第36話 5日目⑤おっさんは上陸する

文字数 4,299文字

 洞窟のトンネルを抜けた先に広がっていたのは、幻想的とも言えるような光景だった。まだ小雨が降り続いているので全貌は見渡せないものの、この場所は垂直に切り立った崖に囲まれた谷あいの盆地であるようだ。
 低いところでも100㍍、高いところはその倍はあるように見える崖の上に繁茂する植物は今なお吹き荒れる風に翻弄されて激しく揺れているというのに、谷底にはほとんど風の影響は無く、不思議なほどの静穏さを保っている。

 俺たちが通ってきた洞窟で外洋と繋がっているこの内湾も、潮の満ち引きによって海水の入れ替わりはあるようだが、外洋のうねりや波の影響が全くないのでせいぜい海面にさざ波が立ち、また洞窟の出口付近が流れ込む海水によって巻き上げられた砂によって少し濁っている程度で、驚くほどの透明さを保っている。
 この辺りの水深は7~8㍍ぐらいだろうか、海底の砂地の模様も、揺らめく海藻も、海底の岩場の周りを泳ぐ根魚の様子もはっきりと見えている。

 この谷底の盆地そのものは(おうぎ)のような形をしているようだ。
 俺たちが入ってきた洞窟の出口が扇の持ち手部分に当たる一番狭くなった場所で、そこからだんだん広がっていっているが、盆地の奥の端までどれほどの距離があるかはまだわからない。ただ、雨に霞んで遠くにぼんやりと見えている岩壁がこの盆地のどん詰まりであるのなら、奥行きは少なくとも1km以上はあるだろう。

 洞窟の辺りが一番狭く深くなっている三角形の美しい内湾は進んでいくにつれ次第に広く浅くなっていき、最奥部は幅300㍍ほどの浜となっていた。向かって左側の100㍍ほどは、細かい砂が堆積した砂浜になっていて、少し進めばまばらに生えた木と丈の低い草花の繁茂する平原になり、その先は雨に隠されていてよく分からない。右側の200㍍ほどは、波打ち際ギリギリまで(あし)のような植物が繁茂し、そこから奥に向かうにつれ、木が立ち並ぶ林になり、その奥は今はまだぼやけてよく見えないが森になっているように見える。恐らくこの奥に水源があり、そこから地中に染み込んだ水によって木や草が生育しているのだろう。
 この内湾に直接流れ込む川は見あたらないが、もしかすると伏流水になって海底から湧き出したりもしているのかもしれない。

「ほわぁ……めっちゃ綺麗な場所っすね」

「……ああ。外の嵐が嘘みたいな場所だな。正直こんなに恵まれた環境とは思ってもみなかったな」

「とりあえず上陸しましょうよ。地面があたしを呼んでるっす」

「そうだな。とりあえず左側の砂浜に上がってみよう。崖の下に雨宿りができそうな隙間もありそうだしな」

「あいあいさ」

 オールで漕いで左側の砂浜に近づく。

──ズ、ズズズ……ギギィ

 水深10㌢ぐらいのところで筏が砂に当たって停止する。

「到着だ。まずは荷物を降ろして、筏を浜に引き上げよう」

 俺と美岬はそれぞれの荷物とクーラーボックスを持って砂浜に上がった。裸足の足裏で踏みしめる砂が心地良いものの、この数日間ほとんど座りっぱなしだったので足がふらつく。

「あはっ! 久しぶりの地面っす! ……あ、あれ? なんか足がフラフラするっす」

「ずっと座ってたから筋肉が落ちてるんだ。ちょっと歩けばすぐに元に戻る」

 波打ち際から少し上がった所に荷物だけまとめて降ろし、筏に戻って舳先に結んである錨綱を二人で引っ張って筏を砂浜まで引っ張りあげた。

 その時、かなり小降りになっていた雨が急に土砂降りになった。この不意にやってくるゲリラ豪雨はやっぱり台風が今なお影響を及ぼしていることを思い知らせてくれるな。

「ありゃ、また雨足が強くなってきたっすね」

 もとより二人ともすでに上から下までびしょ濡れなので今さらどうってことはないのだが、それでも雨宿りできる場所があるなら雨宿りするのは当然の帰結だ。

「とりあえず崖下の岩蔭に避難して、濡れた服を乾かすか」

「おぉ、心ときめく提案っすねー!」

 崖に近づくと丸くて黒い物がそこらじゅうに落ちていることに気づく。松ぼっくりだ。見上げれば崖の途中に松の木がちらほらと生えているのでそこから落ちてきたのだろう。
 だが松ぼっくりが拾えるのはありがたい。

