42・ナザレへ

文字数 6,743文字

「ふん、ふーん…」

鼻歌を歌い、景色を眺めながら。
俺は、ガリラヤ地方からナザレへと向かう道をのんびりと歩いていた。

こうしていると、これから先の事とか、
あれこれ思い悩んでいた事を忘れられて気分が軽くなる。
…本当は、もっと真剣にならなくちゃいけないんだろうけど。

そして歩き続けて、そろそろ午後になる頃にむこうに町が見えてきて。
あれは、マグダラの町…。マリアさんの居る。
そうだ、せっかく近くまで来たんだからちょっと寄り道していこう。
マリアさんに会って、挨拶して。
俺はマグダラの町に足を踏み入れた。


「えーと…」

表通りから、酒屋と食料品店の間に入り。
木箱や空き樽なんかが積み重なり、ゴミゴミして入り組んだ路地裏のような場所。
確か、いつもこの辺りに居るって…

「あの、すいません」
「ん?」

俺はおっかなびっくり、
箱の前で何かゴソゴソ作業をしている人に声をかけた。

「マリアさんって人、探してるんですけど…」
「…」

その男は、
無愛想に一軒の建物を指差した。


「今日はー…」
「はーい」

その建物の入り口から中に声をかけると、
奥からマリアさんの声が。

「あら、ダーリン」
「今日は、マリアさ…」
「来てくれたのー?」
「わっ?」

会うなり、俺の腕に抱きついてくるマリアさん。
む、胸の感触が…

「会いに来てくれたのね?嬉しいわー」
「え、ええ、近くに来たんで挨拶しようと思って」
「さ、入って入って」
「え、その、迷惑じゃ…」
「ううん、遠慮しないで?」

挨拶だけしようと思ったのに。
俺は、半ば強引に引っ張り込まれてしまった。

「はい、どうぞ」
「あ、すいません…」

マリアさんが、水で薄めたワインを出してくれる。
俺はそれを飲んで、一息ついた。

「ふふ…」

それを見て、マリアさんはニコニコしている。

「どう?布教の調子は」
「え?ええ、まぁ、ぼつぼつ…」
「最近、ずい分頑張ってるらしいじゃない」
「まぁ、その、頑張らなきゃなんなくって…」

その時、マリアさんが言った。

「…聞いてるわよダーリン。大変なんだってね」

何だ、もうマリアさんも知ってて…。
俺が、反乱の疑いで裁判に呼び出されたのを。

「ええ…。ちょっと、説法に力を入れすぎちゃって、はは…」
「気にしないで。ダーリンらしいわ」

マリアさんは当事者じゃないから、
こんな風に軽く言えるんだよな、ふぅ…

「それで、どうするか考えてるの?」
「…」

本当に、これからどうしよう…。
逃げたら未来は大変な事になってしまう。
けど、俺が本当のイエスキリストみたいに
十字架にかからないでそれを回避する方法なんて、何も浮かんでこないし…

「ねぇ、ダーリン」
「はい?」
「前、言ってたこと…本気で考えてみない?」

前…。
マリアさん言ってたな。一緒に、どっか遠くに逃げないかって。

「マリアは、ダーリンがそばに居てくれたらそれでいいの」

マリアさんはそう言うと、テーブル越しに俺の手を取った。

「どう?」

マリアさんと一緒に、どこか遠くにか…。
もちろん、弟子達も一緒という事にしてもらわないと困るけど。
そうなったら、しょっちゅうケンカが絶えなかったりして。はは…

「悪いのはパリサイ派なんだから。言われるままに従う事なんてないのよ。でしょ?」

マリアさんの言う通り。
普通に考えたら、何も悪いことしたわけじゃないのに
パリサイ派の言う通りに裁判を受けに行くなんてバカげてる。
でも、俺がそうしてしまったら…。

「マリア、こう見えても結構顔が広いから。どこ行ってもダーリンが困る事はないわよ?」
「へー…さすがマリアさん」
「頭の固いパリサイ派の言う事なんて放っておいて。それが当然でしょ?」
「ええ…けど」

