第2話 10万馬券と勘違いな桜花賞(2)

文字数 3,220文字

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その数時間前に話は戻る。

「鞍さん。今週は桜花賞、日曜日が待ち遠しいね」
果凛が嬉しそうにホテルベーカリー風のバターロールを口にする。
「今年もクラッシック開幕ですね、楽しみだねぇ、鞍さん」
そういう冴がフランスパンのシンプルな味を味わい深く噛みしめていた。
競馬のクラッシックとは桜花賞、皐月賞、オークス、日本ダービー、菊花賞の総称で歴史ある3歳馬だけのレースで、その盛り上がりには特別な感慨がある。

「ええ、本当に絶好の競馬シーズン到来です」
鞍さんと呼ばれた女性は端麗な顔に満面の笑みを湛えていた。
愛くるしい口からは競馬の季節の喜びを出すと、毛先が少しカールした栗色のセミロングを陽光になびいていた。
アラサーだというが、可憐で親しみやすい表情が優に向く。
お昼のパンも鞍さんのハンドメイドで、料理家事全般得意でもある。
「優くんも、このシェアハウスに住んで観る最初のG1ですね」
品のいいエプロン姿がよく似合う鞍さんに穏やかな笑みを向けられた優は耳朶を赤くすると、お手製のクロワッサンの味が分からなくなる。
『鞍さん』と呼ばれた女性は四月から大学一年の優が住むシェアハウスのオーナー兼管理人だ。
その彼女は優の父方の遠縁だが『幼い頃に会ったことがあるらしい』という曖昧な記憶が残る程度だ。
冴や果凛がシェアハウスの『女神』と崇めていて、その理由が分かる気がする。
今の鞍さんとはほんの数日前の出会いだが、優もその柔和で流麗な姿はまさに『女神』を仰ぎ見ていた。

4月11日土曜昼過ぎ、シェアハウスのリビングで住民たちは鞍さん手作りの絶品パンで昼食を過ごしていた。
そのシェアハウスは、冴や果凛も含め全員が競馬ファンだ。
オーナーの鞍さんが住民を直接面接して、選んで入居させてきた。
逆に言うと、競馬が好きな人間しかこのシェアハウスにはいない。
『日曜の桜花賞も期待ですけど』と前置きする鞍さんは悦ばしそうに冴を誘う。
「今日は土曜日で、競馬がありますよね」
「東西でメインはダブル重賞ですよね、確か…」
「…『阪神牝馬ステークス』と『ニュージーランドトロフィー』かな」
冴が明るく応えると果凛が鞍さんを覗き込む。
「どのレース買うんですか?」
「大穴」
鞍さんがこれでどうかと破顔を人々に向けた。
「鞍さん、大穴って…」
優は言い淀んで、真意を確かめようとする。
「万馬券、いや10万馬券でも当てましょうか」
そう宣言した鞍さんは『そうしたら、盛り上がるじゃないですか』と女神のような満面の笑みだ。
「さすが、鞍さん」
果凛は屈託のない声を上げると、鞍さんに抱きつく。
「優くん、いい予想をお待ちしていますね」
鞍さんの笑顔を向けられた側に拒否権はない。
「頑張ります!」
優は気合いを拡げ、首肯する。
分かったならよろしいと鞍さんも目を細める。
この時、今日土曜日が波乱の一日になるのを誰が知っていたのだろうか。
優はこれからくるあり得ない週末が過去になった時、そう述懐した。

縁側のある南側の庭からリビングへ注ぐ春の陽光は気怠さと眠気を誘う。
そのリビング入口付近、住人達の熱い目線が注がれる85インチ8K液晶テレビが壁に掛かり、競馬中継を待っていた。
L字ソファーには窓側短辺にはセーラー服の果凛、テレビが正面の長辺には濃紺ピンストライプパンツスーツの冴。
ソファーの右、オットマンにはグレーのパーカー姿の優が座る。
制服姿の果凛が、本来ならば土曜は高校で軽音部の活動日だったという。
冴は競馬が終わったら、夜に出かけて仕事だと顔を澄ます。
外出制限のご時世で、拳銃を持った美女が夜の仕事とは?優の関心が掻き立てられる。
昼食を終えた優はスマホを手にして『騎手名前の前にある◇』を目にする。
騎手の減量記号で、見習でない女性騎手は一般レースで定められた斤量から2キロ減という意味だ。
優はスマホをタップする動きを止めると、画面に写された出馬表を確認する。
鞍さんに『大穴レースの候補』と告げた。

