5・訪れた危機

文字数 3,358文字

ヘロデ大王の宮殿――――




「そろそろ、日が沈む……。あの老いぼれども、結局姿を表さなかったか」
「はっ…」
「どうやら、救いの御子とやらを見つける事は出来なかったようだな。当然だ、バカバカしい……」

「ヘロデ大王さま!」
「ん?どうした」
「民衆が、新たなユダヤの王が生まれたと騒ぎを起こしております…」
「なに…?」
「ベツレヘムの民衆が騒ぎを起こしていたので、その内の一人を捕らえて尋問したところ」
「…」
「今日、郊外の馬小屋に救いの御子、新たなユダヤの王が誕生したと…」
「…」
「すぐに解散させましたが」

「だとすると、あの浮浪者老人どもはなぜ私の前に姿を現さない?もう日没ではないか」
「はっ、それが…」
「何だ」
「国境を越えて、東へと向かう例の三人の老人らしき姿を見た者がいると…」
「あの、老いぼれジジィども…。この私をコケにしおって!」

「どうなされます?ヘロデ大王さま。このまま放っておいては、騒ぎが広がる怖れが…」
「今よりベツレヘムへ向かい、そこの赤子を一人残らず殺してしまえ!」
「はっ?い、いやしかし…」
「これは命令だ。逆らう者は、容赦なく殺して構わん!」
「…はっ!」








ベツレヘムのとある宿――――



「おー、よちよちイエスちゃん…。ヤギのお乳でちゅよー」

決して立派とは言えない宿に、夫婦と俺の3人はいた。
今夜はここに宿泊する積りなんだろう。
さっき、あんな高価そうな何やかやを貰ったのに。
きっと、無欲な人たちなんだろう。

「いっぱい食べるんでちゅよー、よちよち…」

そして俺はこの人に抱かれながら、1さじ1さじ、
何かの乳を口に運ばれている最中だ。
味は悪くない。というか赤ちゃんになってるんだから
そういう味覚になってるんだろう。

「私のお乳が出れば良かったのにねー、ごめんねー…よちよち」

けど助かった。この人が授乳できる人だったら、
俺は、その、つまり、この人のお、おっ…
…つまり、そういう事だ。
恥ずかしいなんてもんじゃないし、さすがに申し訳なさ過ぎる。
…けど、めちゃめちゃ美人だし…いやいや。

「やれやれ、デレデレし過ぎじゃないかマリア」
「フフ…。あらヨセフ、やきもち?」
「違うよ」
「フフフ…」

「…それにしても、不思議な子ねヨセフ」
「ああ。この子がかい?」
「赤ちゃんって、もっとすぐ機嫌が悪くなって泣いたりして大変だと思ってたのに」
「うん。まあね」
「この子、全然そんな事ないものね。すごく落ち着いてて」
「ハハハ…。案外、救いの御子ってのは本当なのかもな」

「もう。本当にそうなんだって。ガブリエル様もそう仰ってたし」
「ふふっ、マリアの夢に現れた?」
「もうヨセフったら。バチが当たっても知らないわよ」
「怒ったマリアの方がよっぽど怖いよ」
「もう!」
「ハハハ…」

本当に仲良さそうな夫婦だ。
これで子供が居ないのが不思議だ。
まぁ、色々と事情があるんだろうけど…。

「さて、今日はもう寝ようか」
「ええ、そうね。明日もエルサレムに向けて旅しなきゃならないものね」











その夜、ベツレヘム郊外――――


「これより、ベツレヘムの赤子を一人残らず始末する!」
「はっ!」
「逆らうものも容赦なく殺して構わん、とのお達しだ」
「はっ!」
「では、行くぞ!」
「ははっ!」









「……ハッ?」
「…」
「…マリア、おいマリア!」

赤ちゃんらしくスヤスヤと眠っていた俺は、
この男の人の緊迫した声で目を覚ました。

「う…うーん、どうしたのヨセフ。まだ夜中じゃない」
「夢に、ガブリエル様が現れた…」
「え?あなたの夢にガブリエル様が?」
「ああ、それで…」
「…ちょっと待ってヨセフ、外が騒がしいわ」
「え…?待てマリア、ダメだ!」
「え?な、なに、あれ…。キャァァーーーーッ!」

窓から外の様子を見に行った女の人が、
耳をつんざくような悲鳴をあげた。
な、何だ何だ?
これは、ただ事じゃないぞ?

