53・不利な裁判

文字数 4,511文字

「皆さん、お静かに、お静かに…」

屋敷の広間に集まった群衆を前に、法律学者、パリサイ派、サドカイ派からなる
裁判官達が静まるように声をかける。

ゲッセマネの園での出来事から翌日。
俺は、サドカイ派の大司教カヤパという男の邸宅に引っ立てられていた。

「これだけ騒がしいと始められません、お静かに…」

屋敷の広間の壁側には、ユダヤ議会の十数名の裁判官。
その中央にいる、でっぷりと太ったひときわ貫禄に満ちた男が
中庭に通じる窓からさえも顔を出している群集達を見回しながら静まるように言う。

あの男が、大司教カヤパ…
この時代の、ユダヤ議会の最高権力者。
王にも等しい権力をもつ、宗教上の指導者。

彼が辺りを見回す内に、
広間に詰め掛けた人々は静かになっていった。

「…では」

その頃合いを見計らって、
大司教カヤパは口を開いた。

「これから、ナザレのイエス…。彼についての裁判を始めます」


「それでは、まず彼についてですが」
「はい、大司教どの」

その時、
脇に控えていた男が手を上げた。

「この男…。ナザレのイエスは」

あいつは…
あの男だ、何かといえば俺に突っかかってきた、
パリサイ派で一番偉そうにしていた…

「我らに対する数々の侮辱を働いてきました。ご存知のとおりに」

「律法では、神に感謝し断食せよと定められております。しかし」

男は、
言葉に時々俺に対する憎しみを込めて聴衆にも訴えるように言う。

「この男はそれを守らぬどころか、まるで我々の方が間違えてるとでも言わんばかりに」

「この男はこう言い放ちました。古い皮袋には新しいワインを入れるなと」

大司教カヤパは、
いかめしい顔つきで話に聞き入っている。

「律法の守り手である我々を古い皮袋と揶揄し、新しいワインを入れたら張り裂けてしまうと」

「この男は傲慢にも、我らだけでなく律法そのものを侮辱したのです」

聴衆から、ザワザワとざわめきが起こる。
パリサイ派の男は続ける。

「さらに、それだけではなく」

「この男は、神殿の近くで商売をする何の落度もない商店を目茶目茶に破壊し」

俺は、ただじっとしていた。
言われている事に、特に口をはさむこともせずに…

「さらに不遜な事に、子供達に自分の事をダビデの子とも呼ばせ得意になっておりました」

「我々への侮辱、神の戒めである律法への不敬、暴力と思い上がった振る舞い…」

パリサイ派の男は、俺をにらみ据えた。

「神を敬わず、人々を惑わすこの男には死刑こそ相応しい。どうぞカヤパ殿、適切なご裁定を下されますよう…」

聴衆が、再びザワザワとざわめく。
そうだよな。全く、俺は大した極悪人だ…

「わかりました。それでは、他に証言のある方は」

大司教カヤパがそう言うと、
パリサイ派の男は薄く笑って手を上げた。
すると…

「あ、あの」

聴衆の中から、
一人の男がおずおずと進み出た。

「お、俺、見ました。その、ナザレのイエスが、悪魔を称えているのを…」

おどおどと落ち着きがなく、目線はあちこちさ迷って。
やれやれ…何か掴まされたかして、そう言わされてるのが丸わかりだ。
しかし、その男を皮切りに…

「お、俺も見た!ナザレのイエスが見えない何かと話しているのを!あれは悪魔と話してたんだ!」
「そうだ!この男は悪魔と契約を結んでるんだ!」
「病気を治せたのも、悪魔の親玉ベルゼブブに頼んで悪霊を追い払っていたんだ!」

聴衆の中から、次々と人が進み出て俺には身に覚えのない色んな証言する。
そのたびに、集まった人々がどよめく。

「いかがですかな、カヤパ殿」

勝ち誇った顔で、
パリサイ派の男は大司教カヤパに語りかける。

「これだけたくさんの証言があります。さらに弟子も、愛想を尽かして我らに寝返りました。やはり、この男は悪魔と結び神に反逆する…」
「お待ちください」

その時、聴衆の中から一人の女性が進み出た。
あの人は…

「その人に、罪はありません」

「私が道を踏み外す所だったのを、救って頂きましたから…」

一瞬、誰だかわからなかった。
あの人だ、モレクの儀式で自分の子供を捧げようとしていたあの女の人…
わざわざ、来てくれたのか?俺を、助けようと…?

「私は、わが子をモレクに捧げようとしていました」

その人がそう言った途端、
大きなざわめきが起こった。

「しかし…。それを止めて頂き、事情を知ると施しまでして頂いて…」

女の人が、声を詰まらせる。
周りの人々は静まり返ってその人の話を聞いている。

「そのようなお方が悪魔と関係しているだなんて、とんでもありません」

「そのお方は無実です。神に誓って、証言いたします」

女の人が言い終えると、人々からざわめきが起こった。
パリサイ派か、それともこの人の言った事のどっちが正しいのか話し合っているようだ。

「嘘をつくな!俺は確かにナザレのイエスが悪魔と話している所を見た!」
「そうだそうだ!その女はイエスに惑わされ操られているんだ!」
「みんな、騙されるんじゃないぞ!」

俺に不利な証言をした連中が、
さかんに野次を浴びせ場の雰囲気を支配しようとする。

「黙れ、お前ら!」
「おうよ!」

その時、人々の間からひと際大きな声を張り上げ
二人組の大きな男が進み出てきた。
あれは…

「このお方はな、俺達や皆に教えたんだ。生贄を求めるようなものは神じゃないとな」
「そうともよ!俺達や、多くの者が地獄に落ちる所を救われたんだ!」

この二人も、一瞬誰だかわからなかった。
ガダラの町で墓場に住み、猛烈にモレクを信仰していた二人組…。
伸び放題だった髪やヒゲも切って、すっかりこざっぱりして。

「てめえら、ありもしないデタラメを言うんじゃねえ!」
「おう、さもないとお前らには罰が下るぞ!」
「あの…」

その時また、一人の女性が進み出た。
あれは、ツロの町で娘を救って下さいと俺にすがりついてきた…?