「ダメなの?どうして?」
「ええ…。えっと…」
「もう…。ま、いいわ。ゆっくりと考えて頂戴ね…」

そう言って、マリアさんは俺の手をゆったりと撫でる。
そうされると、重苦しかった胸の内が軽くなっていくようで…。

「ええ…ありがとうございます、マリアさん」

マリアさんはきっと、俺の心を察してこう言ってくれてるんだ。
事情はわからなくても、カンの鋭い人だから一人寂しく悩む俺の心を察して…

「さて、ナザレに行く途中なんで、これで…」
「あら、もう行っちゃうの?」
「ええ。このまま甘えてると遅くなっちゃいそうなんで」
「ふふ…。何ならもっと甘えていいのよ?ベッドの中で…」
「い、いえその、あはは…それじゃマリアさん、ありがとうございました」

挨拶すると俺は立ち上がって、玄関へ向かった。
その時、玄関までついてきたマリアさんが言った。

「…ねぇ、ダーリン。ダーリンって、未来が見えるのよね」
「え?ええ」

そう言えば、前マリアさんにそんな話したっけ…

「どう?今、ダーリンが見てる未来は明るい?」
「…」

未来は、明るいか…。
ここから先、戦争とか色んな事はあるけれど。
今のところ取り合えず未来は平和で、穏やかで…。

「ええ…。明るいです」
「そう」

俺がそう言うと、マリアさんは不意に俺を胸に抱き寄せた。

「ダーリン。辛かったら、逃げていいの」
「…」
「無理なんて、しなくていいのよ…?」

マリアさんにそう囁かれると、
何だか全て投げ出したくなって…

けど。まだもう少し。
もう少しだけ進んで見よう。
それでもうどうしようもなくなったら、マリアさんの言う通りにすればいい。

「…ありがとう、マリアさん」

俺は身を離してマリアさんに言った。

「マリアさんのお陰で、少し元気になりました」

俺がそう言うと、マリアさんは笑顔で言った。

「良かった、ダーリン。辛かったら、またマリアの所にいらしてね…?」
「はい…それじゃ」

俺はマリアさんに挨拶すると、
マグダラの町を後にしてナザレへと向かった。

ナザレへ向かいながら、マリアさんの言った事が頭に浮かぶ。
辛かったら、逃げていいか…。
そうだな。そう考えるとだいぶ気が楽だ。

マリアさんがああ言ってくれたお陰で。
きっとあれはマリアさんの、精一杯の優しさの表現なんだろう…


そして、翌日。
朝早くに俺はナザレの町に到着した。

町を通り抜ける時に、そこらの人々がこちらを見てひそひそ話をしている。
そうだよな。
俺は今、ローマへの反乱の疑いをかけられた犯罪者だし。
父さんと母さんも、きっと居心地悪い思いをしてるに違いない。

あんまりいい雰囲気じゃない町中を通り抜け、
俺は父さんと母さんの家へと向かった。

「父さん?」

俺は家のドアをノックした。
すると、中からバタバタと慌てたような足音が聞こえ…

「イエス、イエスか?」

ドアが開いて、中から父さんが顔を出した。

「いやー、聞いたよイエス。無事か?一体、どうして…」
「父さん、話はあとで。今からガリラヤに…カペナウムに一緒に行って落ち着くまでそこで過ごそう」
「カペナウムへか?」
「うん、多分そっちの方が安全だから…ごめん父さん、俺のせいでこんな」

その時、すっかりお腹の大きくなった母さんが
心配そうに俺に声をかけてきた。

「イエス…」
「母さん…。ごめん、巻き込んじゃって。俺のせいで」
「いえ、いいのよ。イエスが人に正しい道を説こうとした結果だもの。気にしないの」

ふぅ。
母さんがそう言ってくれると、何だかホッとするな…

「さ、それじゃ荷物をまとめて。あと父さん、母さんのために荷台を…」
「わかった。じゃ、ちょっと近所の人に当分留守にするって挨拶してこよう」
「そんなのいいから」
「カペナウムね…ガリラヤ湖のそばにある、綺麗な所ね」

