第25話 4日目⑤おっさんは海の水を飲む

文字数 3,494文字

 2回目のコッヘルに満杯になった雨水をビニール袋に小分けしている間に雨が小降りになり、やがて霧雨になる。ちょっと空も明るくなってきたから、積乱雲の下を抜けたのだろう。とはいえ、台風が近づいているから雲の上は積乱雲がそこかしこに乱立しているはずで、今みたいな小康状態とどしゃ降りのサイクルが断続的に来ることになるだろうが。

「水のストックが増えたのは嬉しいっすけど、あたしとしてはもうちょっと飲みたかったからもうちょっと降って欲しかったっす」

 残念そうに言う美岬に小さいコッヘルを渡す。

「美岬、ちょっとその辺の海水を(すく)って味見してみ?」

「え? ……あれっ!? 海水なのにあんまり塩辛くないっすよ!」

「あれだけ降った直後だからな。いずれ混ざって塩辛くなるだろうが、今だけは表層の海水が真水で薄まってるから飲みやすくなってるんだ。今のうちに飲みたいだけ飲んだらいいぞ」

「おお! これは知らなかったっす! 飲み溜めするっすよ」

 さっそく美岬が海水をコッヘルで掬っては飲み始める。

「こういう時、ラクダみたいに人間も飲み溜めできるんならいいと思うけどなー」

 人間の場合、余分な水分は尿になって出ていくだけだ。それでも尿と共に体内の老廃物を排出できて血液を綺麗にできるから余分に飲むことにも大きなメリットはあるわけだが。
 特に今はこの数日間の節水の影響で体が脱水気味になっていてさぞかし老廃物が溜まっていることだろうから、デトックスの為にも存分に水を飲めるこの機会にはちょっと頑張ってでもしっかり飲むべきだろう。
 そんなことを考えながら俺も美岬と同じように海水を掬って飲み始めるのだった。

 水だけで腹を膨らませた後、美岬が持ち込んでいた緑豆からもやしを育てる準備を始めたのでそれを手伝う。
 雨で薄まった海水を大きいコッヘルに掬い、その中に緑豆をざらざらと入れて洗い、悪いものを選別する。()けたものはあとで自分達の食用にする予定だ。
 良い方の豆は真水を入れたビニール袋で1日ぐらい浸漬(しんせき)して水を吸わせて膨らませ、後は発芽用の水と一緒にビニール袋に入れてそのまま日の当たらないスポーツバッグにしまっておき、1日に1回水換えをすれば1週間後ぐらいにはモヤシになっているとのことだ。
 その作業も一段落した時──

「おろ? ガクさん、なんか当たってないっすか?」

 美岬の目線を追って放置していた釣竿に目を向ければ、確かに竿先がびくんびくんと動いている。

「なんか来てるな。美岬、上げれるか?」

「はいっす。……おお? なんか意外と重いっすよ。たいして引きは強くないっすけど。……んー? この妙に馴染み深い引きはもしや……」

 美岬が竿を引き上げると、赤っぽい魚が海面に近づいてくるのが見える。そして、水から釣り上げられたそいつは抵抗もせずに胸ビレや背ビレを大きく開き、しっぽを大きく曲げた状態でぶら下がっている。
 ずんぐりむっくりの太短い魚体、大きな頭、どこか蛙っぽい顔立ち、赤黒い中に小さな黄色の斑点が散らばっている、テトラで釣りをする人間にとってはお馴染みの有名すぎる魚。

「おぉ、やっぱりカサゴだったっすね。でもめっちゃでっかいっすよ! 30㌢はあるっす! 島でもこんなでっかいのはなかなかいないっすよ」

 美岬がはしゃいで言った通り、実に立派なカサゴが釣れていた。それはいい。だが問題は──

「なんでカサゴが釣れるんだ?」

「ほえ? なんか問題でも? カサゴは普通にルアーで釣れる魚っすよ」

 カサゴから針をはずし、一番大きなコッヘルに海水を掬ってそこに放り込んだ美岬が首を傾げる。

「そこじゃない。釣糸は3㍍しか無いんだぞ。しかもカサゴは根魚の代表格だ。常に海底に棲息しているカサゴが釣れたってことは……」

 俺が箱メガネで海中を覗いて見るとすぐそばにごつごつとした岩が見えた。水深も浅く5㍍ぐらいの先に海底がある。

「……やっぱり。なんかこのあたりはかなり浅いぞ」

「え? マジっすか? ちょっとあたしも見せてほしいっす」

 箱メガネで海中を覗きこんだ美岬が納得したように言う。

「あー、なるほど。そういうことっすか」

「どういうことだ?」

「このあたりは海底火山の山頂付近っすね。ようするに島のなり損ないっす。そもそもこの辺の島って太平洋プレートの火山活動で海底が隆起してできた火山島なんで、こういう島になりきれなかった浅瀬とか岩礁帯がちょくちょくあるんすよ。で、そういうところはカサゴみたいな根魚もたくさん住み着いてるんで、良い漁場にもなってるんすよね」

