意識が生まれる。
相手の声を聞きながらの練習は音色も揃ってくる。
そして全体練習でハーモニーのカデンツ、和音の進行で、練習をまとめ上げる。
毎晩、毎晩、ヒロコと住民たちはハードなトレーニングと格闘を続けていた。

5月15日金曜夜、いよいよ『ギャロップ』、実際の曲で合唱練習となる。
リビングとダイニングの間に『アップライトピアノ』があり、ヒロコを中心に住民たちの輪が今日も出来ていた。
ピアノを伴奏しながらヒロコが歌うのも住民たちは慣れてきた。
ヒロコが構える、住民たちは『夏の思い出』の楽譜を手にして適度な緊張が走る。

曲は冒頭のレガートの通り、『ピアノ』がなめらかに前奏の第一小節を奏でる。
前奏の後、全休符。
待っていましたとばかりに合唱がメゾピアノで入る。
二つのソプラノのメロディとそれを支えるアルトがバランスよく流れる。
伴奏は控えめに、だが積極的に『ピアノ』がリードする。
ピアノの動き、メゾソプラノとアルトで作る和音で変化をつける。
引き締まりのある和音が響き、音の色彩が移ろう。
二度の休符の後のピアニッシモとメゾピアノを結びつけると花が開く情景が浮かぶ。
合唱が邪魔にならないように『ピアノ』の音量をデリケートにコントロールする。
音の長さを十分に保って歌うテヌートもいいテンポで響く。
見事な引き立て役としての『ピアノ』、右手の動きで広がりが加わる。
だんだんと強くクレッシェンドを歌い込む、フェルマータの小さな品のいい休止。
『ピアノ』の間奏がメロディを再び呼び起こしテヌートにより音色を流し、二番の歌詞へ思いを紡ぐ。
同じメロディで二番の歌詞を歌い始める。
再び、ハーモニーが薫り、漂う。
後半、二度目のクレッシェンドを思う存分に披露し、フェルマータの僅かで優美な休止。
後奏は一小節のヘ長調の主和音。
極上の音色と響きがリビングに満ち足りる。
生き生きとした音に満たされたヒロコは目を細めながら額の汗を手の甲で拭う。
初夏の陽光が爽やかな瑞々しい湿原が、そこに、あった。

「せっかく『仕上がった』のにレースに使わない調教師がどこにいるんだよ」
全員が合唱経験者だったが、短期間で『仕上げた』ヒロコは名調教師か。
ヒロコはニヤリと白い歯をさらし『合唱コンクール目指すからな』とは調教師の弁だ。
優と惠は本気ですか?と驚きをヒロコに向けた。
『デビュー戦は商店街のイベントかな。でも今は難しいねぇ』と『今年の全日本合唱コンクールは中止っぽいし』とヒロコは物憂げを浮かべる。
「でも負けずに頑張ろう!」
ヒロコは前を向いて大声を張り上げた。
「内山田洋子と熱きクインテットよ!」

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み