27・パンと魚の奇跡

文字数 10,558文字

一週間前。大勢の信者の前での演説を終えて。
カペナウム郊外の、俺一人で住んでいる小さな家に帰ってきて
弟子達と一息ついていた時。

「今日も、すごい人でしたねー」
「うん、もう話を聞きにくる人1万人は超えてるね?」
「やっぱり、すごいよなーイエスさんは」

俺は思った。信者は1万人を超え、
そして男だけで5000人にはなった。

これは、例のあのエピソードをやる頃合いじゃないか?
イエスキリストが5つのパンと、2匹の魚で男だけで5000人…。
男女合わせて約1万人の信者のお腹を一杯にしたというあの奇蹟を。

このタイミングを逃したら、さらに信者が増えて
男だけで6000人となってしまいそうだし、そうなったらもしかして歴史に何か異変が…。

けど、いったいどうしよう。
どうやったら1万人をパン5つと魚2匹で満腹に?

「イエス様、どうしました?」

ペテロが悩む俺の様子を見て声をかけてくる。

「ああ、ちょっと…」

どうするか。
一つ、みんなに相談してみるか。
俺は立ち上がると、棚をあさって買いおきのパン5つと
小さな魚の干物2匹をみんなの前に並べた。

「イエス様、何をされてるんです?」
「お腹でも空いたの?イエス」
「いや…」

「みんな。これで1万人の人々を満腹にするにはどうしたらいいと思う…?」
「え…?い、1万人を5つのパンと2匹の魚だけでですか?」
「そんなの、無理に決まってるってばイエスー」
「できっこないよイエスさーん」

うん、そうだよな…

「イエスってさ、時々変な質問するよね」
「あー、前、水をワインに変えるにはとかあったねー」
「けど、イエス先生が奇跡的なお力で水をワインに変えられて…」
「あー、あれは凄かったですーイエス様ー」
「…まさに、奇蹟だったね…」
「へー、そんな事があったんやー。さすがはイエスはんや」

「けど、パン5つと魚2匹で1万人を満腹にー?」
「そんなの、イエスさんが奇蹟で何とかするしかないよ」
「そうですね。イエス先生が水をワインに変えられた時のように」

それが出来なくて、今こうして頭を悩ませているわけで…

「ねぇイエス、それに1万人を5つのパンと2匹の魚で満腹にして何の意味があるの?」
「そうそう、イエスさん、それにどういう意味があるの?」
「ん?うん。これは人を救うために、世の平和のために必要なんだ」
「…なぜ…」
「いえきっと、イエス先生には何か深いお考えが…」

「…そうなのですね、イエス様」
「ん?」
「1万人の人々を、5つのパンと2匹の魚でお腹いっぱいにすれば、世の人々は救われるのですね…?」
「ん?う、うん、そういう事…かな」

う、うん。意図してる所が、何かズレてるような…
みんな事情を知らないから、仕方ないと言えばそうだけど。
でも、それがモレク教じゃなくてキリスト教を広める事になるから、結果そういう事になるのか…?

「ぜひ、やりましょうよイエス様!」
「そうだねイエス。話聞きにくる人、今そんくらい居るしさ」
「そう!そんで、イエスさん得意の奇蹟でバーンと!」
「わー、見たい見たーい!」

うん…
残念だけど、俺にそんな力はないんだ…。

「あ、それでさイエス」
「ん?」
「もし、それをやらなかったらどうなるの?」
「…やらなかったら」

「世界は、闇へと変わる…」
「え、ええーっ!?」
「せ、世界が闇に!?」
「大変じゃないかイエスさん!?」

「い、イエス様、ぜひこの世を闇からお救いください」
「そうだよイエス!?そんなのん気に構えてないでさ?」
「い、イエスさん?大丈夫なんだよね?」
「こ、怖いよイエスさまー…」

どうしたらいいんだ…
小冊子に書いてあるように、パン5つと魚2匹で
1万人を満腹にするなんて、普通じゃとても無理だろうし…

けれど、皆がそういう風に認識したらいいんだよな?
1万人の人々が、パン5つと魚2匹でお腹いっぱいになったといった風に。

…そういう事なら。この方法ならきっと。
よし。俺と弟子達の力を合わせて、やって見るしかない。

「…よし。一週間後、皆の前で話をする時にやって見る」
「え…?イエス、一週間後話をする時に?5つのパンと2匹の魚で1万人をお腹いっぱいに?」
「あ、あの、イエス様」