「なるほど。納得した」

 美岬がきょろきょろと周りを見回して、海のある一点を指差す。

「あ、ほらあの辺に白波が立ってるじゃないっすか。あのあたりは海面のすぐ下ぐらいまで暗礁があるはずっすよ」

 霧雨のせいで視界が悪くて今まで気づかなかったが、不自然な白波が立っている場所や、黒々とした岩礁が波間に見えている場所がそこかしこにあることに気づく。

「……なぁ美岬、このあたりって漁船的にはかなり難所だったりしないか?」

「そっすね。これだけ暗礁が多いと座礁もしやすくなるっし、これだけ海が荒れてたら漁師もまず近寄らないっすね」

「この筏も座礁する可能性があるってことだよな? 尖った岩に乗り上げでもしたらエアーマットレスなんて一瞬で破れるぞ」

「っ!? やっば! そのリスク、完全に失念してたっすけど絶対ヤバいっすね! ……わわっ!? そんなこと言ってる間に暗礁が!」

──ガガッ! ガリガリガリ……

「っ! 乗り上げたか!」

「ひゃあっ! お願いっ! 破れないでくださいっす!」

 幸いにして今回は竜骨の竹を擦っただけで済んだが、なかなか心臓に悪い。

「今のはヒヤッとしたな。これはちょっとなんとかしないと怖いな」

「えーと、じゃあ、あたしとガクさんが船首と船尾に別れてブレーキと方向転換するのはどうっすかね?」

「つまり?」

「この筏は船首がシーアンカーに引っ張られてるから船尾方向に進んでるっすよね。だから船尾側で見張りをして、暗礁が近づいてきたら船首側からシーアンカーのロープを引っ張ってブレーキをかけつつ、船尾側で釣竿を使って暗礁を押して筏の方向を変えるのはどうかなっと」

「なるほど。それはいいアイディアだ。シーアンカーのロープを引いてブレーキをかけるのは俺がやるから、美岬は見張りと舵取りをやってもらえるか?」

「いえっさー。舵取りは釣竿を使えばいいっすかね?」

「そうだな。糸を外せばちょうどいいんじゃないか?」

「そっすね。それにこういう海底火山の山頂の暗礁帯なんてそんなに広くないっすから抜けるのもそんなに時間はかからないと思うっすよ」

「そう願いたいね」

 短く打ち合わせて俺は船首側に移動してシーアンカーのロープを握る。糸とルアーを外した釣竿を握った美岬が船尾側に移動して進行方向の海中に目を凝らす。

「美岬、あんまり身を乗り出して落ちるなよ」

「そこはちゃんと気を付けてるっすよ。あ、進行方向に暗礁っす。ブレーキお願いっす」

「おう」

 俺がシーアンカーのロープをぐいっと引っ張れば筏に制動がかかる。速度が落ちた筏がゆっくりと暗礁に近づいたところで美岬が海中に竿を突っ込んで暗礁を押し、筏の進行方向をずらして暗礁を避ける。

「クリアっす」

「おう。いい舵取りだ」

 そんな感じで暗礁を避けながら進んでいくと、前方にちょっとした小島サイズの岩礁が近づいてくる。おそらく海底火山の最頂部だろう。その大きな岩礁の周辺にも海面から顔を出している小さな岩礁や暗礁がそこかしこにあるようだ。海流も複雑になっているようで渦や波しぶきも見える。
 正直近寄りたくもないが、筏は容赦なくそこに向かって流されている。

「うわぁ……あそこ絶対ヤバイっすよ」

「確実に一番の難所だな。できるだけ筏の速度は落とすからなんとか上手いこと舵取り頼む」

「ひえぇ、責任重大っすね」

「美岬がベストを尽くしてくれればそれでいい。もし上手くいかずに座礁しても美岬だけの責任じゃない。俺たち二人の決定の結果だ。気負わずに頼む」

「うぅ、最善を尽くすっす」

 悲壮な覚悟を決めた俺と美岬を乗せて筏は明らかにやばそうな雰囲気を醸し出している沖磯に向かって流されていくのだった。





【作者コメント】

 大雨直後の表層海水はかなり真水と混ざって薄まっているので塩分濃度を気にせず飲めるというのはサバイバルにおいて知っておきたい情報の一つです。二人が大雨直後の表層海水を掬って飲むシーンは是非とも入れたいと思っていました。
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登場人物紹介

■名前/谷川 岳人(たにがわ がくと)

■年齢/36歳

■職業/調理師、ジビエレストラン経営者、バックパッカー、コラムニスト、山岳ガイド、遭難者捜索ボランティア

■別名/シェルパ谷川、サバイバルマスター

■人物紹介/僻地の別荘地でジビエレストランを経営する傍ら、山岳ガイドや遭難者捜索ボランティアをしている。以前はバックパッカーとして世界中を旅してシェルパ谷川というペンネームでアウトドア雑誌に紀行文を連載していた。サバイバルマスターという呼び名はその頃についたもの。家族や親しい人たちを全員亡くし、失意の中で一人旅をしている時に美岬と出会う。



■名前/浜崎 美岬(はまざき みさき)

■年齢/17歳

■職業/高校生、農大附属高校2年、コンビニ店員、有用植物研究会所属

■人物紹介/離島出身で本土の農大附属高校に一人暮らしで下宿しながら通っている。仕送りが少ないのでコンビニでバイトしている。過疎化、高齢化が進む故郷の島の村おこしのために名物になりうる作物を研究するために農大附属高校に入った。大学生メインのサークル『有用植物研究会』に所属しており、パイオニア植物が専門。中学までは歳の近い子供がいない島の分校で学んだため、同級生との接し方が分からず、クラスでは孤立しており、ややコミュ障。盆休みに実家の島に帰省する途中の船で岳人と出会う。岳人のコラムは昔から愛読していた。

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