第43話 5日目⑫おっさんは世界中の文化を島に取り入れることにする
文字数 3,684文字
みぞれ鍋と和え物を綺麗に平らげてすっかり満ち足りた俺たちだったが、まだやることがあるからこのまま まったり寛ぐわけにはいかない。
食事中に話していた、植え付け前に発芽させておいた方がいい種をビニール袋に入れて水に浸けこむ作業は美岬が今やってくれている。
俺はといえば、別の作業にかかりきりになっている。当初は今美岬がやっている作業を手伝うつもりだったのだが、美岬からこっちの作業を優先して欲しいと言われてやっているのは石鹸 作りだ。大量に作るのは材料的に無理だが、とりあえず明日の洗濯など当面の必要を賄う分だけなら手持ちの材料と道具でなんとか作れる。洗うだけなら灰でもいいが、使い勝手を考えると石鹸の方がいいからな。
石鹸の材料は油と強アルカリ性の溶液だ。両者が混ざり合うことで化学反応により鹸化 が進み、出来上がったクリーム状の鹸化物質から水分を抜けば石鹸になる。
油は手持ちのオリーブオイルがあと30ccぐらい残っているからそれを使い切る。強アルカリ性の溶液は、焚き火の燃え尽きた灰と水を混ぜて出来た木灰液を不織布で濾せば作れる。
この材料で作る石鹸は、シリアのアレッポで大昔から作られている伝統的なオーガニック石鹸と基本的に同じものだ。うちの妹がネットで取り寄せて愛用していたので好奇心から作り方を調べて、実際に作ってみた経験が今こうして役に立っている。
コッヘルに入れたオリーブオイルを触ると熱いぐらいまで温め、木灰液を混ぜて練っていくと、次第に鹸化していきホワイトグリーンのクリーム状の石鹸の素が出来てくる。十分に練り上がったところで一旦作業を止める。
この出来上がった石鹸の素を型に入れて放置すれば空気と反応してだんだん固まってくるのだが、問題はその型だ。コッヘルは調理に必要だからいつまでもは入れておけない。となると──
「ちょっと石鹸の型用に貝殻を拾ってこようと思うからLEDライトを使いたいんだが、そっちの作業はどうだ?」
ちなみに現在の拠点内の灯りはLEDライトだからこれを持ち出すと真っ暗になる。
「だいたい終わったっすよ。じゃああたしも一緒に行くっす。ついでに寝る前のおトイレも済ませたいっす」
「便意は大丈夫か? 明日にでもちゃんとしたトイレは作るつもりだが」
「そっちはまだ大丈夫っすよ。食べてる量が少ないんでそんなに溜まってる感じでもないっすし。でも、これから先トイレットペーパーが無いのって地味に困るっすね」
「それなー。不織布も今あるのを使いきったらもう補充できないから早急に代用品が必要になるよな。さしあたってはそのへんの枯れ草とか大きめの葉っぱでの代用になるかな」
そんなことを話しながら連れ立って拠点を出る。拠点から波打ち際まではだいたい50㍍ぐらいだ。
先に岩場に寄ってそれぞれ用を足してから波打ち際で良さげな貝殻を物色する。貝殻は出来上がった石鹸を詰めて固める為の物だから、それなりの大きさがある二枚貝がいい。昔の日本でも軟膏薬 をハマグリの殻に入れてたからそのイメージだ。
「ガクさん、これどうっすか?」
美岬が拾い上げたのは、殻長7㌢ぐらいの赤貝の殻だ。蝶番は外れてしまっているが、二枚一揃いになっていて、破損も無くていい感じだ。
「おう、いいな。理想的だ」
「まだいるっすか?」
「いや、この二枚があれば十分だな」
「貝殻に詰めた石鹸ってめっちゃおしゃれっすよね」
「土産物にしたら人気出るかもな」
「あ、それいいっすね! うちの実家の島の特産品になるかもっす。覚えとこっと」
ご機嫌な様子で明るく振る舞う美岬の様子に心が痛む。美岬は俺のせいじゃないとは言ってくれたが、それでも、こうなることは回避できて当然だった。
俺は静かに水面 がゆらめく内湾を見回して小さくため息をつく。今は引き潮の時間であり、夕方に比べてずいぶんと水位が下がっている。そして、夕方に湾内で波に揺れていた筏は、今はもうどこにも見当たらない。引き潮によって俺たちが入ってきた洞窟トンネルから外洋に吸い出されてしまったようだ。
「……もぅ、ガクさんまた自分を責めてるっすね。さっきも言ったっすけど、筏を失ったのはガクさんのせいじゃないっすよ」