ペテロが、心配そうな声で俺に質問する。

「最近、イエス様がお話される時は、かなり町から離れた所でされますから…」
「そうそう、たったそれっぽっち分け合ったら、全然足りなくて帰るときみんなお腹が空いて倒れちゃうよ?」
「…そのあと、それぞれ食べる物を買いに行ってもらった方が…」

確かに、最近俺が話をするとなれば1万人以上の人々が詰め掛けるので
演説は町からかなり離れた郊外でしないと大変な混乱になってしまう。
特に、集まった人々への食料の配給を任せてあるアンデレとフィリポは気がかりだろう。

「大丈夫。俺にいい考えがある」
「本当に?」
「一体、どうするの?」

「みんな、協力してくれるか?」
「え?ええ、もちろん!」
「何かいい方法があるんだね?」
「人々を救うためだよね?やるよ、イエスさん!」

そういうわけで、俺達は皆で協力して
イエスキリストが5つのパンと2匹の魚で1万人のお腹を満たしたという
パンと魚の奇蹟の再現に挑む事になり…



「さーてっ、皆が盛り上げてくれたし!」

「一丁、話をして来るか!」
「イエス様。イエス様は歌わないんですかー?」
「もう、私たちにだけこんな事させて」
「イエスさんも歌えー」

アイドルの真似をさせられ、ぶうぶう不平を言う弟子達を残し
俺はいつものように話をするべく聴衆の前へと立った。



「えー…。異教の神は、人を殺して生贄に捧げる事を求めます」

俺は聴衆の前に立つと、皆にモレク教やその他の異教が広まらないよう話を始めた。

「その他、姦淫など様々な悪や不正を皆に広めます」

俺は杖を手に持ち、要所要所で掲げて話をする。
こうするとそれっぽいし、それと万が一モレク教徒が襲ってきた場合に
身を守れるように…。

「なぜ殺人や姦淫、盗みなどの様々な不正、悪事をしてはいけないのか」
「それが当たり前になれば、世の中の秩序は崩壊するからです」

しかし、こんな俺のいた未来では当たり前の事をこの時代では
いるかどうかもわからない神の名のもとに教え広めなくてはいけないとは。

「秩序の崩壊した世の中には暴力や貧困、病がはこびり…」
「皆の心がバラバラになった所を他国に狙われ、戦争の危険すら訪れるでしょう」
「そんな歴史は、言い伝えにあるように昔から何度も繰り返されてきました」

考えてみれば、
この時代の人達の倫理観やモラルは俺のいた時代のそれとはぶいぶん違う。
盗みや強盗はしょっちゅうだし、神への生贄とそそのかされれば人の命も平気で…。

「神はきっと、そんな皆が苦しみ、悲しむ世の中を望まれてないのです。…なので神は」
「殺すな、姦淫するな、それを広める異教を信じるなという教えを授け守るように言ったのでしょう」

確か、こういうのを社会悪って言うんだっけ。
まったく、悪事を働くなとか人を殺して生贄にするような邪教に入信するなとか。
そんなのは、俺のいた未来の世界では当たり前の常識で…。

「皆に悪や不正を広め、行わせる存在は、神というよりはむしろ悪魔です」
「誘惑に負け不正や悪事を行い、またそれを広めようとするものに心を許してはいけません」

…けど。当たり前の常識、か。
どうして俺は、この時代の人と違ってそう思うんだろう。
信仰のために、人を生贄にしたりなんてするのは間違ってるって…。

「神は、皆に生贄よりも憐れみを求めます」
「きっと行い正しく、他人をいたわる者こそ神の意にかなうのです」

もしかしたら…。邪教を禁止したり、人をいたわりなさいと説いたイエスキリストの教えは
時代を超えて、知らない間に俺の中にも根付いているのかも知れない。
俺だけじゃなく、未来の大多数の人達にも。

「なので神の教えられた事を守り、誰でもわけへだてなく優しくして…」
「皆がそうする事によって、皆を苦しめる悪から救われるのです」

日本にも、仏教といっしょにキリスト教も入ってきたんだっけ。
授業で習った気がする。確か、お経みたいな形になって。

仏教が日本に伝わる間に生贄の禁止、他人をいたわりなさいなどのキリスト教の要素が入りこみ、
やがてそれが日本中に広まって守られる内にいつしか当たり前の常識となって…。
そういう事なんだろうか。

