第97話 10日目④おっさんは寒冷地の海でのサバイバルを教える

文字数 5,134文字

 昼頃に一度小降りになった雨だったが、その後再び土砂降りになった。

「もう今日は1日こんな感じかな?」

 拠点の入り口から空を見上げながら俺がそう言えば、美岬も拠点の中からチラッと外を見てうなずく。

「そっすねー。植物にはちょうどいいお湿(しめ)りっすけどね。ただ……こんな豪雨の日はやっぱり、あの嵐の海を思い出すっすね」

「…………」

 あの九死に一生を得た嵐の海での記憶が蘇ったのか、美岬が青ざめた顔で、両手で自分の肩を抱いてブルッと震える。あれは確かにトラウマになってもおかしくない壮絶な経験だったな。

 俺は拠点の奥に戻って岩壁を背にして膝を立てて座り、美岬をちょいちょいと手招きする。

「美岬、今なら特等席が甘やかし付きで空いてるぞ?」

「ワァオッ! エックセレントッ!!

「オゥケイ! カモン! ……って、なんでやねん!」

「あはは。やー、なんとなく? でもちゃんと合わせてくれるそーゆーとこ大好きっす。ではではっ、お言葉に甘えて……」

 満面の笑みでいそいそと近づいてきた美岬が、俺の立てた膝の間に座ってそのまま背中を預けてくる。
 俺は美岬の肩越しに手を回して彼女を背中から抱き締め、頬を寄せた。

「……おぅ…………やばいっす。なんすかこの包み込まれるような安心感。ちょっと癖になりそうなんすけど」

「そりゃあ美岬を甘やかすためだけの特別仕様だからな」

 耳元で囁くと美岬が悶える。

「はうぅ……これはきゅんきゅんがやばいっす。正面からの普通のハグも好きなんすけど、この後ろから抱き締められるのは……なんかもう、愛されてる感がはんぱないというか、多幸感がすごいっすよぅ」

「……それで、嵐はまだ怖いか?」

「ほえ? ……あ、いや、幸せすぎてどうでもよくなってたっす」

 強がっているような素振りはなく、俺に抱き締められたままの美岬には、もうさっきまでの不安そうな様子はない。
 もしかしたらあの嵐での体験が心的外傷後ストレス(PTSD)になって嵐を異常に恐れるようになってやしないかちょっと心配していたのだが、どうやら取り越し苦労だったか。
 そのことを説明すれば、美岬がにへらっと笑う。

「へへ、ダーリンは心配性っすねぇ。んー……確かにあの嵐は怖かったっすし、もう死ぬかもーって何度も思ったっすけど、思い返すと恐怖よりダーリンと一緒に乗り越えたっていう印象の方が大きいんで、あたしとしてはそこまでトラウマにもなってないと思うんすよね。思い出して身が竦んでパニクるほど怖いわけでもないっすし」

「そかそか。美岬が大丈夫ならいいんだ」

 美岬を抱き締めていた腕をほどくと、美岬は俺にもたれ掛かったまま、こてんと頭を後ろに倒して俺の胸に当て、下から俺の顔を見上げてくる。

「……なんか、あたしたちってなんだかんだで運はいいっすよね?」

「……なに言ってんだか。運がよかったらそもそもこんな状況になってないだろ。船は沈むわ、流されるわ、台風は直撃するわ、筏はロストするわ、無人島に閉じ込められるわ……運の良し悪しで考えるなら、めちゃくちゃ運は悪いだろ」

「お、おうふっ……言われてみればあたしたち運悪すぎっすね。でも、それでもこうして生き延びているのはある意味運がいいのでは?」

「……ああ、そういうことか。こういうのは悪運が強いっていうんだろうな。それに運だけじゃなくて自力で生き延びる選択肢を掴み取ってきたからこそ今がある、と俺は思ってるぞ」

「あー……悪運っすかぁ。確かに。それに……諦めなかったから今があるのもそうっすね」

「絶体絶命と思えても諦めなければなにかしら生き延びる手段はあるもんさ」

 俺が確信を込めてそう言うと、美岬がなにやら考え込む。

「…………ねえガクさん、今、なんとなくゴールデンウィーク前の北海道での遊覧船沈没事故が脳裏に(よぎ)ったんすけど……もしあの場にガクさんがいたら、結果は違ってたんすかねぇ?」

「……あれか。あれは酷すぎたな。完全に人災。巻き込まれた人間は本当に気の毒だった」

 整備不良の遊覧船が周囲の反対を押し切って荒れた海に出たが、船体に浸水して航行不能になって沈没し、救命ボートも積んでいなかったので全員が雪解け直後の冷たい海に投げ出され、乗員乗客合わせて30人近くが低体温溺水で亡くなった痛ましい事件。陸地のすぐ近くでの事故であり、船が沈みそうだというSOSが発信されてすぐに救助活動が開始されたにもかかわらず、誰も助からなかった、あまりにも異常な海難事故として記憶に新しい。

