第52話 6日目⑧おっさんは醤油の偉大さを思い知る

文字数 3,938文字

 焼き牡蠣を食べ終わった俺たちの手に残る大きな岩牡蠣の殻。片手の平より一回り以上大きく、厚みがあり、少し深みがあるそれは、ちょっと不格好ではあるが陶器の皿の代用品として十分に使えそうだ。

「この牡蠣殻はそのまま皿の代わりに使おうか」

「あ、そっすね。ちょっとごつごつしてて重いっすけど、そこそこサイズあるっすし、汁物も溢れないっすし、意外と皿としてちょうどいいっすね」

「コッヘルは大中小の3個とそれぞれの蓋しかないからなぁ。調理器具や食材の仮置きにも使ってるから、早めに皿は別に準備しなきゃいかんと思っていたんだが、この牡蠣殻が使えるのは助かるな」

「じゃ、さっそく皿として使ってみるっすよ」

 美岬がそう言いながら中コッヘルにまとめて入れてあるムール貝を箸で摘まんで自分の牡蠣殻にひょいひょいと移す。
 楕円形の片方を尖らせたような細長い形の二枚貝であるムール貝は開くとハート型になる。殻の色はシジミとよく似た艶のある黒だが、内側は白い真珠光沢があり、身はオレンジに近い黄色だ。

 二枚貝というのは基本的に卵を海中に放出し、孵った貝の幼生体が海中をプランクトンとして漂って移動し、生育に適した環境にたどり着けば、そこで稚貝になって育つ。ムール貝もそうやって増えるが、元々は地中海原産で、幼生体が船のバラスト水に混ざって運ばれて世界中に棲息域を拡げたいわゆる侵略的外来種だ。
 幼生体の期間が長いことも棲息域を拡げる一因であるようで、こんな船が立ち寄らないような島にまで居着いていることを考えるとその移動能力は侮れない。

 パエリヤ、アクアパッツァ、ブイヤベースなど地中海料理には欠かせない食材ではあるが、特に個性らしい個性は無く、とりたてて旨い貝ではないというのが俺のムール貝への印象だ。……と思っていた時期が俺にもあった。

「……あ、これも美味しいっすね!」

「……え? あれ? 普通に旨いな」

 焼き牡蠣よりさらにしっかりとした歯応えと意外とはっきりとした旨味。上品ながら奥深いクリーミーな味わい。
 ムール貝ってこんなに旨い貝だったか? ……考えてみれば俺が今まで食ってきたムール貝は冷凍輸入品か、あまり水が綺麗ではない港などで取ってきたものだけだった。
 冷凍輸入品は水っぽくて妙な泥臭さがあったり、港で取ってきたものは雑味が多かったりしたので、あまり旨い貝ではないというイメージが固まっていたが、水質がいい場所で育つとこんなに旨くなるんだな。これは嬉しい誤算だ。
 ちょっとした腹の足し程度にしか期待していなかったので今回は6個だけしか取ってこなかったが、岩場にはまだまだたくさんあるからこれからはメインターゲットの一つに加えてもいいな。

 そうこうしているうちにスコップの上で焼いているハマグリにも火が通ってきたようで、殻の隙間から貝汁が吹き出してきてジュウジュウとスコップに焦げついて暴力的なまでに旨そうな匂いの煙が周囲に広がる。

「うわぁ! これはヤバイっすよ! ……あれ? でもなんで口が開かないんすかね?」

「開いてひっくり返らないようにあらかじめ蝶番を切ってあるからな」

「もぉー、ガクさんってば分かってるっすねー! ハマグリは貝汁が最高なんすよね!」

「違いない」

 ハマグリの少しだけ開いた口にそっとナイフを差し込んで持ち上げれば、さしたる抵抗もなくパカッと外れ、下の方の殻には白く濁った貝汁がグツグツと沸騰していてその中で大きな身が煮えている。
 それを軍手をはめた手で溢さないようにそっと持ち上げ、外した片割れの方の殻に貝汁だけ流し込む。汁が無くなり身だけになった殻は再びスコップの上に戻し、貴重な醤油を1滴、2滴だけ落とす。