「人として、当たり前の良心や良識」
「それを守る事が大切なんです」

日本だけじゃなく、キリスト教はそれこそ世界中に広まった。
だから、世界中の大多数の人は生贄の儀式と聞けばひどく恐ろしさを感じるし、
他人に優しくというのは当前の常識で…。けど。

「しかし、正しく生きようとする事は時として命がけになる事もあります」
「平和や、心正しさの価値を理解しない人達によって…」

この時代では危険なモレク教団や、考えの違うパリサイ派の人達とぶつかる事になるかも知れない。
それに確か、キリスト教徒ってけっこう迫害されたんだよな。
迫害にあった人達は、俺や未来の人達とそう違う所のない善良な人達だったろうに…。

「けれど、立ち向かわなくてはいけません。無理解や、人を踏みにじる悪に対して」
「お互いいたわり合うようにと定められた神の教えを守り、広め、理解してもらうのです。そうすればきっと」
「平和に満ちた神の国は、この世に実現するでしょう」

俺はそう言って話を締めくくった。
それと同時にワァァーーーーー…と、聴衆から熱狂的な歓声が上がる。

俺は確信した。
きっと、ここに集まった人はモレクやその他の宗教の邪悪な教えに
もう心を動かされる事はないだろう。
そしてお互いいたわり合い、皆に不幸をもたらす悪に対抗していくことだろう。

俺は皆の中に、心優しく、慈愛に満ちた神の姿を見たような気がした…。


「イエス様、お疲れ様でしたー!」
「もうすっかり話も様になって来たね!」
「おう、最初の頃とは別人みたいだよ」
「イエスさま、良かったー」
「いやいや、なーに」

話を終えた俺の元に、弟子達が寄ってくる。

「…救いの御子と言われただけはある…」
「さすがはイエス先生ですね。聴衆も感銘を受けております」
「ああ、ええ話やったなぁ。うちも頑張らな」
「いい話でありました!」
「いや、当たり前の事を話しただけなんだけど…」

最初にあれだけどんな話をするか戸惑っていたのに、
もう慣れたものだった。

「あんな大勢を熱狂させるなんて、イェース様のこと尊敬しちゃいマース」
「イエスしゃんはすごい人なのだ!」
「あ、アタイ、むつかしい事はわかんない。けど気持ちは伝わってきたよ」
「うん、この人を選んだ僕の目に間違いはなかった」
「まあ、ざっとこんなもんさ」

弟子達からの熱い賞賛と尊敬のまなざし。
けど、ここで変に調子に乗ってはいけない。
あくまでさり気なく、クールに振舞うのがよりカッコよく見せるコツだ。

「うーん、イエスはやっぱりすごい!すごいよ。けどさ…」
「ん?」

「私達が最初に、こんな恥ずかしい格好で歌って踊らされたのって」
「ああ、一体何の意味があったんだ…」
「そ、そうであります、これさえなければ…」
「き、きっとイエス様には何か深いお考えがあったんですよ!ですよね?イエス様?」
「あ、そ、そう!ペテロのいう通り!」
「本当かなぁ」

だ、だからそれは悪かったって…。

「ヨハネは、楽しかったけど」
「そりゃあ、ヨハネはまだ小さいから何もわかんないだろうけどさ」
「…小さくて何もわからないのをいい事に、あんなことをさせて…」
「こ、こらフィリポ。変に誤解を招くような言い方はやめろ」

いいアイディアだと思ったのになあ…。
2000年ほどこの時代には早すぎたか。

「イエスさんって、女の子にこんな格好させるの趣味なんだ…」
「まぁ、うちはたまにならこういう格好もええけどなー」
「わたしは、イエス先生がお望みならもっと大胆な格好でも…」
「むーっ、バルトロマイ、ちょっと自信があるからって」
「さてっ、みんな」

