第94話 10日目①おっさんは稲妻とマメの働きを知る

文字数 3,144文字


──ゴロゴロゴロ……ピシャーン!!

 拠点の外が稲光で真っ白に染まり、直後に落雷の音と僅かな地揺れが伝わってくる。

「ひゃあっ! びっくりしたっす」

「これは落ちたな」

 昨晩から降り始めていた雨は翌朝になっても止まずに降り続いていた。いや、むしろ夜よりも雨足は強くなり、雷を伴って激しく降っている。こうして落ちた雷によってこの島の鉄が磁鉄化してコンパスを狂わせるほどの磁場を作っているんだろうな。

「これは外に出るのも嫌になるぐらいの土砂降りっすねぇ」

 外を見ればほんの少し先でも輪郭がボヤけるほどの豪雨で正面にあるはずの東側の崖は分厚い雨のカーテンで視認できない。

「そうだな。これだけ激しい雨だと崖伝いにトイレに行くだけでもけっこう濡れるだろうな」

「こういう時こそ折り畳み傘の出番っすね」

「またトイレに行く時に使わせてもらおう。美岬は、雷は別に平気っぽいな」

「…………はっ! キャー! 雷怖いっすー! ダーリン助けてー!」

「わざとらしい演技やめい」「あぅ」

 わざとらしく怖がるふりをしながら抱きついてこようとした美岬に軽いデコピンをくれてやる。

「……まあ、農家にとっちゃ雷は恐怖の対象というよりどっちかといえば天の恵みっすからね。稲妻(いなずま)って稲の妻って書くじゃないっすか。雷が多い年は米が豊作になるって昔から言われてるんすよ。ちょっと元気が無くなってた稲が雷のあとにはシャキーンとなるんで、妻が実家に帰ってションボリしている男のところに妻が戻ってきたかのように分かりやすく元気になるから稲の妻、稲妻っす」

「それは知らなかったな。どういうメカニズムなんだ?」

「大気の主成分は窒素っすよね。植物の生育に窒素は欠かせないんすけど、そのままの窒素では植物は利用できないんで、いったん植物が取り込める窒素化合物に変える必要があるんすけど、自然界でその役割を担っているのが雷とマメ科植物なんすよ」

「ほうほう」

「マメ科植物の根には特殊なバクテリアが住み着いてて、それが窒素を植物が肥料として取り込める窒素化合物に変えるんでマメ科植物を植えた後の土は他の作物を育てやすくなるんす。日本でも昔から田植え前の春の田んぼにマメ科のレンゲを植えてたのはそういう生活の知恵っすね」

「レンゲか。最近ではあまり見なくなったが昔はどこの農家も春先に田んぼに植えてたな。そういう理由があったのか」

「マメ科が窒素化合物を生成するメカニズムが分かったのは割と近年っすけど、昔から生活の知恵として根付いてたんすねぇ。で、雷っすけど、稲妻が空気中を走る時も窒素化合物が大量に生成されて地表に降り注ぐんすよ。いわば天然肥料っすね。だから雷が多い年は米が豊作になるってわけっす」

「なるほどな。稲妻という漢字が昔からあったことを考えると、雷が豊作に直結してるってのはずっと前から分かってたんだろうな。昔からの生活の知恵ってのはなかなか馬鹿にできないな」

「言うなれば何世代にも渡る研究観察のデータに裏打ちされた信頼できる法則っすからね。現代の研究者がメカニズムを解き明かして後から科学的な合理性が証明される昔からのしきたりってけっこうあるんすよ」

「ああ、そういうのは料理の世界でもよくあるな。特に旨味に関わる出汁の相乗作用なんて科学的に解き明かされるずっと前から料理人たちには常識だったわけだし、デンプンの糖化のメカニズムが分からなくても昔から利用されてきてるわけだしな」

「確かにそうっすね。先人の知恵ってすごいっす。むしろそういう先人の知恵にこそとんでもない科学的な発見のヒントが隠されているかもっすね」

 朝の起き抜けから妙に知的な会話をしてしまったのですっかり目が覚めてしまった。とりあえず美岬の折り畳み傘を交代で使ってトイレを行ってから今日の予定を話し合うことにする。




 トイレを済ませてから、昨晩のウッドキャンドルの燃え残りと回収してあった消し炭を利用して焚き火を起こし、適当な長さの枝を3本組み合わせて焚き火用三脚(トライポッド)を作って大コッヘルを吊るして湯を沸かし始める。

 現在残っている茶のストックは、ハトムギ茶があと1回分、ドングリ茶があと2回分、葛葉茶は毎日追加されているのでたっぷり。なので今日は余裕のある葛葉の(ほう)じ茶にすることにした。