「私は、異邦人です。けれど、それにも関わらずこのお方は私の娘をお救い下さったんです」
「…そうだ、私の息子だって助けてもらった!」
「この人はな、多くの病人をお金も取らずに診て治してくれたんだぞ!」
「そうだ!それに貧しく困ってる人には施しをして多くの人が助かったんだ」

その他にも、息子の病気を治して下さいと頼ってきた人、
38年間床に伏せていた男、俺に病気を治してもらったという多くの人が声を上げて…

「あ、あの、ダーリンは悪い人じゃありません」

マリアさん…?
まさか、マリアさんまで?

「私は、ダーリンと出会う前は…。荒んだ生き方をしていました」

「ちょっとした事ですぐに怒って。嫉妬深くて、傲慢で…」

マリアさんは、
昔を思い出しているかのように語る。

「まるで、7つの悪霊に取り付かれていたみたいだったんです」

「けれど、ダーリンと出会ってからは、不思議とそういう気持ちがなくなって…」

「お願いします、ダーリンはいい人です。ダーリンを放してあげて下さい」

それを聞き、俺は思わず涙ぐみそうになった。
…マリアさん。それにみんな。本当に…本当にありがとう。

大司教カヤパの屋敷内は騒然としていた。
俺が無罪かそうじゃないかで、まるで真っ二つに分かれているかのようだった。
奥に陣取ったユダヤ議会の司祭達も、顔を見合わせさかんに話し合っている。

「何を迷う事がありますか大司教どの。この男は我々の敵ですぞ!」

パリサイ派の男が大きく声を張り上げる。
すると、手下と思われる男達がそれに同調し。

「ナザレのイエスは神殿を打ち壊すと言ったぞ!」
「そうだ、そして3日のうちに建て直す事ができると言った!」
「そんなこと、言うわけない!」
「ナザレのイエスは無罪だ!」

俺を擁護する声と、激しく糾弾する声が入り混じって。
喧騒は大きくなっていく。

その時、今まで動かずに事の成り行きを見守っていた
大司教カヤパが立ち上がり、右手を上げた。
それと同時に、騒がしかった屋敷内が静かになっていく。

皆が静まり返った所で、
大司教カヤパは口を開いた。

「それで、ナザレのイエスよ」

「なぜ何も答えないのか。これらの人々が不利な証言を申し立てているが、どうなのか?」

大司教カヤパの問いかけに対し、
俺は何も答えない。

重苦しい沈黙があたりを包む。
すると、大司教は席を離れゆっくりと俺の方に近づいてきた。
彼は、じっくり俺の顔を眺め。

それから、大司教は少し機嫌の悪くなった様子で
再び俺に尋ねた。

「あなたは、神の子キリストなのかどうか。生ける神々に誓って」

「我々に答えよ」

ついに、この質問が来たか…。
これに小冊子にある通りの答えを返せば。
死刑は確定し、俺はイエスキリストと全く同じく十字架にかけられて。

俺は、深くため息をついた。
ここまで来たんだ。今さらじたばたしたって始まらない。

父さんや母さん、弟子達、それに俺を助けようと
集まってくれた人達のためにも。最後まで、イエスキリストの生涯を辿らなきゃ。
けれど…。手の震えが止まらない…

「…あなたの言う通りである」

一言めを言ってしまうと、
手の震えは収まった。

「しかし、私は言っておく」

俺は、大きく息を吸い込むと
言葉を続けた。

「あなた方は間もなく、人の子が力ある者の右に座し」

堂々と。胸を張って。
イエスキリストの言葉にふさわしい態度で。

「天の雲に乗って来るのを見るであろう」

言い切ったあと、辺りは静寂に包まれた。
苦しいぐらいに胸が脈打っている。

けれど。不思議と心は晴れやかだった。
…モレクの司祭。お前の負けだ。
この通り、俺は、命をかけてイエスキリストの生涯を…

「…ふん!」

その時、大司教カヤパが俺の服に手をかけ、
怒りに満ちた表情で勢いよく引き裂いた。

「彼は神を汚した。どうしてこれ以上、証人の必要があろう」

それから、彼はずらりと並んで座っている
ユダヤ議会の司祭達に向き直り言った。

「あなた方は今この汚し言を聞いた。あなた方の意見はどうか」

大司教カヤパがそう問いかけると、
数名の司祭達が立ち上がって。

「彼は死に当たる!」

すると、それに釣られるように他の司祭も次々に立ち上がり、
全員が俺を糾弾し始めた。

「彼に死を!」
「彼は、神を汚した!」
「その罪を、死をもって償わせよ!」

それと同時に、
周りの群集が一斉に俺を取り囲んだ。
彼らは俺に向かってつばを吐きかけ、こぶしで打ち、平手打ちを加える。

「へっ、キリストよ当ててみろ」

誰かが俺に向かって言った。

「誰が、お前を殴ったかをな!」

俺を取り囲む多くの人に殴られ、意識がぼんやりとする。
かすむ視界で辺りを見回すと、
ユダが、広間の向こうから無表情で俺を見つめているのが見えた…



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