「マリア、今すぐ逃げるぞ、荷物をまとめて!」
「に、逃げるってどこへ…」
「いいから、早く!」

二人は慌ただしく荷物をまとめ、俺を抱くと
大慌てで部屋から飛び出した。
い、一体何が起こったんだ…?
あの女の人は、窓の外に何を見たんだ?

「マリア、その子をできるだけ隠して…」
「え、ええ…。うっ」

こっそりと抜け出すようにして俺たち3人は宿を出た。
女の人はその間に何度も口を押さえ、
吐き気とも、泣き出すのを我慢しているようにも思える声を
何度も漏らしている。

外は随分と騒がしい。
あちこちから悲鳴や赤ちゃんの泣き声が聞こえる。
俺は布で覆い隠され、守られるように女の人に抱かれていた。
周りの様子はよく見えないが、布の隙間からちらりと見えたその光景は…。

地獄そのものだった。
兵士が、泣き叫ぶ女の人から赤ん坊を無理やり奪い取り刺し殺し、
抵抗し、泣きすがる母親らしき人を容赦なく槍で刺す。
そうやって殺されたらしい人たちの死体が、あちこちに転がっている。

そして、町の広場にうず高く積み上げられた傷だらけの赤ん坊の死体。
そこに兵士が、まるで物かなにかのように血の気のない赤ん坊の
死体の足を持ってぶら下げ、死体の山の上に放り投げる場面が目に入った。

俺は、あまりのショックに一瞬麻痺してしまった。
何だ…これ…。
…こんな事、何でできるんだ!?
お前たち、本当に人間なのか!?

お前たちが殺している赤ん坊、昔はお前たちもそうだったんだぞ!
お前たちも母親に育てられたんだろう?
泣きすがる母親を見て、何とも思わないのか!?

俺の叫びは、赤ん坊の泣き声として口から飛び出した。

ぎゃあ、ぎゃああ・・・

「おー、よちよち、怖くない、怖くないからね…」
「こ、こんな時に…頼む、静かにしてくれ…」

二人が、必死の様子で俺をなだめる。
…そうだ。
俺たちも、危ないんだ。
二人が俺を連れてる事を知られたら、多分…。

俺は、叫びたくなるのを必死にこらえた。
だが、目から涙がこぼれそうだった。
こんな事、許されていいのか?
ここは、一体どんな世界なんだ?

「待て、そこの二人」

建物の影から影へ、隠れるように移動していた俺たちだったが
とうとう兵士らしき男に呼び止められてしまった。

「は、はい?」
「何でしょう?」

二人は、なるべく平静を装って答えている。
まるで俺など居ないかのように…。
俺も、身動きせずじっとしている。

「その女、胸に抱いてるそれは何だ?」
「え?こ、これは…。いえ、た、ただの荷物ですよ」
「え、ええ、別にお見せするほどの物では…」

「赤ん坊ではないだろうな?」
「い、いえそんな」
「ほ、本当にただの荷物ですよ」

「ベツレヘムの全ての赤ん坊を殺せと、ヘロデ大王から命令が下っているのだ」
「そ、そんな私たちヘロデ大王に逆らうような事は…」
「え、ええ、考えた事もありません」
「…第一」

「赤ん坊だったらこの騒ぎの中、こんなに静かにしていられるはずが…」
「え、ええ、見てください、全く静かなもんでしょう?」
「…」

「…ふぅん…?」
「ですので、どうかお許しを…」
「ま、まさか、何の罪もない私たちを殺そうとだなんてしませんよね?」

「…」
「私たち、ただのエルサレムへの旅人です。こんな騒ぎに巻き込まれて…」
「あ!そ、そうだ」

「これ、そこに落ちてましたよ…」
「ん?」

男の人が、荷物から何かを取り出し兵士に渡しているようだ。
多分、あの3人の老人から貰った贈り物の一部だろう…。

「…」
「あ、あなたが落としたんですよね?」
「…」

「…」
「どうぞお気をつけ下さい、高価なものですから…」
「…フッ」

「ああ。確かに私のものだ。済まないな、行っていいぞ」
「は、はい!行くぞマリア…」
「ええ、それじゃ失礼します…」

ニヤニヤと下品な笑いを浮かべる兵士の脇を、
俺たちはそそくさと通り過ぎた。
どうやら、俺たちは危機を乗り切る事ができたようだった…。


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