第32話 5日目②おっさんは覚悟を決める

文字数 3,311文字

 朝5時頃、周囲が辛うじて判別できる程度には明るくなってきた。晴れていればそろそろ日の出の時間だが、分厚い雲に覆われた今日はさすがに明るくなるのが遅い。
 ちょうど今が満潮のピークであり、しかも大潮なのでカルデラの外縁山のほとんどは水没しており、外洋の高波がそこかしこから直接カルデラ内になだれ込んできている。
 なおまずいことに、風向きが南から次第に西寄りに変わってきていて、今まで巨大な夫婦岩が俺たちを風と波から守る盾となってくれていたのが機能しなくなりつつある。
 今もまた、カルデラの西側の外縁山を易々と乗り越えた大波が真っ白に泡立ちながらまっすぐに俺たちの筏に襲い掛かってきた。

「来るぞ美岬! 息を止めろ!」
「はいっす!」

 俺たちが息を止めた直後に波が筏に覆い被さり、俺たちは筏ごと波の下を(くぐ)ることになる。
 筏の浮力が働いて波の上に浮かび上がった瞬間に急いで呼吸を繰り返す。

「ぶはっ。すぅーはぁーすぅーはぁー……くっ、また次のが来そうだぞ」
「はぁーはぁーはぁー……すぅぅ……」

 再び波の襲来に合わせて息を止めて波の下を潜る。
 すでに筏は何度も波に洗われているので、舳先に麻紐で縛りつけていた竹の枝の束や昨日拾い集めた流木なんかは、波の水圧に耐えきれずにばらばらになって流されロストしてしまった。
 昨日作ったオール2本も筏の上から流されてしまったが、こちらはオールと筏を繋いだ麻紐がちゃんとつながっているのでロストせずに筏の後方で波間に揺れている。
 俺のリュックと美岬のショルダーバッグは嵐が激しくなってきたタイミングでそれぞれで身に付け、クーラーボックスは筏にパラコードでしっかりと固定しているので無事だ。
 波だけじゃなく風と雨もかなり厄介だ。
 すでに風は筏にしがみつかないと飛ばされそうなほど猛烈なものになっており、その風によって断続的に叩きつけてくる雨粒は剥き出しの肌に当たると痛いぐらいだ。

「……こ、これ……絶対台風直撃してるっすよねっ!」

「ああ。モロに来てるな、これは」

「……あたしら、運悪すぎじゃないっすか!」

「……否定はせん。だがそれでも生きてるってことは悪運も強いと思うぞ、って次の波来るぞ!」

「あーもー! すぅぅ……」

──どぷんっ ……パキパキパキ

 息を止めて波の下を潜ったまさにその時、嫌な音が聞こえた気がした。硬い何かが水圧に負けて割れるような……。

「……ぶはっ ……なんか嫌な音が聞こえた気がしたんすけど」

「…………やめて。俺の空耳だと思いたい」

「……しっかり聞こえてるじゃないっすか!」

 俺と美岬は同時に筏をこの場所に繋ぎ止めている錨綱(いかりづな)のその先を見やる。当然、錨綱が結ばれた海中の暗礁の様子は見えないが、この筏を嵐の中、この場所に何時間も留めてきたあの暗礁に掛かった負荷はいかほどだろう、と考えると嫌な予感しかしない。今も錨綱はピンと張っているので現在進行形で暗礁に負荷は掛かり続けているのだ。

「……ガクさん! 次の波が!」

 泣きそうな美岬の声に顔を上げれば、一際大きな波が迫ってきていた。……あー、この波はヤバいかもしれんな。

「しがみつけ! 諦めるな! 活路はあるっ!」

──どどどっ ……パキ……パキパキ……バキッ

 俺たちの上を乗り越えていく波の音に混じり、何かがへし折れる音がした直後、筏がふわりと浮かび上がって流され始めたのが分かった。

「折れた!?」

「くそっ! 保たなかったか! 美岬、すぐにオールを回収! こうなった以上、岩だらけのこの場所に留まるのはかえって危険だ! 北東の礁門から外洋に出るぞ!」

「りょ、了解っす!」

 俺と美岬はただちにうつ伏せ状態から跳ね起き、麻紐を手繰ってオールを引き寄せて回収した。また、暗礁に結びつけていた錨綱を回収し、大波で筏が押し流されないように、また舳先を波頭に向けておけるようにと再びシーアンカーを海中に投下する。

「外縁山は水没してるけど、水中で消波ブロックの役目は果たしてるからカルデラ内を時計回りに回る潮流は生きてる。オールを漕いで筏を流れに乗せるぞ」

「はいっす!」

 外縁山を乗り越えて襲い掛かってくる大波の中で筏を操るのは大変だが、二人で四苦八苦しながらオールで漕いでなんとかカルデラの外縁山に沿って流れる潮流に筏を乗せることに成功する。この時、意図していなかったがシーアンカーがさながら海中帆のような役割を果たし、筏の下の海中を流れる潮流を捉えて筏を引っ張り始めた。