「たらればを言い出したら切りがないが、あれは判断ミスによるヒューマンエラーがいくつも重なって最悪の結果に繋がった感じだったな。俺もニュースで見てたが、事故の発生後でも判断を間違えなければ助かる命はあっただろうに、とは思ったな」

「もし、ガクさんがあの時あの場所にいたらどうしたっすか?」

「俺ならそもそもあの船には乗らんな」

「えー、そいつを言っちゃあお終いっすよ」

「『君子危うきに近寄らず』とか『賢い者は危険に気づいて身を隠す』という(ことわざ)にある通り、もしあの場に俺がいて、遊覧船に乗る予定だったとしても、あれだけヤバい兆候が出てたらキャンセルしただろうな」

「ちなみに乗船をキャンセルするべき条件ってなんすか?」

「まず、他の観光船や漁師たちが出航を中止してるってことだ。1隻だけ予定通り運行してるラッキー! じゃなくてなんで他の船は運行を取り止めたのかを考えるべきだよな。せっかくの稼ぎ時に商売をしないには必ず理由があるし、中止を決めた観光船や釣り船は必ず理由を説明してるはずだから情報を知る機会はあったはずだ」

「なるほど」

「それと今は個人のスマホで波や風の予報は簡単にチェックできる時代だからな。20㌧かそこらの小さい船だと波や風の影響をもろに受けるから海が荒れたら観光なんてとてもじゃないが楽しめない。沈没まではさすがに予想できないだろうが、観光を楽しむことが目的なら、海が荒れる予報の時に小型船に乗るなんて選択肢はないな」

「あー、船酔いは辛いっすもんね。あたしらが乗ってた大きいカーフェリーでもあんなに揺れてたんだからもっと小さい観光船ならなおのことっすね。……海が荒れる予報の時は船に乗らないというのは分かったっす。でも、予報に反していきなり天気が急変することもあるっすよね」

「まああるな」

「参考までに、あの観光船事故が発生した時にその場にいたら、どうすればよかったんすかね?」

「んー……まず船の船長と甲板員は、船の浸水が始まった時点で船を少しでも陸に近づける努力をするべきだったな。一度浸水が始まったら自然に止まることは絶対にないし、いずれエンジンがやられて航行不能になるから、エンジンが止まるタイムリミットまでに少しでも陸に近づけて、座礁させてでも着岸を目指すのが最優先だった。そもそもあの観光船は陸から1㎞ぐらいの距離を航行してたんだから」

「あー、着岸までは出来なくても浅瀬で座礁すればそれ以上は沈まないっすもんね」

「船を陸に向けたなら、使える手段を全部使って救助要請と位置情報の発信だな。それと同時に落水への備えだ。4月の北海道の海水温は5℃以下だ。普通に水に浸かったらあっという間に体温が下がって低体温症になって、ほんの数分で意識を失うことになる。だから救命ボートや筏が無い状態で海に入るのは本当に最後の手段だし、その場合、少しでも長く生き延びれるように体温を下げない工夫が必要だ」

「救命胴衣だけじゃ駄目なんすね。でも、どうやって体温を維持するんすか?」

「まず前提条件だが、気温が10℃かそこらの春の北海道、小さい観光船は普通でも波しぶきをけっこう浴びるということを考えると、そんな船に乗る人間はかなりの厚着をしていて、カッパやポンチョなんかの着れる雨具、使い捨てカイロなどの携帯暖房器具、熱い飲み物の入った水筒ぐらいは持ってると思うんだ」

「……確かにそれぐらいは持ってる可能性高いっすね」

「まずは使い捨てカイロ、特に貼るタイプがいいが、それを太ももの内側と脇の下に貼り付ける。そこの皮膚の下には心臓に戻る太い静脈があるからそこを温めるのは低体温症対策として大きい」

「まずは体温を上げるんすね」

「それから可能な限りの厚着をする。服に含まれる空気の断熱効果は馬鹿にできないからな。特に水鳥の羽毛(ダウン)には撥水性があるからすぐには水は染みてこないし、外側の素材がレザーや合皮だったら防水性も高いからおすすめだな。そうして厚着をした上に雨具を着て、首、手首や足首や関節部などの何ヵ所かを縛ることで内部の服に水が浸透するのを遅らせるんだ。それからその上に救命胴衣を装着すれば、それだけでも数時間は海上で持ちこたえられるはずだ」

「なるほど。たっぷり空気を含んだ乾いた服の上から防水性のある雨具を着て、水が入ってこないように首もとや袖やすそを縛ることで中が濡れないようにするんすね」

「ドライスーツじゃない以上、だんだん中に水は入ってくるが、それでも一気に冷やされるよりはましだし、ちょっとずつ入ってくる水は体温で温められて冷たい外側の水と身体の間で断熱材になるからかえって身の守りになるんだ。といっても遅延効果しかないし、使い捨てカイロは濡れたらアウトだからじわじわ体温は下がっていくけどな。救命胴衣を着てるなら、水に浸からない上半身に使い捨てカイロを集中させるのもありだ。そして、そんな時に熱い飲み物があれば体内から温めることができるからさらに長く持ちこたえることができるな」

