第7話 10万馬券と勘違いな桜花賞(7)

文字数 2,454文字

ゲートが開くと最内枠のナイントゥファイブがスタート良く飛び出す。
買い間違えたスマイルカナが外からダッシュしハナを奪って逃げ、続くはマルターズディオサとなる。
レシステンシアが今日は逃げずに4番手、内はサンクテュエール。
デアリングタクトは後方だ。
果凛は逃げないレシステンシアを『この競馬で正解なのか』と無言で見詰める。
3コーナーではレシステンシアが2番手へと進出する。
背景には少し寂しそうな桜が流れる。
重馬場でレシステンシアが控えた競馬で600m34.9秒。
スマイルカナ4コーナーを回ると、レシステンシアがマークする。
直線、スマイルカナが予想以上に粘り、レシステンシアを引きつけていて、デアリングタクトが一気に後方から追い上げる。
デアリングタクトはこの位置で、その走りで、ポーコ・フォルテで伝わるのか、届くのか。
先頭では、スマイルカナとレシステンシアのデュエットが続く。
デアリングタクトは厳しいか。
デアリングタクトは騎手の両手が手綱をしごく。
必死の右ムチは美しき指揮棒となり、一完歩ずつ先を詰めにかかる。
ポーコ・ア・ポーコのクレッシェンドの音色が上行する。
そして、加速が続くアッチェレランドとなる。
「そのまま、そのままで頼むーっ」
「差せ、差してくれーっ」
果凛と冴はスマイルカナとデアリングタクトへ大声援を送る。
レシステンシアがスマイルカナに並び、抜き去る。
デアリングタクトの猛追、極めて速いプレスティシモを響かせる。
ついにデアリングタクトがレシステンシアを捉えきる。
声援の大音響、ピークが1馬身半差の壮大なゴール、堂々たるグランディオーソを迎える。
2着はレシステンシア、さらに1馬身と3/4離れて3着はスマイルカナだ。

「デアリングタクト、凄い」
全てを忘却の彼方へ追いやり興奮する冴は優に右手の親指を立て、同じ想いを伝える。
「2着は惜しかった。あそこまで来たら2頭に差されて欲しくないけどなぁ」
スマイルカナの頑張りに果凛も心地良い残念さを浮かべる。
買い間違えた馬券は1着3着、馬連としては惜しくもハズレだ。
ただ、いいレースを観戦した満足感を住民たちは共有していた。
冴が何気に鞍さんのスマホをタップすると、果凛が気になると覗く。
馬券の結果を踏まえた姉妹はさすがに吐息を天井に向け、脱力した背中をソファーに沈めた。
2人の姿を見た優がソファーの右脇のオットマンで無言を噛みしめる。
突然、冴がソファーを飛び跳ねる。
あの冷静な彼女が興奮で息を荒くしていた。
『こんなことって…』と驚きを響かせた冴がスマホを皆に突き出した。
何ごとかと顔を集める住民たちだ。
「当たってます、ワイドで。1,000円ですけど」
購入馬券は馬連でなく、実はワイドだという。
ワイドは1・2着、2・3着、1・3着を当てる馬券で、1着9番デアリングタクトと3着3番スマイルカナで的中していた。
ただ、賭け金は1万円でなく1,000円、ワイド3番9番の配当は2,880円、28.8倍で2万880円の払い戻しだ。
こんなことなんてあるのかという感じで住民たちは目を見開いた。
「夕食はお外にしましょうか」
スマホと賭け金の主である鞍さんがトレードマークのエプロンを脱ぐ。
「偶然が重なってますからね。1万円を賭けていたら、当たっていないのかと」
そんなもん、そんな気がすると鞍さんが感を披露した。
その感じは馬券を欲張って追加購入した時に的中しないのや気楽に小額を賭けた時に的中するのに似ている。
住民たちはそうかも知れないと感覚を理解し共有する。
「鞍さん。お寿司はどう?回らない方で」
冴が鞍さんにウインクを投げる。
「焼き肉。肉が食べたーぃ」
果凛が口をほころばし、犬歯を光らせる。
「あの、僕は…」
場の雰囲気に安堵した優に果凛の厳しい視線が注がれる。
「優に物言う権利があるのかよ?」
果凛が回し蹴りを一閃、眩しい太ももを覗かせる。
優は少しの眼福と心地良い痛みを堪能していた。
冴が昨日の濃厚チーズケーキを頂こうと提案すると果凛は二つ返事で賛成した。
「来週、皐月賞の予想大会が楽しみです」
鞍さんは満面の笑みで両手を大きく広げた。
このシェアハウスでの生活、競馬の予想大会を実施することに意義があると宣する。
「私も料理に腕を振いますから、優くんもデビュー戦を期待してくださいね」
そう言いながら鞍さんが『来週はもう一人シェアハウスの住民が増えますよ、仲良くしてくださいね』と付け加えた。
「ああ、あの子か。三月に一度シェアハウスに入居した…」と冴が思い出す。
「…新潟の実家に一度帰ったよね」と果凛が追従する。
「はい、明日に深川のシェアハウス戻るって連絡がありました」
シェアハウスは東京・深川、永代通りと葛西橋通りの間、平久川の側に位置している。
鞍さんが『仲間が加わります』と優に向く。
『どんな人なんですか』と問うが、鞍さんは『当日まで、ナイショ♡』と笑みを浮かべる。
「その方が面白いでしょ」
鞍さんはそう言うと『でも、優くんと性格が合うと思いますよ』とも補足した。
優はこのシェアハウスでの暮らしの始まりと仲間になる人物に思いを馳せる。
『その方が面白いでしょ』という鞍さんの台詞は、振り回される将来を如実に現わすことになる。
今週末の出来事は波乱万丈なシェアハウスでの騒動と競馬の序曲、オーヴァーチュアに過ぎなかった。
優がそれに気付くには、あと少しの猶予となっていた。


10万馬券と勘違いな桜花賞、了。


この小説はフィクションであり、過去および現在の実在する人物・組織・馬などにはいっさい関係ありません。


参考文献
楽譜がすぐ読める 名曲から学べる音楽記号事典 CD付き
監修 齋藤 純一郎
ナツメ社

ヘアゴム1本のゆるアレンジ
著者 工藤 由布
セブン&アイ出版

今さら聞けないヘアスタイル&ケアの正解
著者 宮村 浩気
主婦の友社
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