第40話 唄え!内山田洋子と熱きクインテット ヴィクトリアマイルの大合唱(8) 

文字数 2,676文字

「そういえば、ヒロコさんは?」
「どうなんだろうね、来ないのかね」
レース直前での緊張からか、ふとヒロコを思い立った惠に優が反応する。
「今日はさすがに、ヒロコは来ないんじゃない?」
昨今の状況だとはいえ、客商売で酒屋を営むヒロコに日曜午後は忙しいと冴が説明する。
「月曜日に来る気がするなぁ」
友人の来訪を嬉しそうに待ち構える鞍さん。
優と惠が表情を硬くすると、『合唱練習はないと思う』と慌ててフォローする。
「鞍さん、結局、馬券はどうしたんさ?」
ヒロコが苦手な果凛が彼女から話題を変えようとした。
ヒロちゃんや果凛ちゃんには悪いけどと前置きして鞍さんが昨日と変わらないと宣言する。
「アーモンドアイとサウンドキアラの馬連一点10,000円」
ダノンファンタジーやラヴズオンリーユーなどにこられたらゴメンナサイだ。
馬単にしないのは心配が胸中で囁いているからか、さっきのレースのハナ負けが何気に堪えているのか。
馬連1点買いを宣した鞍さんが見回すと、住民たちの納得顔に笑みを浮かべて安堵する。
テレビではスターターが車に向かって歩き始める。
スタートの時が近づいていた。

ゲートが開くと半分が先行争いでダッシュする。
アーモンドアイも普通のスタート、出遅れは鳴りを潜めているようだ。
トロワゼトワルがハナを目指すと、メジェールスーが続く。
その後に内ダノンファンタジー、外コントラチェック。
直後にサウンドキアラとアーモンドアイ、内でラヴズオンリーユーはアーモンドアイをマークか。
3、4コーナー、今度はコントラチェックが2番手、次にサウンドキアラ。
600m34.2秒。
アーモンドアイは4番手で4コーナーをカーブする。
直線、トロワゼトワルが先頭を頑張っている。
コントラチェック、サウンドキアラ、アーモンドアイの順番は変わらない。
ストレートを半ば過ぎ、外のサウンドキアラとアーモンドアイが内のコントラチェックとトロワゼトワルを躱しにかかる。
突き抜けたのはアーモンドアイ。
サウンドキアラがトロワゼトワル相手に苦戦する。
「「サウンドキアラ頑張れ-っ!」」
「キアラ、トワルを抜け-!」
「追ぇーっ!」
「よし、行けるぞ!」
住民たちは買った馬連の片方、3番手のサウンドキアラを鼓舞しだした。
もう、分かっているのだ。
アーモンドアイが復活したのを、心配と応援が要らないのを。
住民たちのアーモンドアイに対する『スルー』は最大級の賛辞と励ましで、それに応えるように騎手も後ろを振り返る余裕だ。
『差せ!差せ!差せ!差せ!差せ!』
住民五人の女声三部合唱、ソプラノ・メゾソプラノ・アルトのスタッカートがサウンドキアラへ共鳴する。
「よし、キアラが差した!」
冴が人心地を付く。
サウンドキアラが2番手に上がる。
だが後から迫る一頭が2着を伺う。
「ノームコア、来んなっ!」
果凛が悲鳴と共にツインテールを振り回す。
『あ、アーモンドアイがゴールした』
住民たちは再び、サウンドキアラに目線を注ぐ。
『残せ!残せ!残せ!残せ!残せ!』
悲鳴のようなスタッカートがここでも響く。
合唱練習はこの時のためのものだったか。
サウンドキアラが2着で決勝点を駆け抜けた。
『やったーっ!!!』
住民たちが飛び跳ねると馬連1点的中だった。
冴と果凛が抱き合って頬を寄せ合う。
鞍さんの胸に顔埋めた惠は頭を撫でられていた。
優は立ちすくんで、ゆったりとしたレントのような拍手を続けた。

「Bravo! ブラヴォー!」
テノールを発しながら、今度は速いヴィヴァーチェの拍手を送る。
「アーモンドアイね、優くん」
手を打ち続けながら、鞍さんに無言で叩首する。
住民全員がアーモンドアイのレースに思いを馳せ、悦に入り納得していた。
惠は両手を握りしめたままで目を潤ませていた。
「騎手がムチを使わなくても、追わなくても、関係ない」
冴がそう言うと、果凛も凄いモノを見せて貰ったと自慢のツインテールを上下に振る。
あの直線、最大関心事は馬連対象の2着争い。
「馬単の方がよかったですかね?」
優が鞍さんに問うた。
馬連だからこの結果なのと鞍さんは呟く。
「もう二度と目にすることはないでしょね…」
別に他の馬を貶める訳ではない、全ての出走馬に敬意を表し、アーモンドアイの栄誉を称える意味で敢えてこの『言い方』をさせてもらうわ、と続ける。
「…G1を『調教』の代りに、するなんて」
住民たちは数分前のアーモンドアイの直線を想起して、胸を熱くしていた。
「スピアー・タックル!」
アルトで歌うように技の名を口にして助走を付けた果凛が低い姿勢で優の腹に肩をぶつける。
優が腰を落とし、尻餅を着く、テイクダウンだ。
『何もしていないじゃないですか』と優が痛がりながら立ち上がろうとする。
「合唱するのも、名馬の凄い競馬を目の当りにするのも、馬券が当たるのも、技を繰り出すのも気持ちが良いもんだ」
『テンションだよ。ノリだよ』といいながら果凛が優に向けて起き上がるのを手助けすべく右手を出す。
『何なんですか、それ』といいながら応じてその手を握る。
馬券が当たってもこれじゃあ堪らないと嘆息を吐く。
プロレス技を繰り出す果凛だが小さくて柔らかい女の子の手なんだなと、握る手で認めると何故か顔が紅潮する。
立ち上がる優に惠が右足を一閃、足のスネに当たる。
「痛っ」
眉間に皺寄せる惠を見るが腕を組んだまま、そっぽを向いていた。
冴が三人のやり取りを『どうでもいいや』と足組し、ソファーの肘掛けで頬杖をついていた。
鞍さんはアーモンドアイの完全復活、馬券的中の余韻と共にシェアハウスのバカバカしい雰囲気を楽しんでいた。


第五章、了。


この小説はフィクションであり、過去および現在の実在する人物・組織・馬などにはいっさい関係ありません。


*参考文献
ワインといっしょに!81の美味しいレシピ
著者 植野美枝子
池田書店

知ればもっとおいしい!食通の常識 厳選紅茶手帖
紅茶厳選委員会(山本洋子+編集部)
世界文化社

必ず役立つ合唱の本
監修・執筆 清水 敬一
執筆 小針 絢子
ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス出版部

合唱指導テクニック 基礎から実戦まで
著者 清水 敬一
NHK出版

楽譜がすぐ読める 名曲から学べる音楽記号事典 CD付き
監修 齋藤 純一郎
ナツメ社

ヘアゴム1本のゆるアレンジ
著者 工藤 由布
セブン&アイ出版
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