9・旅立ち

文字数 3,795文字

AD17年、ナザレ――――





あれから、5年が過ぎた。
俺はこの世界で、以前居た世界と変わらない年齢になっていた。

今現在、俺は父さんがしている仕事である大工の手伝いをしている。
あんまり器用でない俺だけど、
父さんが小さい頃からみっちり仕込んでくれたお陰で、
今は戸惑う事なく仕事が出来ている。

そして、俺は常々思っていた。
例の聖書の小冊子によれば、キリストは29歳になったら伝道の旅に出るんだよな。
俺、29歳になるまでこのままずっと過ごさなくちゃならないのか…?

我慢できそうにない。
かと言って、今すぐ伝道の旅に出かけたら一体どういう事になるのか。
もしかして、歴史がメチャメチャになるのか?
それとも、29歳で伝道の旅に出たという所が17歳に変わるだけなのか?

早いとこ、このプレッシャーから開放されたいという思いもあった。
何せ、俺が何か迂闊な事をしてしまったら、
それが元で未来がとんでもない事になってしまうかも知れないからだ。

小冊子に書かれてる、キリストがたどった生涯。
それを何とか上手い事周囲を誤魔化しつつ全うする事で、
俺はこのプレッシャーから開放されるだろう。
後はこっちで結婚でもして、大工をしながら幸せな生活を送ればいい。

小冊子に書かれている、キリストの最後…。
ちょっとだけ気になってはいたが、まぁ、何とかなるだろう。

…よし。
俺は決意した。
来週にでも、聖書の小冊子に書かれている通りの伝道の旅に出よう。
キリストみたく人を救うなんて全然ガラじゃないけれど。
けど、どうすればいいのかこの小冊子が教えてくれるはずだ。

何せ、間違った事をしようとしたらキリスト教に代わって邪教が支配する、
暗黒に変わってしまった未来の記述が現れるから。

俺は小冊子を開いた。
以前はベフヘフェフの星だった所が、今ではベツレヘムの星にちゃんと戻っている。
ふぅ、あれには苦労させられた…。
どうやら母さんは、俺の繰り返し言った事をやっと聞き入れてくれたようだった。

それから、キリストが伝道に出かけた年齢を見てみる。
17歳。今の俺と同じ年齢だ。
その後のページをめくって見ても、特にキリスト教が広まらず、
変わって邪教が支配する暗黒の世界となってしまったという記述は現れてなかった。

…そうか。大丈夫なんだ。
来週にでも伝道の旅に出て。

そうとなったら、善は急げだ。
俺はその日の晩、父さんと母さんに来週にでも伝道の旅に出かける事を伝えた。
二人とも、ハッとしたようだった。
何か、思い当たる所でもあったんだろう。

「…そう。やっぱり、そうだったのね」
「ああ。いつかは、その日が来ると思っていたが」

二人ともしばらく黙っていたが、やがて父さんが口を開いた。

「やっぱり、お前はあの3人が言っていたように、救いの御子だったんだな」
「ええ。ずっと、私たちの子供で居て欲しかったんだけれど…」

父さんも母さんも、俺を拾ってくれた時から歳をとった。
父さんは髪に少し白いものが混じり、母さんは目じりに小シワが出来ている。

「きっと、止めようとしても無駄なのね、イエス。貴方に神の啓示が降りたんでしょう」
「ああ。きっと、果たすべき使命があるんだろう。お前にはな」

いや、神の啓示とかじゃなくって、
そうしないと未来がメチャクチャになってしまうからなんだけど…。
あと、プレッシャーから早い所開放されたいってのもある。

「心配しないで、父さん、母さん。たまに帰ってくるよ」
「え、ええ」
「ああ。何かあったら帰ってこいよイエス」

それに、何とかかんとか俺が無事にキリストの生涯をたどり終えたなら、
また、この暖かい家族三人で…。

「本当に、旅に出てしまうのねイエス、うっ、うっ…」
「マリア…」
「か、母さん。そんな泣く事ないって。何も一生会えないわけじゃないからさ」
「…イエス。出かけるのは来週か?」
「あ、ああその積もりだけど」
「なら、前の日に沢山ご馳走作ってお祝いしなきゃな。お前の旅立ちを」

父さんが、しめっぽくならない様に明るい声で言う。

「…ええ、そうね。イエスの好きだった羊の串焼き、たくさん準備しなきゃね」
「あと、ワインもな。もう飲めるだろう?」
「それに、近所の人たちも沢山招いてね」
「さぁ大変だ。これは今から準備しなきゃな」
「ちょ…。ちょっと父さんと母さん。それじゃお金がかかり過ぎるから」

