45・天国の鍵

文字数 1,654文字

「富んでいる物が天国に入るよりは、ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい…」
「ふぅーん…そうなんだイエス」
「さっきの人も、そうだったよなー。けど全部捨てるってのも中々難しいよ、うーん…」
「その点、マタイさんは偉いですね」
「いやバルトロマイはん、皆さんもそうや。必要以上に物は持たんし」
「…け、けど下着は1枚じゃなくって、余裕を持ってるけど…」
「もー、イエスさまったら前あんな事言ってー。エッチだよねー」

エルサレムに向かう道すがら、俺は小冊子に載っている
イエスキリストの言葉をできるだけ弟子達に語っていた。

「しかし、そうなるとどういう人が救われるんでありましょう?」
「ああ、人には出来ないけれど。神には何も出来ない事はないさ」
「オー、やっぱり、神は見てるんですネー」
「じゃあ、みんなを救って欲しいのだー」
「ユダもいい子にしてないと、救われないよ?」
「うるさいなーシモン」

弟子達は、これから先の事について多少の不安を抱いてはいるようだけど。
それでも表面上は普段通りだった。
みんな、あえて悲観的な事を考えないようにしてるのかも知れない。

奇妙な話だけれど、何でもないいつもの日のように雰囲気は和やかだ。
まるでいつもみたく、ちょっと離れた町にみんなで一緒に布教に出かける時のような。
ちょっと、遠足にでも行くみたいな雰囲気の。
これって、転生前にテレビとかで見た正常化バイアスってやつなのか…。

「イエス様に従う限り、きっとみんな救われますよー」

ペテロも一見、表面は平穏そうだ。
けれど時々、ふと気がつくと辛そうに表情を曇らせてたりする。

「イエス様の言う事ですから…きっと、必ず…」

ふと、言葉を詰まらせたり。
それもそうだよな…。もしかして、密かにひと一倍苦しんでるのかも。
仕方がないとは言え、ペテロに向かってサタンなんて言っちゃったし…。

何か、ペテロをフォローできるような事とか書いてないか?
俺は小冊子を開いた。
お、これがいいか…。

「あの…ペテロ。この前は悪かった。サタンなんて言って…」
「え、いえ…」

俺がそう言うと、ペテロの顔が一瞬悲しそうに歪んだ。
や、やっぱり結構気にして…。

「…私が悪かったんです、イエス様」
「いや、俺もちょっと言いすぎたって言うか」
「イエス様の仰る通り、私は神を思わないで人を思って…」
「あ、あのペテロ」
「私…。イエス様に、そう言われて当然…」

目に涙を浮かべるペテロの様子に、周りのみんなは静まり返った。
誰かの、鼻をすするような音が聞こえた。

「ペテロ。そう自分を追い詰めないで…。何せ」

「ペテロは、天国の鍵を握っている」
「え…」

俺の言った一言に、ペテロはきょとんと俺の顔を見つめた。
俺の真意がわかりかねている様子だ。

それもそうだよな。
サタンと言ってみたり、天国の鍵を握ってると言ってみたり…。

「あ…あの、イエス様。それはどういう…?」
「え、えーと?」

そうだ、ペテロが天国への鍵を握ってるって、一体どういう事だ?
ペテロを慰めようとする気持ちばかりで、意味をよく理解してなかった。

「そ、それだけペテロが大切って事?」

…何だか、頭の軽い口先男の口説き文句みたく上滑ってしまった。
だって、人生の中で女の子を慰めた経験なんて今まで何も…

「…」

ペテロは、そんな様子の俺をしばらく眺めていたけれど。

「…ふふっ」

いかにも可笑しそうに、小さく笑った。
そして、周りのみんなも。

「ふふっ…いーなーペテロー。イエスってば贔屓してー」
「ねーねーイエスさん、オレはー?」
「ヨハネはー?」
「あ、悪い、ペテロの分しか書いてなくって」
「…どういう事…」
「あ、いやこっちの話」

一瞬沈み切ったみんなの雰囲気も、元通りになった。

…ふぅ、天国の鍵、か。
たぶん、本当にそんな物なんてないんだろうけど。
それでも。ペテロの、胸の内を晴らしてやれて良かった…
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