第31話 5日目①おっさんはトキメく

文字数 3,034文字

 何一つ見えない暗闇の中で絶え間なく打ち付ける激しい横殴りの雨。カルデラの外縁山に叩きつける波の音。夫婦岩にぶち当たった高潮の波飛沫が風に乗って岩を飛び越えてその風裏にいる俺たちの筏に容赦なく降り注ぐ。

 真っ暗闇の嵐の海がこれほどに恐ろしいものだとは想像もしていなかった。あらかじめ聞いていたとしても、実際に経験するまではこの恐ろしさの十分のーも想像出来なかっただろう。

 現在は早朝の3時を少し回ったぐらいで、干潮が終わり、再び潮が満ちつつあるというタイミングだ。俺と美岬は夜明け前の最も濃密な闇の中で波に揉まれて激しく上下する筏に並んでうつ伏せにしがみついて嵐に耐えている。
 台風の接近前に筏の各所に作っておいた握り輪がなければとっくに振り落とされていたことだろう。

「ゴボッ!? げほげほっ」

 前触れなく頭上から襲い掛かってくる高潮は雨と違ってバケツの水を一気にぶちまけられるぐらいの水量が一気に来る。運悪く息を吸い込んだ瞬間に水を被ってしまった美岬は()せて咳き込む。俺は美岬の背中に手を伸ばしトントンと軽く叩く。

「大丈夫か?」

「……げほっ……だ、大丈夫っす。でもこれはしんどいっすね」

「なにも見えんからな。せめて息を吸うときは顔を伏せるしかないな」

「……なにも見えないって、めっちゃ怖いんすね。さっきから震えが止まんないっす」

 美岬の声が震えている。

「この距離でも顔の輪郭も見えないぐらいの本当の闇だからな」

「……え? ちょっ?」

 俺は美岬の背中に触れていた手をそのまま伸ばして美岬の肩を掴んで抱き寄せた。そのまま四つん這いで美岬の背中から覆い被さるような体勢に移行し、両手でしっかりと筏の握り輪を掴み、親鳥が雛を自分の翼の下に保護するイメージで美岬を俺の身体の下に収める。

「……大丈夫だ。美岬のことは俺が全力で守る」

「ひゃっ!? ひゃいっ!!」

 美岬の耳元で囁けば美岬がビクッとなって硬直する。ああ、そうか。この体勢は……。

「……心配するな。何もしない」

 安心させようとそう言うと、美岬からガクッと力が抜け、やけに冷めた返事が返ってくる。

「……そんなこと最初から心配してないっす」

「……そ、そうか」

 美岬が呆れ混じりの声で続ける。

「……はぁ、ガクさんは乙女心が分かってないっす。勘違いしてほしくない大事なことなんで恥を忍んであえて言うっすけど、あたしはガクさんに怯えてるんじゃなくてっ! こんな状況なのに、大好きなガクさんに床ドンされて密着した状態で耳元で甘い言葉を囁かれてトキメキでキュンキュンになってるだけっす!」

「おぅうっ!?」

「あたしは、ガクさんのことを本当に信頼してるんすよ? ガクさんがこの嵐に怯えているあたしを安心させようと抱き寄せてくれたことも、この嵐から身を呈してあたしを守ろうとこうしてくれているのもちゃーんと分かってるっす。……そんなガクさんの優しさを勘違いして怯えてるなんて思われるのは心外っす! あんまりあたしを、自分の彼女を見くびらないでほしいっす!」

「…………」

 やばい。この嵐の只中で必死に筏にしがみついて踏ん張っているというのっぴきならない状況なのに、美岬の言葉が嬉しすぎて口元がにやけそうになるのが抑えられない。
 美岬のことが愛しすぎて自分の気持ちを抑えるのに苦労する。この状況じゃなかったら間違いなく美岬を思いきり抱き締めていただろう。