「福島競馬第8レースの 4歳以上1勝クラス、芝2600mでファストライフはどうスか」
優が日曜の桜花賞でなく、中山や阪神でもなく所謂ローカルと称される福島競馬場でのメインレースでも特別戦でもない、一般レースを候補に挙げた。
そう、鞍さんが言った『大穴』のレースの予想だ。
「奈々ちゃんね」
「はい」
鞍さんが両手を叩くと優が同意の返事をして解説する。
「注目はファストライフです。前走は3番人気で5着でしたが、前々走の小倉の芝2600mは4着で勝ち馬から0.3秒差です。このクラスで通用する目処は立っています…」
現在、中央競馬に所属する唯一の女性騎手が騎乗予定だ。
「…出来は4月8日に美浦のウッドチップコースで奈々ちゃんが乗って調教…」
「ダイダイちゃん、頑張っている」と果凛が口元を緩める。
優も笑みを浮かべてして続ける。
「調教は『馬なり』で67.2-52.2-39.3-12.5です。出来は良いと考えられます」
美浦とは茨城県美浦村にある中央競馬での東のトレーニングセンターの略称の意だ。
トレーニングセンターとは競走馬の管理・育成施設で、中央競馬の場合、滋賀県栗東市の栗東トレーニングセンターと東西二カ所ある。
競走馬は美浦か栗東どちらかのトレーニングセンターで調教の責任者である調教師が経営
する厩舎に所属し調教を経て、レースに挑む。
優が選択したファストライフという競走馬は美浦厩舎所属だ。
そのファストライフの調教、所謂レースに挑む為のトレーニングについて、『馬なり』とは馬の走る気に任せて基本的には力を残している状態での調教で、反対に『一杯』とは力を出しきった調教といえる。
調教タイムだが左からゴール前から逆算して5F(1000m)、4F(800m)、3F(600m)、1F(200m)のタイムとなる。
今回のファストライフは1勝クラス、調教が『馬なり』5F(1000m)で67.2秒なら、まずまずのタイムだ。
因みに『F』はFurlongの意味で、ヤード・ポンド法の長さの単位で国際フィートに基づく場合、約201mとなる。
競馬を予想する上で、一般的には調教のいい馬をレースでも活躍する前提でピックアップしていくのが普通だ。
好調教が好結果に結びつくかと言えば、実際のレースは調教とは違い、馬場や展開、騎手の思惑など様々な要因が絡み、調教通りにならないことも多々ある。
これが競馬の複雑さで面白さでもあるが。
「でも斤量は1k増だしさ。奈々ジョッキー、怪我で休んでから勝っていないでしょ。」
首を傾げる果凛の疑念に冴が続く。
「しかも芝の長距離で実績ないしね。確か芝2400m以上はデビューしてから1勝で、芝2600mだと未勝利なのかと」
斜に構える冴の大丈夫か?に優が真顔で説明する。
「斤量は今回2k減です。確かに前走から1k増えていますが、減量のない馬より有利なのは変わりません。特に長距離戦は斤量差が影響受け易いと僕は考えています。馬の能力以上に評価されて人気になるのは彼女の場合、勝ち星が多い短距離です。今回は奈々ちゃんの騎乗実績の薄い芝の長距離戦でもあるためか、前走が1着馬との着差が1.5秒差だったのか、単勝人気は前走の3番人気から7番人気と落としています。これは逆に配当妙味があるではないでしょうか。人気がないと言っても彼女の騎乗を悲観するものじゃあないですよ。それに…」
「…長距離戦でも勝負になりますよ。今回が過去を変える時です。止まない雨はないです」
優の力強い言葉に皆、呆気に取られた。
鞍さんが優の肩に同意の意味で手を乗せると住民たちに目尻を下げる。
「ファストライフで行きましょう」
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