 焙じ茶は炭火と紙があれば簡単に作れる。ノートの紙を1枚取り、そこに乾燥させてビニール袋にストックしている葛の葉を一掴み乗せる。
 燃えている焚き火からコッヘルを退かし、葛の葉を乗せた紙を火の上で揺すりながら(あぶ)っていく。あまりに火に近すぎると紙が燃え出してしまうので、それなりに距離を開けて、炭火の熱が紙越しに茶葉に伝わるようにする。ちなみにガス火は水分が多く含まれるので火の温度が低く、このやり方には向かないが、炭火は乾燥していて熱量も多いのでこのように紙越しに遠赤外線で茶葉を焙じるのに向いている。

 芳ばしい香りが漂ってきたので茶葉を熱するのを止めて再びコッヘルを焚き火の上に戻し、沸いてきた湯に焙じたての茶葉を入れて煮出していけば、やや緑がかった黄色いお茶になる。


「とりあえず日課の畑の水やりは今日はしなくていいんで、あたしの午前の予定はぽっかり空いてるっすね。……ずず。ふぅ、これは優しい香りっすねぇ」

「俺もこの天気だから葛の蔓の採集と加工は無しだな。保存食もあるから今日はこのまま引きこもりでクラフトの続きでもやるかね。……ずず。やっぱりマメ科だからか黒豆茶を彷彿させる味だな」

 葛葉の焙じ茶をすすりながら2人でまったりしながら話し合う。

「昨日できなかった土器作りもやってみたいっすし、もっと大きな篭を作るのもいいっすね。藤蔓ってまだあるっすか?」

「うーん、そうだな……中型の篭1個分ぐらいならありそうだな。あ、そうだ。篭で思い出したが、小さい篭ができたことだし、掘ってきたまま放置してあった葛芋から葛粉を取るのもそろそろやってみるか」

「あー、葛粉を取るのには篭があると便利なんでしたっけ。どう使うんすか?」

「まあざっくり説明すると、葛芋を潰すと繊維とデンプンの混ざったドロドロになるから、そのドロドロを水で薄めて篭で濾せば繊維質を取り除けるってわけだ」

「なるほど。納得っす。今ある葛芋からはどれぐらいの葛粉が取れるんすかねぇ?」

「わからん。自然薯(じねんじょ)と同じで今は芋に蓄えたデンプンを使って葛そのものが成長してる時期だからな。まったく取れないってことはないと思うが、冬に比べるとかなり少なくはなるだろうな。とりあえず俺たちの必要分さえあればいいからあまり期待せずにやってみるとしようか」

「そっすね。そもそもあたしは葛粉をどう使うのかも知らないっすからね。料理のトロミぐらい?」

「まあ、普段料理をしないならそうだろな。料理人にとっては必須レベルで汎用性の高い食材だが、まあ、それは後々の楽しみでいいだろ」

 葛粉──デンプンは料理のみならず菓子作りでも活躍する食材だが、それを言うと美岬がまた騒ぎ出すだろうからあえて黙っておく。葛粉を使ってこっそりとお菓子を作ってサプライズするのもありだな。美岬がどんな反応を見せるか今から楽しみだ。




【作者コメント】
 豆類と雷が大気中の窒素を植物が取り込める窒素化合物に変えてるということを初めて知った時はこの自然界が本当に良くできていると感動したものですが、それを踏まえた上で稲妻という漢字や春に田んぼにレンゲを植えることがいかに合理的か気づいた時には戦慄を覚えました。すげえな昔の人! 今では化学肥料などで効率的に窒素化合物を土に補充できるので春先に田んぼにレンゲを植えることは少なくなりましたが、知られずに消えていくのは勿体ないと思ったのでこの場でご紹介してみました。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

■名前/谷川 岳人(たにがわ がくと)

■年齢/36歳

■職業/調理師、ジビエレストラン経営者、バックパッカー、コラムニスト、山岳ガイド、遭難者捜索ボランティア

■別名/シェルパ谷川、サバイバルマスター

■人物紹介/僻地の別荘地でジビエレストランを経営する傍ら、山岳ガイドや遭難者捜索ボランティアをしている。以前はバックパッカーとして世界中を旅してシェルパ谷川というペンネームでアウトドア雑誌に紀行文を連載していた。サバイバルマスターという呼び名はその頃についたもの。家族や親しい人たちを全員亡くし、失意の中で一人旅をしている時に美岬と出会う。



■名前/浜崎 美岬(はまざき みさき)

■年齢/17歳

■職業/高校生、農大附属高校2年、コンビニ店員、有用植物研究会所属

■人物紹介/離島出身で本土の農大附属高校に一人暮らしで下宿しながら通っている。仕送りが少ないのでコンビニでバイトしている。過疎化、高齢化が進む故郷の島の村おこしのために名物になりうる作物を研究するために農大附属高校に入った。大学生メインのサークル『有用植物研究会』に所属しており、パイオニア植物が専門。中学までは歳の近い子供がいない島の分校で学んだため、同級生との接し方が分からず、クラスでは孤立しており、ややコミュ障。盆休みに実家の島に帰省する途中の船で岳人と出会う。岳人のコラムは昔から愛読していた。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み