「が、ガクさん! な、なんちゅうことをするんすか!? そんなんめちゃくちゃ美味しいに決まってるじゃないっすかぁ!」

「最高のハマグリだからな。最高の食い方をしてこそだろう?」

「ガクさん最高っす!」

「ほれ、ハマグリが焼き上がる前に貝汁を飲んどけ」

「わぁい! あざーっす!」

 貝汁が入った片割れの殻を軍手をはめた手で上から(ふち)と掴んで持ち、美岬がそっと啜る。

「…………はうぅ」

 至福の表情が言葉にせずともすべてを物語っている。これほどのハマグリだ。そりゃあ旨かろうよ。
 俺はスコップの上に乗っている残りのハマグリも同じように一度火から下ろして殻を開け、それぞれ身と貝汁を分け、身の方に醤油を少し垂らしてスコップの上に戻すという一連の作業を終わらせ、美岬と同じように貝汁の入った殻を一つ手に取って啜ってみた。

「……ずずっ。……おおぅ」

 これは、美岬が言葉を失うのも納得の旨さだ。ちょっとこれはとっさに気の利いた感想が出てこない。とにかく旨い。

「ハマグリの汁ってなんでこんなに美味しいんすかねぇ。なんか他の貝も美味しいんすけど、ハマグリってちょっと格が違うっすよねぇ。あ、もう1つもらうっす」

 1個目のハマグリ汁を早々と飲みきって2個目に手を伸ばす美岬。

「そうだなぁ。……牡蠣もムール貝もそれぞれに個性があって旨いけど、ハマグリの場合が全体的な味のバランスがよくて、ハイレベルにまとまっている感じだよな。……あーほんとにいい味してるよなぁ。この味ならいくらでも飲めるな」

 俺も2個目を手に取る。いくら大きなハマグリといっても貝汁は1個あたりでせいぜいぐい呑み1杯分ぐらいしかないからすぐに飲みきってしまう。

「んー、つまり成績にばらつきがあって得意教科と苦手教科があるタイプじゃなくて、どの教科でも好成績な優等生タイプなんすねハマグリは」

「ははっ上手い例えだな! まさにそんな感じだ」

 そんなことを話しながら貝汁を啜っているうちに、スコップの上のハマグリの身の方から醤油が焼けつく香ばしい匂いがし始める。

「おお、身の方もそろそろいい感じじゃないっすか?」

「だな。これは、否応にも期待が高まるな」

 4個の特大のハマグリを2個ずつそれぞれの牡蠣殻の皿に移し、俺はスペースが空いたスコップに最後に残った2個の岩牡蠣を乗せて焼き始めた。かまどの火力も落ちてきているので薪も追加でくべる。俺がそれをしている間、美岬は自分の皿に載ったハマグリを食べずに待っていた。

「あれ? 美岬、食べないのか?」

「いやー、だってコレ絶対に最高じゃないっすか。先に食べてあたしだけ盛り上がるより一緒に食べて感動を分かち合いたいなと」

「なるほど、そうだな。じゃあ食べようか」

「うふふ、楽しみっすねぇ」

 箸で身を摘まめば、醤油でほどよく焦げ目が付いたいかにも旨そうな身があっさりと殻から外れた。それをそのまま口に入れれば、あまりの熱さに火傷しそうになるが、噛み締めた瞬間に焼き縮んで濃縮された濃厚な旨味が口の中で爆発して茫然としてしまった。これはすごい。

「……はふっ! 熱っ! うまっ! うまっ!」

 見れば美岬も俺と同じように熱さに目を白黒させつつもハマグリの味に舌鼓を打っている。
 しっかりと味わってから飲み込み、二人揃ってほぅっとため息をつく。

「…………すごいな。これ」

「…………ヤバいっすね」

「貝汁を飲んだ時点で旨いのは分かっていたが、期待以上だったな」

「そっすね。貝そのものの味がめちゃくちゃ濃いっすね。でも、やっぱりなんといっても醤油の力がすごいなって実感したっす」

「ほんとそれな! ほんのちょっとしか使ってないのに、入れるか入れないかで全然違うよな。……元々こういう状況になるのを想定していなかったから、醤油もそうだが調味料を最低限しか持ってなかったのが悔やまれるな」