「おお、シーアンカーにはこういう使い方もあるんだな。正直助かった」

「あたしも知らなかったっす。ブレーキとしてだけじゃなく、海中を流れる潮流を利用する帆としても使えるんすね」

「オールではほとんど進めなかったから嬉しい誤算だな」

 夜中ずっと俺たちを雨嵐から守ってくれた夫婦岩がどんどん後方に遠ざかる。激しい雨のせいで視界が極めて悪く、ほんの100㍍ぐらい離れただけで雨のカーテンでかなり輪郭がぼやけている。もうまもなく振り返っても見えなくなるだろう。

「あの夫婦岩が無かったらって思うと怖いっすよね」

「そうだな。あの真っ暗闇の嵐の中であの大岩の風裏に避難出来てたのがせめてもの救いだったな。あれが無かったら正直 今も生きてるかどうか怪しいな」

「無事に帰れたら、いつかまたここに来たいっすね。晴れた日に来たらきっとすごく綺麗な場所だと思うっすよ」

「それはいいな。改めて来たら感慨深いだろうな」

「じゃあ約束っすね」

 そんなことを言い出した美岬の顔を思わず見れば真剣な目をしていた。無事に帰れるかも分からないのに約束なんて……と口許まで出かかった言葉を呑み込む。そんなことは美岬も分かっている。分かった上でのこれは願掛けなのだ。
 俺は美岬の健気さに思わず手のひらで美岬の頭をわしゃわしゃっとしてしまった。

「そうだな! 約束だ! ここの座標は昨日のドクターヘリが報告してくれてるだろうから調べればすぐ分かるはずだ。無事に戻ったら船をチャーターして……いや、美岬の親父さんに乗せてもらうのもありだな。とにかく絶対にまた一緒に来ような」

 美岬が満面の笑みで頷く。

「はいっす!」

 そうこうしているうちに、筏はカルデラの北東に開いた礁門に近づいてきた。こちらの礁門は俺たちが入ってきた夫婦岩の間の礁門に比べればかなり広く、あまり神経をすり減らさずに通り抜けられそうだった。
 筏をオールで操って、カルデラ内を回る方ではなく、カルデラから流出する方の潮流に筏を乗せた。
 さて、吉と出るか凶と出るか。だが、少なくともこのままカルデラ内に留まっていたら、これからますます酷くなる波によって外縁山の岩に叩きつけられて筏がばらばらになってしまったであろうことだけは確かだからこれ以外に活路は無かったと思う。とはいえ、礁門の先、カルデラの外の外洋は大自然の脅威の荒れ狂う嵐の海だ。

「前門の虎、後門の狼っすね」

「まったくだ。せめて狼の方が少しでも手加減してくれることを願うしかないな」

「……あたしは、今回もガクさんの判断が正しかったって確信してるっす。だから、この先にどんな結果が待ち受けていても、後悔したりガクさんを恨んだりしないっす!」

「……このタイミングでそれを言える美岬はやっぱり俺にとって最高のパートナーだよ。……一緒に生き残るぞ、相棒!」

「おうっ!」

 俺と美岬はお互いの拳を軽くぶつけ合わせ、カルデラ北東の礁門から嵐の只中の外洋へ筏を進ませるのだった。








【作者コメント】

 潮の干満はおおよそ6時間ちょっとの周期で繰り返していくので、時間が毎日少しずつ(だいたい45分)ずれていき、15日周期で繰り返します。満月と新月の前後が大潮になり、大潮の時は大体昼頃と夜中の日付が変わった直後ぐらいに干満のピークが来ます。満潮はその間である朝と夕方です。


 蛇足ながら、月の満ち欠けは29.5日周期なので、それを基準にした暦が太陰暦となります。太陰暦は非常に分かりやすい暦ですが、29.5日×12ヶ月だと354日となり、地球が太陽の周りを公転する365日とは11日ずれることになりますのでこまめな修正が必要になります。

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登場人物紹介

■名前/谷川 岳人(たにがわ がくと)

■年齢/36歳

■職業/調理師、ジビエレストラン経営者、バックパッカー、コラムニスト、山岳ガイド、遭難者捜索ボランティア

■別名/シェルパ谷川、サバイバルマスター

■人物紹介/僻地の別荘地でジビエレストランを経営する傍ら、山岳ガイドや遭難者捜索ボランティアをしている。以前はバックパッカーとして世界中を旅してシェルパ谷川というペンネームでアウトドア雑誌に紀行文を連載していた。サバイバルマスターという呼び名はその頃についたもの。家族や親しい人たちを全員亡くし、失意の中で一人旅をしている時に美岬と出会う。



■名前/浜崎 美岬(はまざき みさき)

■年齢/17歳

■職業/高校生、農大附属高校2年、コンビニ店員、有用植物研究会所属

■人物紹介/離島出身で本土の農大附属高校に一人暮らしで下宿しながら通っている。仕送りが少ないのでコンビニでバイトしている。過疎化、高齢化が進む故郷の島の村おこしのために名物になりうる作物を研究するために農大附属高校に入った。大学生メインのサークル『有用植物研究会』に所属しており、パイオニア植物が専門。中学までは歳の近い子供がいない島の分校で学んだため、同級生との接し方が分からず、クラスでは孤立しており、ややコミュ障。盆休みに実家の島に帰省する途中の船で岳人と出会う。岳人のコラムは昔から愛読していた。

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