何だかうるさくなりそうだったので、
俺は話を変える事にした。
何だかうるさくなりそうだったので、俺は話を変える事にした。

「そろそろ、あれをやるぞ」
「あ…え、ええ!」
「い、いよいよだねイエス?」
「よーっし…世の中の人達のためだ、頑張るぞー!」
「おーっ!」

「よしっ、それじゃアタイ行ってくる!みんなも行くよ!」
「シモンサーン、張り切ってますネー」
「よーし、タダイも頑張るのだ!」
「…さて、準備しなきゃ…」

みんなの気合は十分。
いよいよ、1万人の人々を5つのパンと2匹の魚で
満腹にする奇蹟を演じる時がやってきた。





「皆さーん、4列に並んで下さーい!」
「これから、食料の配給をするからねー?」
「並んで並んで、座って待っててねー?」

ペテロ、アンデレ、ヤコブの3人が約1万人の聴衆に向かって声をかける。

「いやー、ありがたいねいつもいつも」
「町から遠いから、何も食わないで帰ったら腹が減って倒れちまうよ」

声に従って、列を作って座る人々。

「…よいしょ、よいしょ…」
「ふぅ、さすがに重たいですね、これ」
「けど、これも世の人々を救うためであります!」
「そうなのだ!」

そして、弟子達が力を合わせ人々の前に布切れで覆われた
大きな5つの塊を運び出す。それを見てザワザワ…とざわめく人々。

「いいですか…?」
「ああ」
「よし、それじゃ!」

俺達は、顔を見合わせてうなづくと、5つの塊の布をバッと取り払った。
その瞬間、聴衆から一斉におおーと驚いたような声が上がった。

「皆さん、ここにパンが5つあります!」

ペテロが、聴衆に向かって大きな声で語りかける。
正確に言うと、焼く前のパン…。練った麦粉の、人の身長ほどもありそうな大きな塊が5つ。
これを焼けるような大きなかまどがあれば、もっと話は早かったんだけど。

「それから…あちらを見てください」

ペテロが指差した先には、火にかかけられた大きな釜が2つ。
人々は皆、これから何が始まるのかシーンとなって見守っている。

「これに魚を一匹づつ入れまーす!」

これまた、人の身長ほどもありそうな2つの湯の満たされた大釜に
不釣合いなほど小さな魚をヤコブがポチャン、ポチャンと一匹づつ投入する。
よし、これで準備完了。俺は人々に語りかけた。

「皆さん、これで準備は整いました」
「え…?」
「あ、あんな大きな釜に、小さな魚を1匹づつ?」
「魚の、スープ…?だとすると、味もなにもしないぞあれじゃ」

ザワザワ…とざわめく人々。

「まぁまぁ皆さん、それからこれを」

俺は、大きな麦粉の塊を丁度いい大きさに千切り、
それをさらに細長く切った。

細切りにした麦粉を、脇の沸騰した湯の入った鍋でさっと茹で。
大釜の湯を木のお椀にすくって、そこに放り込めば…

「これで、出来上がりました」
「う、薄い肴のスープに入った、茹でた細切れのパン…?」
「マズそう…」

初めて見るものに、戸惑いを隠せない人々。
俺は最前列に座っていた人に、木のフォークと一緒にそのお椀を渡した。

「どうぞ、食べて見てください」
「あ、ああ」

渡された人が、たどたどしい手つきで茹でた細切りの麦粉…。
俺のいた未来では、麺と呼ばれるそれをお椀から掬い出した。

「…」

お椀を渡された人は戸惑い、じっとそれを見つめている。
周りの人々もかたずを飲んで様子を見守っている。
やがて意を決したように、その人は麺を一口頬張り…。

「…」
「どうだ…?」
「あんな大きな釜に、小さな魚を放り込んだだけじゃ、味なんて何もするわけが…」

「う、うまい…」
「え!?ほ、本当に?」
「ど、どうなってるんだ?」

人々から、大きなどよめきが起こった。

「ちょ、ちょっと一口食わせてくれ!」
「俺にも!…本当だ、うまっ!このスープ、ちゃんと魚の味がする!」
「どういう事だ!?」

俺の作った試食分は、あっという間になくなった。

「あんな小さな魚を入れただけで、おいしい魚のスープができちゃうなんて」
「ほんま、不思議やねぇー」

実を言うと、大釜のお湯には弟子達にも内緒で事前に塩を入れ、
たくさんの魚の干物でダシをとってある。

現代なら、ごく当たり前のものだけど。
ダシという概念のないこの世界では…

「すごい、何て不思議なんだ!」
「それに、うまいぞこれ!」
「俺にもくれ!」

たっぷりと、魚でダシをとったスープ。
そこに茹でた麺を入れれば。魚介系あっさり塩ラーメンの出来上がり。
量はたっぷり用意してあるから、1万人の信者にも十分行き渡るはず。