「あたしとしては持ってるだけでもすごいと思うっすけど、やっぱり醤油は作らなきゃっすね」

「そうだな。麹も大豆もあるから作ることはできるな。といってもだいぶ先にはなるだろうが」

「確かにこれから大豆を育てて収穫してから仕込み始めたらだいぶ先になるっすけど、たぶんこの島に自生している野生種の豆なら収穫期に入ってる物が手に入ると思うんで、それを使って先に一部でも仕込んでみるのはどうっすか?」

「葛豆か?」

「葛豆は収穫期が秋なんでこれからっすけど、海浜植物のハマエンドウならちょうど今が収穫期のはずっす。さっき、林の方からこっちに戻って来る途中でそれっぽいのは見かけたからたぶんあると思うっすよ」

 そう言って次のハマグリに箸を伸ばす美岬。俺は今の美岬の提案を検討する。

「……なるほどな。本格的に仕込むのは大豆の収穫を待つにしても、先行で少しずつでも仕込んでおくのはいいな。だがそうなると塩の精製と熟成用の容器が必要になるな」

 塩作りは簡単だが、問題は熟成用の容器だな。乾いた倒木を製材して桶か樽を作るか、粘土を探して土器を作るか。
 今後の事を考えると土器の方が都合はいいからちょっと真面目に粘土を探してみるかな。火山だから探せば火山灰由来の土器作りに向いた粘土はあるはずだ。
 焼くのは簡易式の窯を作るか、縄文時代式の野焼き式でいくか……。

「……ガクさーん、長考は食後でいいんじゃないっすか? ハマグリ冷めちゃったっすよ? あとそろそろ岩牡蠣も焼けるっすよ?」

 美岬の言葉でハッと我に返る。ついつい考え込んでしまっていたようだ。

「お? おぅ。そうだな。やることが多すぎてつい色々考えてしまった」

「時間はたっぷりあるんすから、焦らずに一つずつ進めていきましょうよ。あたしも手伝うっすから」

「あ、ああ。そうだな。確かにやることは多いが、二人で協力し合って進めればいいよな。頼りにしてるぞ」

 そうして、すっかり冷めてしまったハマグリと、追加で焼き上がった岩牡蠣を食べて俺と美岬は満ち足りて食事を終えたのだった。
 さて、午後の作業を始めるとしよう。
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登場人物紹介

■名前/谷川 岳人(たにがわ がくと)

■年齢/36歳

■職業/調理師、ジビエレストラン経営者、バックパッカー、コラムニスト、山岳ガイド、遭難者捜索ボランティア

■別名/シェルパ谷川、サバイバルマスター

■人物紹介/僻地の別荘地でジビエレストランを経営する傍ら、山岳ガイドや遭難者捜索ボランティアをしている。以前はバックパッカーとして世界中を旅してシェルパ谷川というペンネームでアウトドア雑誌に紀行文を連載していた。サバイバルマスターという呼び名はその頃についたもの。家族や親しい人たちを全員亡くし、失意の中で一人旅をしている時に美岬と出会う。



■名前/浜崎 美岬(はまざき みさき)

■年齢/17歳

■職業/高校生、農大附属高校2年、コンビニ店員、有用植物研究会所属

■人物紹介/離島出身で本土の農大附属高校に一人暮らしで下宿しながら通っている。仕送りが少ないのでコンビニでバイトしている。過疎化、高齢化が進む故郷の島の村おこしのために名物になりうる作物を研究するために農大附属高校に入った。大学生メインのサークル『有用植物研究会』に所属しており、パイオニア植物が専門。中学までは歳の近い子供がいない島の分校で学んだため、同級生との接し方が分からず、クラスでは孤立しており、ややコミュ障。盆休みに実家の島に帰省する途中の船で岳人と出会う。岳人のコラムは昔から愛読していた。

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