父さんと母さんも、何だかとってものん気で。
一人でワタワタしている俺が、何だかバカみたいだ…


「さて…それじゃ、出発するか」
「ええ。しばらく、ナザレともお別れね…」
「母さん、なるべく体冷やさないように…」

借りてきたロバが引く荷台に、荷物と母さんを乗せて。
ナザレへと向けて出発する準備が整った。

「…あ、そうだ。父さんと母さん、先に行ってて」
「ん?どこに行くんだい、イエス?」
「ちょっとね…少ししたら、すぐ追いつくから」

俺は、ナザレに着いたらある人と話をしようと思っていた。
俺は、町外れのとある場所へと向かった。


「あの…今日は」
「ん?おお、君は」

小さい頃、俺と議論したあの司祭。
この人は確か、元々エッセネ派だったかに居たと聞いた事があるから
きっとパリサイ派とは関係なしに、話を聞いてくれるはず…

「いやー、久しぶりですねイエス君!立派になって」

司祭は、俺の事を覚えていてくれた。

「色々と噂は聞いていますよ。奇跡的な事を起こしたり、多くの人を教え導いたりと」
「いえ、そんな立派なもんじゃ…」
「いえいえ。それで、パリサイ派と対立する事に…。けど、それは君が立派にやってる証拠です」

やっぱり、読みは正しかった。
この人になら、俺の胸の内を聞いてもらえる。

「ところで、そんなに立派になった君がどうしてこんな田舎司祭の私の所に…どうかしたのですか?」
「ええ。少し、話がしたくて…」
「話、ですか?」
「ええ。えっと…その、何て言ったらいいのか」

俺は言葉に詰まった。
どうやって、今の俺の立場の事を話そう。
それに、たとえ話しても理解して貰えるだろうか?
そんな様子の俺を見て、司祭はこう言った。

「…では。あの時の質問をもう一度しましょうか」
「え?」
「神は、居ると思いますか?」
「…」

「わかりません…」
「はっはっは…昔とちっとも変わっていませんね、君は」

「しかし、神の教えを説き多くの人を導く君がどうして」
「ええ…。前は見えた気がしたんです。俺の話を熱心に聞く人々の中に」
「ふむ…」

「けど、俺の話で人々の心そのものを変える事はできなかったというか…」
「そうですか…」
「そして、そうする事でパリサイ派と対立する事になってしまって」
「ふーむ」
「まるで、そういう運命に操られてるみたいっていうか…一体、どうしたらいいのかわからなくて…」

きっと…。俺が心から神の存在を信じる人間だったら、何も悩まなかっただろう。
今の状況を神のおぼしめしと信じ、迷う事なくイエスキリストの辿った生涯を…

けれど。俺はそうじゃない。
第一…。本物じゃない俺が十字架にかかっても、
結局人の心は変わらず全てはまったくの無駄になるという可能性も頭に浮かんでしまって…

「…俺は、ただこの世を平和にしたかっただけなのに」
「ええ」
「けど、そうする事で事態はどんどん悪い方に…」
「そうですか…」

俺は、一体どうしたら良かったんだろう。
そもそも、最初から未来の事なんて気にしないで放っておけば
こんな苦しい立場に立たされる事なんてなくて…
その時、司祭は言った。

「…しかし、それではそもそも君は」
「はい」
「なぜ、そうやって苦労して人々を教え導こうとしてるのでしょう」
「え…?」

あのモレクの司祭と、同じような質問…?

「パリサイ派から逃れ、どこかに隠れようとは…?」
「…いえ、そうしてしまうと皆が」
「どうしても、人々を放っておけないと。そうですね?」
「…」

俺は、格別情の深い人間というわけじゃないけれど。
それでも、普通の人が俺と同じ立場に立てば絶対同じように悩むだろう。
自分の命と、これからの未来の平和。どちらを選ぶか。
しかも、命をかけたって結局無駄になる可能性だって。

「それに、そもそも君は」
「はい」
「なぜ人を教え導こうと思ったのでしょう。誰かにそう強制されましたか?」
「…いえ、それは…違います」

…確かに、俺は誰かに強制されたわけじゃないけれど。
未来がどうなるかなんて、放っておこうと思えばそうも出来た。
けど、とりあえず未来が変わらないようにしなきゃ、
何とかなるだろと軽い気持ちで出発したっけ…