「…………美岬、お前は、またそうやって俺を喜ばせる」

 俺がなんとか絞り出した言葉の意図を正確に察した美岬が嬉しそうに笑う。

「ふふっ、もしやトキメいちゃったっすか? でもあたしもガクさんのナチュラルなイケメン行動に毎回キュンキュンさせられてるからおあいこっすよ」

お互いの顔も見えない暗闇で、しかも美岬は俺に背中を向けているにも関わらず、美岬がしてやったりとニンマリしているのが容易に想像できる。

「あーもう、お前はほんっとうに可愛いな! ……俺をここまで本気にさせたんだから覚悟しておけよ。あとで徹底的に甘やかす!」

「ちょ、どういう脅しっすか!? 甘やかすという言葉に背筋がぞわっとしたっすよ」

「大丈夫だ。俺は昔から有言実行だ。言ったからには脅しで終わらせずに徹底的に甘やかすから楽しみにしておけ」

「そんなこと聞いてないっすけど! 甘やかすって言葉から不穏なものしか感じないんですけどっ? うぎゃっ!? げほげほっ」

 再び頭上から降ってきたバケツをぶちまけたような高潮。顔だけこちらに振り向いていたらしい美岬がどうやらまたもろに被ったらしい。

「……大丈夫か?」

「……げほっ。……ぷっ、くくくくっ」

「どうした? 何がおかしい?」

「くくっ、あんなに怖かったはずの高潮を一瞬とはいえ水被る瞬間まで忘れてたのがおかしくって。こんな大変な状況なのに、ガクさんがどうやって甘やかしてくれるのかって方に気を取られるあたしって実は余裕なのかな、と思っちゃったんす」

「……それに共感できてしまう俺も似た者同士なんだろうな。でもな、極限状態で笑えるってのは大事だぞ。生きるモチベーションになるからな」

「それは実感してるっす。少なくともあたしはまったく諦めてないっすよ」

「いいぞ。その調子だ。それにこの感じからすると台風は明日、というか日付変わってるから今日一日が山場になるはずだから、こんな真っ暗な嵐の海に耐えるのは今夜だけだ。台風の最接近そのものはこれからだと思うが、それでも周りが明るくなってくれば恐怖も少しは和らぐ」

「そっすね。真っ暗でさえなければもうちょっと気持ち的にはましっすよね。でも、この次の満潮のピークは朝の6時台のはずっすから、もしかすると満潮のピークと台風の最接近がブッキングする可能性はあるっすよ?」

「……あー、そうなるよな。じゃあそこが一番の正念場になりそうだな。とにかく次の満潮をなんとか乗り越えて、台風のピークさえ過ぎれば救助も来てくれるはずだ。あと2時間もすれば夜明けだ。……もうしばらくの辛抱だ」

 今日中の救助というのは無理かもしれないが、台風さえ通過してくれればこのカルデラは理想的な泊地だからここに留まり続けることに特に問題はないし、明日には救助もくるはずだ。

「具体的な時間目標あるって大事っすね。……あ、でも今はこうしてガクさんにすっごく守られてる感があるっすからもうそんなに高潮にも怯えてないっすけどね」

「そうか。それならいいけどな。……少し明るくなってくるまではこうしているぞ」

「あざっす」

 美岬の身体の震えも収まっているからあながち強がりでもなさそうだ。美岬は何気にこの密着した状態を喜んでいるようだが、俺としても自分の腕の中に美岬が収まっているこの状態は悪くない。これなら俺が気づかずに美岬が海に転げ落ちるということは絶対に無いからな。









【作者コメント】

 極限状態で笑えるというのは実はすごく大事なことです。
 前述の漂流実験のアラン・ボンバール医師が実際に直面した事例として、海難事故が発生して、漂流している救命ボートに二日後ぐらいに救助隊が駆けつけたところ、ピンピンしている人がいる一方で、水も食料も余裕があるにも関わらず、何故か衰弱死している人もいたそうで、死因は『絶望』と結論付けられたそうです。心の状態が体に及ぼす影響については未解明な部分も多いですが、日本にも『(やまい)は気から』という言い回しがあるように、心の状態が生きる力に作用するのは確かにあるんでしょうね。


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登場人物紹介

■名前/谷川 岳人(たにがわ がくと)

■年齢/36歳

■職業/調理師、ジビエレストラン経営者、バックパッカー、コラムニスト、山岳ガイド、遭難者捜索ボランティア

■別名/シェルパ谷川、サバイバルマスター

■人物紹介/僻地の別荘地でジビエレストランを経営する傍ら、山岳ガイドや遭難者捜索ボランティアをしている。以前はバックパッカーとして世界中を旅してシェルパ谷川というペンネームでアウトドア雑誌に紀行文を連載していた。サバイバルマスターという呼び名はその頃についたもの。家族や親しい人たちを全員亡くし、失意の中で一人旅をしている時に美岬と出会う。



■名前/浜崎 美岬(はまざき みさき)

■年齢/17歳

■職業/高校生、農大附属高校2年、コンビニ店員、有用植物研究会所属

■人物紹介/離島出身で本土の農大附属高校に一人暮らしで下宿しながら通っている。仕送りが少ないのでコンビニでバイトしている。過疎化、高齢化が進む故郷の島の村おこしのために名物になりうる作物を研究するために農大附属高校に入った。大学生メインのサークル『有用植物研究会』に所属しており、パイオニア植物が専門。中学までは歳の近い子供がいない島の分校で学んだため、同級生との接し方が分からず、クラスでは孤立しており、ややコミュ障。盆休みに実家の島に帰省する途中の船で岳人と出会う。岳人のコラムは昔から愛読していた。

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