第34話 唄え!内山田洋子と熱きクインテット ヴィクトリアマイルの大合唱(2)

文字数 2,369文字

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その五日前、2020年5月11日月曜に話は戻る。

「鞍さーん、日曜のNHKマイル、どうだった?」
内山田洋子はシェアハウスの引き戸を開け放つなり、言い放つ。
黒いショートボブをバンダナで覆い、ジーンズに白いTシャツから出る日焼けした腕は男並みに頼もしい。
5月11日月曜午後、シェアハウスは誰も返事をしない。
「ヒロコだよー。注文のワイン、持ってきたよー」
勝手知ったるキッチンの左側、百本入るワインセラーにシャルドネの白を三本、メルローの赤を三本、隙間に押し込む。
帰りがけ、リビングのソファーが目に入る。
『今週はヴィクトリアマイルか、たまには週末の予想大会に参加してみるか』
そう思う洋子は長いソファーに身を投げ、『二十二歳はまだ若いけど、最近配達が多くて疲れるな』を吐くと、瞼を重くすると天井が消えた。

「ほら優、先に行く」
惠は両手で掴んだ両肩を後ろから押した。
足元がおぼつかない彼女から『リビングから女性の囁く歌声、素敵だけど哀しそうな恋の唄が聞こえる』と言われ、部屋から引っ張り出されていた。
「行くよ。先に行くから、押さないで」
背中の圧力に根負けした優がリビングに宣言した。
三人掛けのL字ソファー長辺に若い女性が寝ながら、綺麗な声で歌っていた。
優と惠は顔を見合わせ『知っている?』と首を横に振り、『知らない人?』と縦に首を振る。
若い女が素早く起き上がると、しなやかに両手を優の背中に回す。
ネコがネズミを狩るが如く、獲物を放さないぞと、腕が締め上げられる。
『ギャーっ』と優の驚きの叫び。
『嫌―っ』と惠の恐れの大声。
リビング一杯に二人の美爆音が響き渡る。
「二人ともいい声、してるねぇー」
優と惠の肺活量を確認した彼女は音質も嬉しそうに絶賛した。
「あら、ヒロちゃん」
外出からの帰りでマスクを取りながら『いらっしゃい』という鞍さん。
嫌そうに驚く果凛が買い物袋をぶら下げながら、それぞれに洋子を認めた。

「この子たち、新人さん?」
洋子は優に抱き付き、両手で背中を叩きながら、あごをしゃくる先の惠が無言で首肯する。
「そうなんだ。ねぇ、君。どうだった?NHKマイルカップ。鞍さん、負けたんでしょ?」
見知らぬ女性に競馬の話を振られた優が『えっ?』と戸惑いをみせる。
『ディリーワインだったんだから。勝ってたらシャブリとかサンテミリオン、フランス銘醸地の注文だったはず』と洋子は額を着けて『白状しろ』と念を押す。
驚きで口を広げた惠は洋子と優を震えながら指さしていた。
「ヒロちゃんの言う通りよ。外れちゃった」
鞍さんが『レシステンシアは買っていたけどね』と、女神の息吹を吐く。
「じゃあ、冴に騙されて差し馬を買ったんでしょ?」
『冴さんは差し馬好きだからね』という洋子は『君も後からの馬を買ったの?』と優を見透かす。
「まあ、サトノインプレッサかな」
鞍さんは苦笑交じりで白状する。
『先行馬には目を付けていたけど』と果凛が残念がる。
「果凛ちゃん、いたぁ」
お久しぶりと言いながら、今度はネコ科の俊敏さで洋子は果凛に背後から抱き付く。
とっさの行動で運動神経がいい果凛の防御が間に合わない。
華奢な果凛を後から抱き締めて、前に回した手で脇から胸の大きさを推し量る。
『相変わらず可愛い胸だねぇ』と満足する洋子に果凛は金髪ツインテールを『ヤメロ、ヒロコ』と左右に振る。
顔を赤らめた果凛の態度に『お構いなし』の洋子は頬ずりを始める。
「先行馬有利の状況で、前行く馬のチェックを怠ったのが鞍さんの敗因だよね?」
ニヤリと笑って問うと『果凛ちゃんは先行馬好きだよね』と同意を向ける洋子。
「そうだよ。だけど、先週は鞍さんも冴姉もオレの言うこと聞きゃしねぇ」
少し残念そうな果凛が吐き捨てるように言う。
「可愛そうに、慰めてあげるね」
果凛の顎を右手で軽く浮かす洋子。
果凛の目が見開かれる。
目を捉え切り、果凛を動けなくすると顔の影を落とす。
瞳を潤ませる洋子と果凛。
「痛って」
洋子が振り返ると、丸めた新聞紙を軽く掌で叩き、振り下ろす準備万端な鞍さんがいた。
「ウチの新人さんにちゃんと挨拶しませんか」
「う、ウチヤマダヒロコです。鞍さんとは幼馴染で。豊洲でワインと輸入食材がメインの店やっています。それで…」
ヒロコは美声を響かせ、優と惠に挨拶して、提案を述べる。

「…合唱しませんか」
「いいわねぇ」
手を叩きながら二つ返事の鞍さん。
「合唱って何ですか?」
「俺たちも合唱するんですか?」
驚き目を見開く惠と優。
「新人さん、何ごともチャレンジだよ」
右手を突き出して親指を二人に立てるヒロコに意を同じくするスマイルをみせる鞍さん。
出たよ、このシェアハウスの悪乗り大会が。
呆れ顔の惠と優はお互いを無言で慰め合うと、『仕方ないじゃん』と果凛は肩を落としながら呟いた。

「なんだ、二人、ヒロコに会ったんだ…」
ダイニングに優と惠を揶揄した冴の大笑いが響く。
ウチヤマダヒロコの突風が残っている数時間後、ダイニングで住人五人は夕食だ。
「私とはヒロちゃんが物心ついた時からのお付き合いでね」
鞍さん曰く、ヒロコの家族が一時期不和で、彼女と母親は親戚を頼って高校生活3年間を京都で過ごし、後に和解して東京・深川に戻ったという。
京都がどうこういう訳ではないが、思うところはあっただろうと、冴が想像する。
その頃、ヒロちゃんは淀、京都競馬場で関東馬を応援して無聊を癒やしていた、とは鞍さんだ。
冴が思い出していう。
「彼女、高校は合唱部でコーラスが好き。好きが高じてシェアハウスの住人に合唱を教えたがるんだよ」
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