「さすがですね、イエス様!」
「本当、イエスって不思議な事ができるんだねー」
「いや、取りあえず上手く出来て良かった…それより」

「さー、忙しいぞ!何せ1万人以上居るんだから。みんなには、フルに働いてもらう!」
「はい!」
「だね!」






「皆さん、押さないでくださーい!」
「ちゃんと列を作って、座って待っててよ!慌てなくても、全員分ちゃんとあるから!」
「はいお待たせ!並んで並んで、順番だからねー!」

ものすごい混雑っぷりだ。
弟子達が必死に人々に列を作って座って待つように言うが、空腹よりも物珍しさからなのか
皆、我先にとカウンター代わりの長テーブルに押し寄せて収拾がつかなくなりそうだ。

「んおっ、これうまいぞ!」
「あちっ!…熱いけどうまいなー!」
「ちょ、ちょっと、押すなって!」

俺の作ったラーメンを食べた人達から、うまいうまいと声が上がる。
それが人々の混雑っぷりにさらに拍車がかかる。

「食べ終わったら、食器はこちらにお下げくだサーイ!」
「ほらユダ、アンタ手が止まってるよ!」
「なんで僕が食器洗いなんか…」
「これも、大切な仕事なのだー」

皆が大人しく順番に待ってくれればこっちも余裕を持って動けるのに、
今の状況はさながら戦場だった。

「5人前出来上がったでー!」
「沸騰したお湯に入れて、茹ですぎないようさっと上げる…」
「…はい、5人分茹で上がったよー…」
「じゃあ、食器に入れてスープを注ぐであります!」

弟子達にはそれぞれラーメンを渡す係、調理する係、使い終わった食器を洗う係…と
役割を分担させ何とかぎりぎりで場を回している。
そして、俺は何をしているのかと言うと。


「イエスさま、大丈夫?」
「ひぃ、ひぃ…」

俺は5つの巨大な練った麦粉のかたまりを丁度いい大きさにちぎっては切り
ちぎっては切り麺づくりに忙殺されていた。かれこれ一時間ほど働きづめだろうか?

「イエスさまー、交代しようか?」
「いや、これを細く切るのにはコツが要るから、ある程度知ってる俺がやるしか…」
「ふーん…?」

「ヨハネ。あと残りはどのくらい…?」
「うーんと…。8千人くらいかなー」
「そう、8千人か…」

4千人くらいはもう捌けたか?1時間でこれは結構な早さかも。
ラーメンは、こうして大勢の人に素早く提供するのに丁度いい。
スープを用意しておいて、あとは麺を少し茹でるだけで済むし…。
パンを焼いて配ったなら、きっと1万人なら翌朝までかかってしまう。

「うーん、最初から麺を用意しておけばもっと楽に…いや、それじゃ5つのパンじゃなくなるし…」
「イエスさま、どうしたの?」
「あ、ああいや何でも」

「ふぅ、よしさて再開するか!おお神よ、俺に力を与えたまえ…」
「頑張って、イエスさま!」

俺は体力の続く限り、大きな麦粉の塊をひたすら切って麺を作り続けた。
そして、皆大忙しで働きづめに働き、それから約1時間半が過ぎた頃…。


「ぷっ、はぁー…」
「よ、ようやく、全員食べ終わったみたいですね、ふぅー」
「はぁ、つ、疲れたー…」
「もう、クタクタ…」

とんでもなく忙しかったけれど、
俺は何とかかんとか集まった1万とちょっとの人々を満腹にする事ができたようだった。

「みんな、よく頑張ったな…。大変だったろ?」
「いえそんな!」
「これも世の中のためだもの。そうだよねイエス?」
「ああ、まぁな…」

人の居なくなった、ただっ広い野原に俺は足を投げ出し座り、
その周りに弟子たちがめいめい腰を下ろしている。

疲れてはいた。けれど、やり切った感で満たされている。
辺りに吹く風が、涼しくて気持ちいい…。

「…ねぇ、それでさイエス」
「これで、1万人の人々を5つのパンと2匹の魚で満腹にできましたよね…?」
「あ、そうそう!イエスさん、これで世界は闇に変わらなくて済むの?」

そうだった。
これで、イエスキリストが1万人の人々を5つのパンと2匹の魚で満腹にした
エピソードとして残ってるかどうか、確認しなきゃ。

「じゃ、今からちょっと確かめる」
「確かめる…?」
「あ、そうそうイエスさんは未来がわかるんだもんな!」
「どうなの、イエスさまー?」

何か、未来がおかしな事になってなければいいけど…
俺は懐から小冊子を取り出した。

…さて。
答え合わせの時間だ。

5つのパン。
あらかじめ、約1万人を満腹にできるような大きなパン5つは作れない。
大きなかまどで焼いたとしても、表面は焦げても中には火が通らないだろうし。
なので、代わりに大きな焼く前のパン、練った麦粉を5つ用意して…。