俺の様子に気づいた美岬が俺の顔を下から覗きこみながら呆れたように言う。
「……そうは言ってもな、これは痛恨のミスだぞ」
夜に島の外に流出した筏がどこまで流されていくかは分からないが、俺たちが乗っていない筏が見つかれば嵐の海に落水したものと見なされ、しばらく探しても死体が見つからなければ捜索も打ち切られるだろう。
「あたしはそうは思わないっす。そりゃ、普段のガクさんならありえないかもしれないっすけど、あの時にそこまで求めるのは酷ってもんす。あの時は二人ともヘトヘトで、やっと陸に上がれて、安全に休める場所を探すので精一杯だったっすよ。それでちゃんと休める拠点を見つけて、ガクさんは雨が降ってる中でさらに周りを偵察してきて、薪とファットウッドを集めてきてくれたんすから、十分過ぎるほどよくやってくれたと思うっす。それに……」
美岬が俺の空いてる方の手を取って、恋人繋ぎで握り、俺の隣に寄り添う。
「あたし、これからのこの島でのガクさんと二人の生活がちょっと楽しみでもあるんすよ。あたしたちが普通に普段の生活に戻ったら、一緒に暮らすなんて出来ないっすけど、でも今は、少なくとも社会復帰するまでは二人で一緒に暮らしてお互いのことをもっと知り合えるんすよ。それって素敵じゃないっすか?」
「それは確かにそうだな」
「生きていくのも大変な島ならともかく、今のところ普通に生きていけそうっすし、もとより、次の春ぐらいにこの島から脱出して社会復帰するって予定を立てた後で筏のロストに気づいたんすから、最初の予定に戻っただけって思えばいいじゃないっすか。
あの時、あたしはもうここでしばらく生きていくつもりになってたっすから、実は筏をロストしたこともそんなにショックじゃなかったんすよ。だからガクさんも、何も気に病む必要なんてないっす。それより、将来あたしたちが結婚する時のための予行演習だと思えば、ここでしばらく二人だけで生活できるのはむしろいい機会じゃないかなって思ってるんすけど?」
美岬は俺よりもずっと切り替えが早くポジティブで、とっくに覚悟を決めていたようだ。いや、むしろこうなってしまった以上、この生活を満喫するつもりのようだ。俺もこの見方を見倣わないとな。
「そうだな。本土で俺が女子高生と同棲なんてしてたら大問題になるが、現状ではそれも仕方ない、というよりむしろ一緒に助け合うのが当然だもんな。……美岬がこの状況をすんなり受け入れているなら、俺としては是非もない。この島での生活を可能な限り快適にして、ここでの生活を楽しめるようにするだけのことだな」
「ふふっ。ガクさんならどこでも快適に過ごせるようにしちゃいそうだから期待してるっすよ」
「おう。期待してていいぞ。若い頃に世界中を旅して得た知識を今こそ活用してみせるさ」
俺は昔バックパッカーとして旅して回っていた頃に、様々な原住民の集落を訪れる機会があった。自然と共存しながら、手に入るものをうまく活用しながら生きる彼らの生活の知恵に何度も唸らされたものだ。
「おー、それは楽しみっすねー」
俺たちは手を繋いだまま拠点に戻った。ここから、俺と美岬の新たな生活が始まる。そのことに思いを馳せると、年甲斐もなくワクワクしている自分に気づかされた。
俺たちの前にはまだまだたくさんの壁が立ちはだかっている。でも、どんな障害でも二人でならきっと乗り越えていける。美岬の手の温もりを感じながら、俺はそんな確信を抱くのだった。
【作者コメント】
シリアのアレッポの石鹸は私も昔から愛用しておりますので、ISISがアレッポを占領していた時はもう手に入らなくなるのではと心配していましたが、アレッポの職人さんたちはラタキアという別の場所に移動して石鹸作りを続けているようです。
外見は茶色ですが中にいくにつれだんだん緑色にグラデーションしていくのがなんとも味わい深くて好きですね。ちなみに石鹸というものは、神への犠牲を焼いた祭壇から流れた脂が灰と混ざることで出来たものが始まりと言われていますね。神からの返礼品と思われていたとかなんとか。
さて、第一部【沈没漂流編】はここまでです。いかがだったでしょうか? 楽しんでいただけましたらいいねボタン、お気に入り登録で応援お願いします。物語の切りのいい部分なので、よければここまでのご感想などいただければ幸いですm(_ _)m
