第6話 10万馬券と勘違いな桜花賞(6)

文字数 2,440文字

****************************************

そして話は『阪神牝馬ステークス』のレース後へと進む。
『阪神牝馬ステークス』では優が的中馬券を間違えで買い損ねていた。

その土曜の夜、ダイニングで優は背伸びして体を解していた。
まだ、昼間に果凛からコブラツイストをかけられた痛みが残る。
シェアハウスの住民は鞍さんの作る夕食を無言で待っていた。
今日は軽めで月見うどんだという。

『競馬予想大会』がこのシェアハウスの名物だ。
G1前日夜に競馬好きのシェアハウス住民全員による競馬の予想大会だ。
鞍さんが腕を振う料理を肴に飲めや歌えの競馬談議が繰り広げるらしい。
『らしい』というのは、優がこのシェアハウスで初のG1が明日の桜花賞で参加したことがないからだ。
本来は今晩の『競馬予想大会』デビューするはずだった。
だが、珍しくG1前日の競馬予想大会はお流れとなった。
暗雲低迷のシェアハウス、主催者の鞍さんでさえ予想大会の中止を宣したくらいだ。
土曜日の競馬でハシャギ過ぎたりすると『やらないこともたまにはある』とは冴さんの話だ。
冴も果凛も週末の予想大会の中止は『何年か前にあったかな、忘れた』というレベルだ。

優がシェアハウスに住んで最初の週末、クラッシック競走の開幕である桜花賞の『競馬予想大会』がまさかの中止である。
まさに今日、土曜日は波乱の一日だった。
10万馬券を的中させた大興奮までは良かった。
だが、優が配当21万7千円の馬券を買い損ねる大トラブルは、住民たちをキリキリ舞いにしていた。
人は欲深い。
先に10万馬券の的中より、後の21万7千円の幻の方が堪えている。
その晩、夕食時には住民四人でうどんをすする音のみがダイニングに漂った。
優が10万馬券の主軸ファストライフを選んだ立役者ではなかったら、今晩はシェアハウスにいられなかっただろう。
『競馬予想大会』の『波乱含みの結末』は嫌な予感の通りだ、優は今を感取する。
鞍さんは来週の皐月賞、競馬予想大会を絶対にすると息巻いていた。

日曜の朝、ダイニングで住民たちの朝食を迎える。
鞍さんは土曜日を忘れましょうというようにテンションが高かった。
冴にレシステンシアとデアリングタクトの馬連を100万円買っちゃおうかと戯ける。
『いいんじゃない?』冗談だと分かっていても冴はそのテンションに乗り、シェアハウスの雰囲気を盛り上げようと協力する。
果凛も感情的になって乱暴して悪かったと優に謝った。
優もスマホの操作ミスによる馬券の買い間違いを住民たちに詫びる。
鞍さんは気丈にも大丈夫よと言いつつ、スマホでのネット投票の操作を優に願い出る。
彼に対する思いやりは、皆のささやかな認知を得てはいる。
なんとなく、住民連中はお互いに薄ら笑いをし、取り繕うように距離を測っていた。
こういう時に限って、波乱は向こうから襲って来る。
『桜花賞』の『波乱含みの結末』
まだ、誰もそれは分からない、ほんの少し先の話だった。
 
日曜午後、テレビは桜花賞のゲート前の輪乗り運動を映していた。
住人四人は発想直前の桜花賞を放心して眺める。
G1のゲートイン直前なんてゴール前の接戦に並ぶくらいのドキドキがある、はずだった。
今、テレビの前では桜花賞出走各馬のゲートインが始まる、奇数番から偶数番へ。
ところが、だ!
冴は脱力して肩を落としていた。
鹿の子ワンピース着ていた果凛は怒気を含めて腕組みをし、一人の男に目線を刺す。
意識の先の優は縮こまっていて、鞍さんの憐憫の目線がもの悲しい。
ほんの一分前まで、鞍さんは心を砕きながらリビングを盛り上げていた、だが。
「また、馬券を買い間違えやがって…」
果凛が繰り返し三度目の台詞を吐くと、鞍さんが優しく肩を撫でる。
やっと浮かべる笑みで、落ち着いて静かにねと右手の人差し指を立てて口を塞ぐ。
レースが始まるからなのか優に配慮してなのかは分からないが。
鞍さんの結論は9番デアリングタクトと17番レシステンシア、馬連一点1万円となる。
鞍さんのポリシー上、一つの買い目の上限は原則1万円だ。
優は鞍さんのスマホを操作し、9番人気の3番スマイルカナと2番人気の9番デアリングタクトを買っていた、いや、買い間違えていた。
馬連一点1万円を、だ。
本来は果凛のピックした17番レシステンシアと冴の一押しの2番デアリングタクトだ。
気づいたのはスマホの持ち主である鞍さんがふと購入履歴を確認した時だった。
返し馬を見てから締め切り直前で投票したのがいけなかったのだろうか。
優は『9番デアリングタクト』と『9番人気』を意識したという。
『9番デアリングタクト』を押した後、『9番人気スマイルカナ』の『3番』を押してしまったとのことだ。
スマイルカナも逃げ先行馬でレシステンシアとイメージが被って気付かなかったということだ。
焦って、そう操作したと、優は言い訳した。
理解し難く、何でそんなことするの、というレベルだ。
鞍さんの優に対する配慮が裏目に出た。
スマホでのネット投票、馬鹿みたいに再び買い間違えるとは。
締め切りの後では、馬券が追加で買えるはずもなく、冴を失意のどん底へと突き落とした。
果凛が優の後ろから首に腕を回し左右を挟み、プロレス技、スリーパーホールドを実演するのが精一杯だ。
鞍さんがその狼藉を止めに入ったのは言うまでもない。
ただ、咳き込む優の苦しみは暫く続いていたが。
レース前、果凛と冴は偶然にも縁がある馬を吟味する。
「スマイルカナねぇ。先行して自分の競馬が出来ればだけど」
果凛は賭けた馬に淡い期待を抱く。
他馬に邪魔をされずにマイペースで先行できるかがポイントだという。
冴はダメと思う時に案外上手くいくかもと肩を叩いて果凛を励ます。
優から取り上げた鞍さんのスマホを手にして、冴はゲートが開くのを黙って観ていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み