「確かに着衣水泳とかしてる時も服と肌の間にある水ってちょっと温かいっすもんね。そういう水をうまく利用するのも大事なんすね」

「あとは漂流中の体勢だ。なるべく熱が奪われないように、身体を伸ばすんじゃなく、水中にある足を揃えて体育座りみたいな体勢にするんだ。これはヘルプ体勢といって海に落ちた飛行機パイロットが救助を待つ間にする長く持ちこたえられる体勢だ。自力で陸まで泳ぐなんて論外だな。そんなことしたらあっという間に服の中に水が入ってきて熱が奪われて動けなくなる」

「はー、なるほど。やっぱりガクさんならあの沈没事故に巻き込まれたとしても普通に生き残れそうっすね」

「それはどうだかな。これはあくまで救助を待てる時間を延ばすだけでしかないから、間に合わなかったら死ぬし、実際に海保の現着も事故から3時間後だったからかなり分の悪い賭けになるだろうな。それでも可能性が残るだけましではあるかな」

「なんであの観光船にはこういうサバイバルの知識のある人が乗ってなかったんすかねぇ」

「それはむしろ当然かな。最初に言ったとおり、サバイバルの基礎は危険を予測して事前に避けることだ。そういう知識がある人間なら乗る前に危険を予測できるから、最初から乗らんだろうよ」

「……うわぁ。明らかに危険な時に無理して観光船を運用することが、どれだけヤバいことなのか改めて理解できたっす。船そのものが危険にさらされるリスクに加えて、いざ事故が起きたときに助かるための知識を持った人間が乗船拒否してるんじゃ、助かる命も助からないっすよね」

「そういうことだな。……じゃ、ぼちぼち作業に戻ろうか」







【作者コメント】
寒冷地での海のサバイバルはいかに服を濡らさずに体温を維持するかが最優先です。また、自力で陸まで泳ごうとすると体温で温まった海水が服から抜けて冷たい海水と入れ換わってしまい急速に低体温症が進んでしまうので自然に陸に近づくまでは動かないことが大事です。

その事を踏まえて、本文中での対策以外に備えとして持っておくことをおすすめしたいアイテムは岳人たちも愛用している断熱シートとセームタオルですね。

特に断熱シートは真ん中に穴を空けて頭を出し、身体を前後から挟んでベルトでしめれば原始的な貫頭衣のようになり、熱の遮断と保温効果が期待できますし、一番外側に身に付けているなら目立つので航空機から見つけてもらいやすくなります。100均でも売っているので是非備えとして持っておきたいですね。最近はポンチョタイプもあるようです。セームタオルは絞ればすぐに吸水性が復活するので水から上がれた後で身体を拭くのに役立ちます。

もちろん、水に入るのは最後の最後です。水に入った瞬間から死亡へのカウントダウンが始まりますので。もし浸水から沈没までに時間の余裕があるのなら、船の浮材をかたっぱしから繋ぎ合わせて筏を作るのが最優先ですが、その時間がなさそうならまず上記の方法をしたらいいでしょう。雨具がなければラップを服の上から巻くのもありです。

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登場人物紹介

■名前/谷川 岳人(たにがわ がくと)

■年齢/36歳

■職業/調理師、ジビエレストラン経営者、バックパッカー、コラムニスト、山岳ガイド、遭難者捜索ボランティア

■別名/シェルパ谷川、サバイバルマスター

■人物紹介/僻地の別荘地でジビエレストランを経営する傍ら、山岳ガイドや遭難者捜索ボランティアをしている。以前はバックパッカーとして世界中を旅してシェルパ谷川というペンネームでアウトドア雑誌に紀行文を連載していた。サバイバルマスターという呼び名はその頃についたもの。家族や親しい人たちを全員亡くし、失意の中で一人旅をしている時に美岬と出会う。



■名前/浜崎 美岬(はまざき みさき)

■年齢/17歳

■職業/高校生、農大附属高校2年、コンビニ店員、有用植物研究会所属

■人物紹介/離島出身で本土の農大附属高校に一人暮らしで下宿しながら通っている。仕送りが少ないのでコンビニでバイトしている。過疎化、高齢化が進む故郷の島の村おこしのために名物になりうる作物を研究するために農大附属高校に入った。大学生メインのサークル『有用植物研究会』に所属しており、パイオニア植物が専門。中学までは歳の近い子供がいない島の分校で学んだため、同級生との接し方が分からず、クラスでは孤立しており、ややコミュ障。盆休みに実家の島に帰省する途中の船で岳人と出会う。岳人のコラムは昔から愛読していた。

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