リザルト回を挟んで次回から第二部【箱庭スローライフ編】がスタートします。第一部がハラハラドキドキのパニック小説だったのに対し、第二部はまったりと採集狩猟生活をしつつクラフトに勤しむスローライフ小説となります。こちらはハラハラドキドキが無い代わりに、学びと飯テロと尊い感じにしていきたいと思っていますので引き続き楽しんでいただければ嬉しいです。
食事中に話していた、植え付け前に発芽させておいた方がいい種をビニール袋に入れて水に浸けこむ作業は美岬が今やってくれている。
俺はといえば、別の作業にかかりきりになっている。当初は今美岬がやっている作業を手伝うつもりだったのだが、美岬からこっちの作業を優先して欲しいと言われてやっているのは
石鹸の材料は油と強アルカリ性の溶液だ。両者が混ざり合うことで化学反応により
油は手持ちのオリーブオイルがあと30ccぐらい残っているからそれを使い切る。強アルカリ性の溶液は、焚き火の燃え尽きた灰と水を混ぜて出来た木灰液を不織布で濾せば作れる。
この材料で作る石鹸は、シリアのアレッポで大昔から作られている伝統的なオーガニック石鹸と基本的に同じものだ。うちの妹がネットで取り寄せて愛用していたので好奇心から作り方を調べて、実際に作ってみた経験が今こうして役に立っている。
コッヘルに入れたオリーブオイルを触ると熱いぐらいまで温め、木灰液を混ぜて練っていくと、次第に鹸化していきホワイトグリーンのクリーム状の石鹸の素が出来てくる。十分に練り上がったところで一旦作業を止める。
この出来上がった石鹸の素を型に入れて放置すれば空気と反応してだんだん固まってくるのだが、問題はその型だ。コッヘルは調理に必要だからいつまでもは入れておけない。となると──
「ちょっと石鹸の型用に貝殻を拾ってこようと思うからLEDライトを使いたいんだが、そっちの作業はどうだ?」
ちなみに現在の拠点内の灯りはLEDライトだからこれを持ち出すと真っ暗になる。
「だいたい終わったっすよ。じゃああたしも一緒に行くっす。ついでに寝る前のおトイレも済ませたいっす」
「便意は大丈夫か? 明日にでもちゃんとしたトイレは作るつもりだが」
「そっちはまだ大丈夫っすよ。食べてる量が少ないんでそんなに溜まってる感じでもないっすし。でも、これから先トイレットペーパーが無いのって地味に困るっすね」
「それなー。不織布も今あるのを使いきったらもう補充できないから早急に代用品が必要になるよな。さしあたってはそのへんの枯れ草とか大きめの葉っぱでの代用になるかな」
そんなことを話しながら連れ立って拠点を出る。拠点から波打ち際まではだいたい50㍍ぐらいだ。
先に岩場に寄ってそれぞれ用を足してから波打ち際で良さげな貝殻を物色する。貝殻は出来上がった石鹸を詰めて固める為の物だから、それなりの大きさがある二枚貝がいい。昔の日本でも
「ガクさん、これどうっすか?」
美岬が拾い上げたのは、殻長7㌢ぐらいの赤貝の殻だ。蝶番は外れてしまっているが、二枚一揃いになっていて、破損も無くていい感じだ。
「おう、いいな。理想的だ」
「まだいるっすか?」
「いや、この二枚があれば十分だな」
「貝殻に詰めた石鹸ってめっちゃおしゃれっすよね」
「土産物にしたら人気出るかもな」
「あ、それいいっすね! うちの実家の島の特産品になるかもっす。覚えとこっと」
ご機嫌な様子で明るく振る舞う美岬の様子に心が痛む。美岬は俺のせいじゃないとは言ってくれたが、それでも、こうなることは回避できて当然だった。
俺は静かに
「……もぅ、ガクさんまた自分を責めてるっすね。さっきも言ったっすけど、筏を失ったのはガクさんのせいじゃないっすよ」
俺の様子に気づいた美岬が俺の顔を下から覗きこみながら呆れたように言う。
「……そうは言ってもな、これは痛恨のミスだぞ」
夜に島の外に流出した筏がどこまで流されていくかは分からないが、俺たちが乗っていない筏が見つかれば嵐の海に落水したものと見なされ、しばらく探しても死体が見つからなければ捜索も打ち切られるだろう。