2匹の魚。
ちょっとズルかもしれないけれど、大釜の中にあらかじめダシをとった
スープを用意しておいてそこに放り込んだ。

パンを1万人に配るとなると、焼いたり、あるいは茹でたりだと相当時間がかかる。
ならばと、作るのに時間のかからないラーメンに。

ラーメンという言葉が存在しないこの時代だから、
たぶん、これで、5つのパンと、2匹の魚で満腹になったと人々が認識して…。

頼むっ、かなり苦しいけど、これくらいしか思いつかなかったんだ…!
未来よ変わるなよ、ちゃんと広まっててくれ、キリスト教…!
俺は祈るような気持ちで、そーっと聖書の小冊子を開いた。

「…イエスキリストは、男だけで5千人の信者を5つのパンと、2匹の魚で満腹に…」
「え、ええ、そうですねイエス様」
「どう…?世界は大丈夫なの…?」

良かった。
小冊子の記述は、そのままだ…!

「よーっし、やった!上手くいった!みんな、世界は救われたぞ!」
「ほ、本当ですか?」
「やった…」

「やったーあ!」
「世界は救われたんだね?やったあ!」
「やったー、やったー!」
「やりましたであります!」
「…ほっ、良かった…」
「ふぅ、これで一安心なのだー」
「いやー、準備から何から大変だったよなー」

弟子達は、飛び跳ねてお互いに手を取りあって喜ぶ。
きっと、みんなに詳しい事情はわからないだろうけど。
俺自身も、自分の置かれた状況を正確に理解しているとは言えないけれど。

それでも、とにかく。俺とみんなはやり遂げたんだ。
5つのパンと、2匹の魚で約1万人を満腹にするという無理難題を…!

「ほんま、ここ1週間は緊張したわぁー」
「そうだよな、マタイ。下手したら世界が闇に変わっちまう所だったもんな?だよねイエスさん?」
「皆さんも、お疲れ様でありました!」
「ふぅ、肩の荷が下りた気分デース」

俺達はひとしきり喜びあって。そしてそのあと…

「よーし、それじゃ…」

「お腹空いたろ?まだ残りがあるから、それでご飯にしよう」
「はーい!」
「そうだね!」

腹ペコの俺達は、
まだ残ってる材料でラーメンを作り、野原に座って夕飯代わりに食べる事にした。

「うん、うまい!ズズー」
「そ、そうやって食べるんですか?ズ、ズ…イエス様難しいですよー」
「い、イエス、凄い食べ方するね?」
「うん、やっぱこれうめー!」
「ほんと、おいしいねー」
「…手が止まらない…」
「ああ、イエス先生の手料理、おいしい…」
「ほんまに、ちょっと不思議で、けどおいしいもんやなぁ」
「一生懸命働いた後だから、さらに格別であります!」
「トマースの言うとおりデスネー」
「忙しいけど楽しかったのだ!そしておいしいのだ!」
「んまーい!イエッさん、お代わりしていい?」
「パンは普通に焼くべきだよ。これもおいしいけどさ」

「はー、うまいけど、もう2度と作らない」
「えー?残念ですぅー」
「だって、毎回これだとみんなも大変だしな…」
「まー、確かに」

それに、ラーメンの発祥の地が古代イスラエルとか
変に歴史が変わってしまったら大変だしね…。

「さーて、みんな食い終わったら後片付けなー」
「はーい」
「あーあ、最後に一仕事だね」

人手のいる大きな物は後回しにして。
皆で俺があらかじめ用意しておいたカゴに、残った食べ物やら何やらを片付けて回る。
そして12のカゴが一杯になり、俺達はそれを背負って
夕暮れの影が長く伸びる道を、皆で歩いて帰途についたのだった…。




さて、これだけの数の信者がいれば大丈夫だ。
俺は数日後、信者の中から体格のいいのを選りすぐって徒党を組み、
モレク教団をこの地から追放すべく
儀式が行われていた例の古い神殿に意を決して踏み込んだ。

しかし、そこにあの禍々しい神像は無く、神殿はすでにもぬけのカラだった。
うっすらとホコリが積もり、
まるで、最初からそこに何も存在していなかったかのように…。
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