「美岬、ちょっとついでに松ぼっくりを拾っていくぞ」

「ほ? あ、はい。了解っす」

 一瞬きょとんとした美岬だったが、しゃがんでひょいひょいと拾い始める。

「どういうのがいいとかあるっすか?」

「傘がよく開いてるやつだな。といっても木から自然落下したやつはだいたい開いてるが」

「ちなみに用途はなんすか?」

「松ぼっくりはよく燃えるんだ。今は雨で濡れてるが、ちょっと乾かせばすぐに使える着火材になるから今のうちに拾っておけば役に立つ」

「なるほど」

 二人でそれぞれ一抱え分の松ぼっくりを持って崖沿いに歩くとすぐにちょっと屈めば入れそうな岩蔭が見つかったので、美岬を一旦外で待たせて俺が中をチェックする。
 入り口の高さは1.2㍍ぐらいだったが中は少し余裕があり、天井は高いところで1.6㍍ぐらいで、奥行きは3㍍ぐらいある。雨は入ってこないようで中の砂は乾いており、野性動物の足跡や糞や毛といった痕跡もない。
 中の安全を確認して美岬を呼ぶ。

「ここならとりあえずの拠点に使えそうだから入っていいぞ」

「お邪魔しまーす。わぁ、ここがガクさんのお部屋っすか! 男の人の一人暮らしとは思えないほど綺麗に片付いてるっすねー!」

「……彼女が遊びに来るって言うから急いで片付けたんだ、とでも答えればいいのか?」

「あはは。……おー、意外と狭くないっすね。四畳半ぐらいっすか」

「それぐらいはあるかな。ここに住むのはさすがに狭いが仮の拠点としては十分だな」

「筏の上よりは断然広いっすからねー! そしてこの床が乾いてるという幸せ!」

「それな。まあとりあえずここで一旦休憩しよう。さっきは結局休めなかったからな」

「……さっきは腕まくらしてもらい損ねたっす」

「……分かった分かった。してやるから。幸いここは床が柔らかい砂地だからそのまま寝転がれるだろう。でもその前に俺はちょっとこの辺りを回って薪用の木を集めてくるから、美岬はその濡れた服を着替えておいたらどうだ?」

「ほえ? そんな、ガクさんが薪拾いに行くならあたしも一緒に行くっすよ」

「いや、どうせ美岬が着替える時は外に出ておくつもりだったから薪拾いはそのついでだ。あ、そうだ。そのポンチョだけ使わせてもらおうかな」

 俺がマントのように羽織っていた断熱シートを外して、美岬にポンチョを寄越せと手を差し出すと、美岬が苦笑しながらポンチョを脱いで渡してくる。

「もぅ、ガクさんはまたそうやってあたしを甘やかすんだから。分かったっす。あ、じゃあ着替えついでに体も拭きたいんでウェットシート欲しいっす」

「おう。……ほれ。それなら薪を拾うついでに軽くこの辺りの偵察もしてくるから急がないでゆっくりしたらいい。戻ってきた時も中に入る前にはちゃんと声はかけるから都合が悪かったら言ってくれ」

「……そこはいきなり入ったら着替え中の彼女と遭遇してキャー的なラッキースケベを期待するシチュエーションじゃないんすか?」

「そういうのは今はやめておこう」

「……そっすか」

 心なしかしょんぼりとする美岬。これは俺の言葉が足りなくて誤解させたやつだな。

「美岬、誤解がないように言っとくが、お前が女として魅力がないとか、子供扱いしてるとかそういうんじゃないからな?」

「ほえ?」

「美岬はすごく可愛いし魅力的な女だ。そんな女とずっと一緒にいるんだ。しかも俺にとっては彼女でもある。正直、俺は自制心を保つのにかなりの努力を必要としてるぞ」

「え、ええ? はわわっ! ……じゃ、じゃあなんで?」

「そんな魅力的な好きな女の裸を見ても自制できると言いきれるほど俺は自分の自制心を信用してないからな。ラッキースケベとかそういう誘惑になる状況はなるべく避けた方がいいと思うんだ。……そりゃ見たいか? と言われれば正直見たいさ。でも見たら自制するのがもっと大変になるのが分かってるからな」