「あたしはそうは思わないっす。そりゃ、普段のガクさんならありえないかもしれないっすけど、あの時にそこまで求めるのは酷ってもんす。あの時は二人ともヘトヘトで、やっと陸に上がれて、安全に休める場所を探すので精一杯だったっすよ。それでちゃんと休める拠点を見つけて、ガクさんは雨が降ってる中でさらに周りを偵察してきて、薪とファットウッドを集めてきてくれたんすから、十分過ぎるほどよくやってくれたと思うっす。それに……」
美岬が俺の空いてる方の手を取って、恋人繋ぎで握り、俺の隣に寄り添う。
「あたし、これからのこの島でのガクさんと二人の生活がちょっと楽しみでもあるんすよ。あたしたちが普通に普段の生活に戻ったら、一緒に暮らすなんて出来ないっすけど、でも今は、少なくとも社会復帰するまでは二人で一緒に暮らしてお互いのことをもっと知り合えるんすよ。それって素敵じゃないっすか?」
「それは確かにそうだな」
「生きていくのも大変な島ならともかく、今のところ普通に生きていけそうっすし、もとより、次の春ぐらいにこの島から脱出して社会復帰するって予定を立てた後で筏のロストに気づいたんすから、最初の予定に戻っただけって思えばいいじゃないっすか。
あの時、あたしはもうここでしばらく生きていくつもりになってたっすから、実は筏をロストしたこともそんなにショックじゃなかったんすよ。だからガクさんも、何も気に病む必要なんてないっす。それより、将来あたしたちが結婚する時のための予行演習だと思えば、ここでしばらく二人だけで生活できるのはむしろいい機会じゃないかなって思ってるんすけど?」
美岬は俺よりもずっと切り替えが早くポジティブで、とっくに覚悟を決めていたようだ。いや、むしろこうなってしまった以上、この生活を満喫するつもりのようだ。俺もこの見方を見倣わないとな。
「そうだな。本土で俺が女子高生と同棲なんてしてたら大問題になるが、現状ではそれも仕方ない、というよりむしろ一緒に助け合うのが当然だもんな。……美岬がこの状況をすんなり受け入れているなら、俺としては是非もない。この島での生活を可能な限り快適にして、ここでの生活を楽しめるようにするだけのことだな」
「ふふっ。ガクさんならどこでも快適に過ごせるようにしちゃいそうだから期待してるっすよ」
「おう。期待してていいぞ。若い頃に世界中を旅して得た知識を今こそ活用してみせるさ」
俺は昔バックパッカーとして旅して回っていた頃に、様々な原住民の集落を訪れる機会があった。自然と共存しながら、手に入るものをうまく活用しながら生きる彼らの生活の知恵に何度も唸らされたものだ。
「おー、それは楽しみっすねー」
俺たちは手を繋いだまま拠点に戻った。ここから、俺と美岬の新たな生活が始まる。そのことに思いを馳せると、年甲斐もなくワクワクしている自分に気づかされた。
俺たちの前にはまだまだたくさんの壁が立ちはだかっている。でも、どんな障害でも二人でならきっと乗り越えていける。美岬の手の温もりを感じながら、俺はそんな確信を抱くのだった。
【作者コメント】
シリアのアレッポの石鹸は私も昔から愛用しておりますので、ISISがアレッポを占領していた時はもう手に入らなくなるのではと心配していましたが、アレッポの職人さんたちはラタキアという別の場所に移動して石鹸作りを続けているようです。
外見は茶色ですが中にいくにつれだんだん緑色にグラデーションしていくのがなんとも味わい深くて好きですね。ちなみに石鹸というものは、神への犠牲を焼いた祭壇から流れた脂が灰と混ざることで出来たものが始まりと言われていますね。神からの返礼品と思われていたとかなんとか。
さて、第一部【沈没漂流編】はここまでです。いかがだったでしょうか? 楽しんでいただけましたらいいねボタン、お気に入り登録で応援お願いします。物語の切りのいい部分なので、よければここまでのご感想などいただければ幸いですm(_ _)m
リザルト回を挟んで次回から第二部【箱庭スローライフ編】がスタートします。第一部がハラハラドキドキのパニック小説だったのに対し、第二部はまったりと採集狩猟生活をしつつクラフトに勤しむスローライフ小説となります。こちらはハラハラドキドキが無い代わりに、学びと飯テロと尊い感じにしていきたいと思っていますので引き続き楽しんでいただければ嬉しいです。