「なら、君は運命に操られてるわけではありません」
「…」
「君は、人々を救おうと自分の意思で歩いてきたんです」
「…」
「神の示された道を、今まで…」

そう…かもな…
思えばここまで色んな苦労もあった。
途中で投げ出そうかと思った事も。

けれど、皆が、未来が平和であるように、
今まで何とか頑張って来たんだっけ…。

「神は、決して強制などされません」
「…」
「道は示されます。けれど、その道を歩むか歩まないかは」
「…」
「全て、本人の意思次第なのですよ…」

…そう言えば、弟子達だってそう。
みんなの中で、俺が弟子になるように強制した子は一人だって居ない。
みんな、世を救うためと信じ、自分の意思で今まで俺に付いて来たんだ…

「…あの、司祭」
「はい」
「もし、神の示された道があって、それを歩み切れば俺が願った通り皆は平和に…?」
「ええ、神が示された道ならばきっとそうなりますよ」

「…信じられません。皆はきっとすぐ流されてしまって、何もかも無駄に」
「ふふっ…君が小さい頃も言ったじゃありませんか。例え、神が我々の前に姿を現さなくても」
「…ええ」
「けれど…。だからこそ。その神を信じるしかないのですよ、我々はね…」

…信じるしかない、か。
結局、そういう事なのかも知れない。
俺が命を賭ければ未来は無事、なんて何の保障もないけど。
けれど、そう信じるしか…







「さーて、そろそろ見えて来たかな」
「あれが、カペナウムの町ね?」

それから翌日、俺と父さんと母さんの3人は
カペナウムの町へと到着した。

「そう、二人とも、窮屈だろうけどしばらく俺の家で。すぐ家を見つけて…」
「なに、気にするなイエス」
「そうよ。母さんは多少窮屈でも全然気にしないわよ?」

本当に、二人とものん気で羨ましい…
きっと、そのうち何事もなく無事に収まるって信じてるんだろうけど…。

「いや、それじゃ悪いから…」

「イエス様…!」

町の入り口に差し掛かった時、ペテロの声が聞こえた。

「みんな、イエス様がお帰りに…!」
「イエス…!」
「イエスさん…!」

どうやら、町の入り口でずっと待っていたらしい。

「イエス様ー!」
「イエス!もう!心配…したんだよ…」
「イエスさん、お帰りー!はぁー、ホッとした…」
「イエスさまー!」

みんなが、わっと飛びついてくる。

「…良かった、無事で、ふぅ…」
「イエス先生、無事を信じてお待ちしておりました…」
「せやなぁ、パリサイ派とかローマ人に何かされんかって心配してたんやで?」
「イエス殿、本当にみんな随分心配したんでありますよ!」

「ふぅー、これでホッとしたデース」
「イエスしゃん、もう一人でどっか行ったら嫌なのだ!」
「イエッさん、約束して。もう一人で行動しないって。危ないし」
「自分勝手だよせんせー」

どうやら、たった3日の間に
弟子達にずい分心配をかけてしまったようだ。

「悪かった、みんなここに居た方が安全だろうと…」
「もう!私達、そんな事気にしません!」
「みんな、いつでもイエスに付いていくって決めてるんだから」
「そうだよ、イエスさん!オレらの気持ちも考えてよ…」

本当に、ちょっと済まない事をした気が湧いてくる…
俺は弟子達の安全を思ってした事だったんだけど。
そして、弟子達をなだめていると。

「おお、救いの御子様…!」
「おーい、みんな!イエス様がお戻りになられたぞ!」

カペナウムの町の人々が大きな声で周りの人々を呼ばわり、
一斉に俺達の周りを取り囲んだ。

「ご無事で…!」
「いやー、良かった。ローマ兵に暴力振るわれたりしてるんじゃないかと」
「ローマが何だ、パリサイ派が何だ!見てろ、やって来たら皆でぶっ飛ばしてやる!」
「そうだそうだ!」
「うおーっ、やってやる!」

俺の周りの数十人の人々が意気を上げ、それを聞いてさらに人々が集まって…
ナザレと全然雰囲気が違う。
父さんと母さんを連れてきて正解だったな…。

「ははは…。イエスと来たら、あんなに人に慕われて」
「ええ。ほら、あれがお弟子さん達よ。可愛らしいでしょう?」
「救いの御子、か…やっぱり、昔あの不思議な3人に言われた通りだったんだよ」
「ええ。きっと、その通りだったのね…」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み