「……あの、ガクさんはそれでいいんすか? そんなに無理に我慢しなくても……その、あたしの同級生のカップルとかも付き合ったら普通にエッチなこともしてるみたいっすし、あたしもガクさんとお付き合いする以上、いずれはそういう関係になるのも当然だと思ってて……その、ガクさんにあまり我慢させるのは申し訳なく思うんすけど」

 潤んだ瞳で俺を見上げてくる美岬。思わずゴクリと生唾を呑み込む。

「……っ!」

 こいつは本当にナチュラルに誘惑してくるから困る。俺はかなり本気で自分の頬をひっぱたいた。一瞬頭がくらっとするぐらい痛かったがお陰で頭が覚めた。

「ガクさんっ!? 何を!?」

「……あー、痛ってぇ。ほんと、そういうところだぞ美岬。…………ちょっとここに座ってくれ。真面目にお話ししようか」

「……え? ガクさん、なんか笑顔が怖いんすけど」

 俺が地面にあぐらをかいて座ると、美岬が俺の正面に神妙な顔でおずおずと正座する。

「いやいや、別に叱ろうってんじゃないからそこまで構えなくていいから。ただ、ちゃんと腹割って話したいのと長くなるかもしれんから座っただけだから」

「あ、はい」

 美岬がちょっとほっとしたように足を崩す。

「さて、俺と美岬はまだ付き合い始めたばっかりだからあまり生々しい話をするのもどうかな、と思ってあえて言わなかったんだが。……まあでも今の状況はお互いに好き合ってる男女が二人っきりで共同生活をしている、いわば同棲なわけで、しかも、社会復帰するまではまだしばらくこの状況は続くことになるからな。だから、付き合い始めたばかりだから早すぎるとかいうのはなしで、男女の関係、つまりセックスについてもちゃんと話し合っておこうと思うんだ」

「ひゃ、ひゃいっ!」

 まさか俺がここまでストレートに切り込むなんて思いもしなかったのだろう。美岬が目を白黒させて慌てふためく。だがこの件は気まずくなるのを避けるために下手にオブラートに包んだ曖昧な言い回しでお茶を濁したり、成り行きに任せたりするのではなく、率直に話し合わないといけないことだ。





【作者コメント】

 某JKたちのゆるいキャンプ漫画でも天然の着火材として紹介される松ぼっくりですが、実際かなり優秀です。そして松は潮風にもけっこう強いことから海岸に防風林としてよく植樹されているので海でのレジャーでは比較的手に入りやすい素材です。海での焚き火の際にはぜひお試しください。ただし、一度に大量に燃やすと火力ヤバいのでご注意下さい。

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登場人物紹介

■名前/谷川 岳人(たにがわ がくと)

■年齢/36歳

■職業/調理師、ジビエレストラン経営者、バックパッカー、コラムニスト、山岳ガイド、遭難者捜索ボランティア

■別名/シェルパ谷川、サバイバルマスター

■人物紹介/僻地の別荘地でジビエレストランを経営する傍ら、山岳ガイドや遭難者捜索ボランティアをしている。以前はバックパッカーとして世界中を旅してシェルパ谷川というペンネームでアウトドア雑誌に紀行文を連載していた。サバイバルマスターという呼び名はその頃についたもの。家族や親しい人たちを全員亡くし、失意の中で一人旅をしている時に美岬と出会う。



■名前/浜崎 美岬(はまざき みさき)

■年齢/17歳

■職業/高校生、農大附属高校2年、コンビニ店員、有用植物研究会所属

■人物紹介/離島出身で本土の農大附属高校に一人暮らしで下宿しながら通っている。仕送りが少ないのでコンビニでバイトしている。過疎化、高齢化が進む故郷の島の村おこしのために名物になりうる作物を研究するために農大附属高校に入った。大学生メインのサークル『有用植物研究会』に所属しており、パイオニア植物が専門。中学までは歳の近い子供がいない島の分校で学んだため、同級生との接し方が分からず、クラスでは孤立しており、ややコミュ障。盆休みに実家の島に帰省する途中の船で岳人と出会う。岳人のコラムは昔から愛読していた。

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