19・モレクの教え

文字数 2,714文字

「はぁっ、はぁ…」

シーン…と静まり返った神殿内。
俺の荒い息遣いと赤ちゃんの鳴き声だけが響く。
さっきまでの熱狂と興奮が嘘みたいだった。

「…」
「…」
「ふぅ、間に合った…」

モレクの司祭、女信者、神殿中の信者の視線が俺に集まる。
儀式の邪魔をされた、怒りのような空気が辺りに満ちる。

「…」
「…」
「よしよし、大丈夫だったか?」

俺は激しく泣き続ける胸に抱いた赤ちゃんをあやした。
間に合って、良かった…。


「…困りますな、神聖な儀式の邪魔をされては」

モレクの司祭がそう言って俺に話しかけてきた。

「神聖な儀式だって?こんなのただの人殺しじゃないか!」

俺は思わず叫んだ。
いくら何かを捧げたって、
決して助けたり姿を現したりするはずのない神のために
赤ちゃんを捧げるなんて狂ってる。

「モレクの神はお怒りです。きっと、様々な災いがあるでしょう」
「そうだぞ!」
「作物が不作になったら、どうしてくれるんだ!」
「お前のせいで、ヤギの乳が出なくなるだろう!」

モレクの司祭の言葉に、信者達が同調する。
そんな事、あるわけがない。
存在なんてするはずのない神に、そんな事出来るわけがないんだ。

「モレクの神なんて、居やしないんだ!」

「目を覚ませ、お前たちのやってる事はただの人殺しだ!」

言った瞬間、俺は言葉が空しく響くのを感じた。
誰も理解した様子がない。
俺は焦って、みんなが信じ込んでいるモレクの祟りを
合理的に説明しようとした。

「作物が不作?そんなの、ただの天候のせいだろう!」

「ヤギの乳が出なくなる?単に食べるものが足りてないだけだ!」

けど、言えば言うほど言葉が空しく空回りするのを感じる。

「だから、モレクに生贄を捧げるなんてやめろ!」

俺の言った言葉が誰の心にも響いた様子がまるでない。
それどころか…。

「モレクに生贄を捧げるのをやめたら、大変な事になるんだぞ!」
「そうだぞ、生贄が少なかった年不作で畑が全滅したんだからな!」
「モレクが怒り、災いがあったらどうする?お前は我々を敵に回したぞ!」

…そうか。
存在してるんだ。
今この時代に、しっかりとモレクの神は。

きっと、いくらモレクは居ないと合理的に説明したって何の意味もない。
それにモレクに祈りを捧げれば、現実的な利益。
不信人者には、信者からの物理的な危険。
いや、これはもう、現実的に存在してると言っていいんじゃ…?

とにかく、神は居ないという説明じゃ信者を説得できそうにない。
そう教える方が、この時代では誰も信じない異教なのだから…。

「神を否定なさるとは。あなたも神に仕える身ではないのですか?」
「くっ…!」

モレクの司祭が、ニヤニヤとした笑みを浮かべて皮肉たっぷりに言う。
自分の優位を確信している。
お前なんかに誰も説得できないだろうと。

「その赤ん坊を渡していただけませんかな。大事な捧げ物なのですよ」
「ダメだ!」

俺はかばうように赤ちゃんを抱いた。
そして…。

「…なぁ、この子はあんたが生んだ赤ちゃんなんだろ?」
「…」

俺は、この赤ちゃんの母親らしい女の信者に話しかけた。

「可哀想だとは思わないのか?こんな、あんたの事頼って…」
「…」

俺に抱かれた赤ちゃんは、怖かったんだろう、
泣きながらすがるように母親に手を伸ばしている。
こんな目に逢っても、この子にとってこの人は母親なんだ…。

「モレクの神に、あなたの子を捧げるなんてやめて下さい」
「…」
「大丈夫です、災いなんて絶対ありませんから。保障します」
「…」

俺は、そう言って母親に赤ちゃんを渡した。
俺は賭けた。
この人が、本当はまともな心の持ち主であるという事に。

「…うっ」

「うっ、うっ…ごめんね、ごめんね…」

俺に赤ちゃんを渡された女の人は、
肩を震わせると赤ちゃんを守り抱えるようにして
神殿から走り去っていった…。


「…やれやれ、すっかり場が白けてしまいましたな」

モレクの司祭が、面白くなさそうな声を出す。
この男…。
もしかして、楽しんでるのか?こんな狂った儀式を。

「皆さんも、この後の楽しみを邪魔されて不満のようですよ、フフフ…」

そう言ってモレクの司祭は下品に笑った。
この後の、楽しみ…?

「あなたも、いい目に逢えたかも知れないのに、クックク…」

…そうか。
男も女もあんな興奮状態なら、その後みんな裸になって滅茶苦茶に…。

「生きる喜びですよ。欲望を全てむき出しにしろ。モレクの教えです」

まさに邪教だ。
神に捧げる名目で、赤ちゃんを殺させる。大変な熱狂と興奮の中で…。
こんなのにどっぷりはまったら、信者はその内人間らしさを無くす。

俺のいた時代でも、似たような話を聞いたような。
猫を殺す事から始まって、それがエスカレートしていってやがては猟奇的殺人者に…。
こんなのが、この辺りを支配してしまったら…!

「どうやら、我々の神の素晴らしさをご理解頂けなかったようですな」
「あたり前だ!こんなおぞましい邪教、広められてたまるか!」
「必要なんですよ、モレクの神は。多くの人々にはね」
「そんなわけないだろう、必要なんてない!」
「どうですかな、皆さん?」

そう言って、モレクの司祭は信者達を見回した。
信者達は、うつむいて全員何も言わない。

「モレクなんて、信じるのはやめろ!お前達、人じゃなくなるぞ!」

信者達は、全員黙ったままだ。
抜け出せないんだ、不安、利益、快楽その他で…。

「なぁ、みんな!」
「フフ、フハハハ…」

モレクの司祭は焦った様子の俺を見て、おかしそうに笑った。

「あなたは、あなたの神を信じればいい」

「私は、私の神を信じる、ただそれだけの事ですよ、フハハハ…」

くっ…。
この男は確信してるのか。
俺の広めてる教えなんて、モレクの前では無力だなんて事を。

「まあ、お気をつけ下さい」
「何をだ?」
「モレクの神を怒らせたら、色々と災いが降りかかりますからな、クックック…」

これは神秘的な災いの話をしてるんじゃない、明確に脅してるんだ。
人を殺すのを何とも思わない連中だ、きっと、その気になれば…。

「…帰らせてもらう」
「おや、もうお帰りですか?次の儀式に参加の予定は…」
「ふざけるな!」

俺は、信者を威嚇し左右にかき分けつつ神殿を後にした。





「…フッ、やはりこれでは転ばんか。救いの御子イエスよ」

「だが、これでいい。お前は必ず失敗する。フッフフフ…」
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