お世辞にも金持ちとは言えない家に、そんなに負担をかけるわけには行かない。
お祝いしてくれるのは嬉しいけど、出来るだけ質素に、家族3人で…。

「なーに、気にするな。何せお前が人々を救う旅に出るんだ」
「ええ、その通りよイエス。これは景気良く送ってあげなきゃ」

二人とも、俺の言う事なんか聞いてなかった。
はぁ…。
知らないよ?そのあとしばらくパンと水だけの生活になっても。



そして、俺が旅立つ日の前夜。
俺の家は、押しかけた近所の人でごった返していた。

「イエス!伝道の旅に出るんだってな?」
「お前は小さい頃から、何か他人とは違ってたからな」
「いつか、何かやると思ってたよ」
「しっかりやれよ?」
「あ、ああ」

小さい頃よく遊んだ、近所のイサクやヨシュアが俺に話しかけて来る。
知ってる面々ばかりでなく、中には見た事もない人も混じっていた。

「さぁさぁ皆さん、今日はお腹いっぱい食べて飲んでね?」

母さんはそんな人たちの間を歩きながら、景気よくワインをついだり
貴重なご馳走の焼いた羊肉を振舞っている。
その他にも山盛りのいちじくやザクロ、ナツメヤシ…。
こんな沢山のご馳走、うちで出たのは見た事がなかった。

「ちょ、ちょっと母さん」
「あらなに?イエス」

俺は思わず、母さんに小声で話しかけた。

「景気よくやり過ぎだって。一体うちのどこにそんなお金が…」
「あら、子供は家のお金の事なんか心配しないものよ」

まるで母さんは聞く耳を持たない。
それどころか…。

「あら、ワインが足りなくなりそうね。イエス」
「何?」
「ワインをひと樽、うちに届けるようちょっと行ってきてくれないかしら」

ワインをひと樽も?
多分それって、うちの一か月分の収入に当たるんじゃ…。

「母さん、それじゃ…」
「いいのいいの。ほら早く行ってきなさい」

母さんは、こっちの言う事を聞いてくれそうにない。
本当に、どうなっても知らないからね。




「やー、今日は沢山の人が来てくれたな」
「うふふ…。ええ、本当にね。みんな祝ってくれて…」
「ふぅ、俺は気が気じゃなかったよ。二人ともあんなに沢山のご馳走振舞って」

宴会も終わり、俺達家族は3人だけでご馳走の残りをつまみ、
ワインをちびちび飲んでいた。

「いいんだイエス、あんな物なんでもない」
「ええ。あんな宴会くらい、100回繰り返しても平気なんだから」
「え?だってうちってそんな金持ちじゃ…」
「来なさい、イエス」

父さんはそう言って、俺を家の物置に使ってる部屋に案内した。
その後に母さんがついてくる。
物置の奥の、鍵のかかった箱。
それをガチャリと鍵を外しフタをあけると。
これは…。

あの3人が、俺が生まれた時に俺達の前に置いていった高価そうな品々。
ほとんど、手つかずで残っている。

「お前がもし、何かしようと志を持ったなら」

父さんは、俺の肩に手を置いて言った。

「これを、お前に渡そうと思ってな」
「ええ。これはあなたの物よイエス」

俺はあっけに取られた。
そんな、俺なんかの為に。
父さんと母さんは今まで贅沢もせず、ずっと質素な生活を…。、

俺は、溢れる涙を誤魔化そうと二人に背を向けた。
それを、二人がそっと俺の肩を抱く。
俺は、薄暗い家の物置で、父さんと母さんに肩を抱かれながら、
袖で顔を隠すようにして泣いた…。




そして、旅立つ日がやってきた。
懐には例の聖書の小冊子。
肩に担いだ袋には色々雑多なものと、あの3人の贈り物。
流石に全部持っていけないので、
一部だけを持っていく事にした。
足りなくなったらいつでも取りに来ればいい。

父さんと母さんが、玄関口で俺を見送る。
二人とも、笑顔だ。
胸の中に、色々な想いはあるだろうけれど
旅立つ息子に涙は見せない積もりなんだろう。

「じゃあ、行って来るよ」
「ああ。気をつけるんだぞ?」
「たまに顔を見せるのよ?」
「わかってるって。それじゃ…」
「…あの、イエス」

出発しようとした俺を、母さんが引き止める。

「ん?何だい母さん」
「あの…」

母さんが、何かを俺に伝えようとして戸惑っているようだ。

「…イエス、実はね、あなたは…」

母さんが何か言いかけ、それから両手で顔を覆う。
俺が旅立つ前に、ずっと胸にわだかまっていた事を吐き出したかったんだろう。
大丈夫…。大丈夫だから、母さん。
言わなくていい。
全部、わかってるから…。

俺は、そっと母さんの肩を抱いた。
泣いたとこなんて見たことない父さんが、
目に涙を溜めながら俺と母さんをそっと抱く。
俺達は、まるで別れを惜しむかのように、いつまでもそうしていた…。
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