36・荒野の悪魔

文字数 9,356文字

「もう、うちのダンナがお人よしすぎて。この前なんか1日の稼ぎを」

「貧しい友達にパーッと振舞っちゃって。もう、こっちは困り果ててしまって…」
「そ、それは大変ですねー?」
「イエスさんが居たら、相談に乗ってあげれたんだけどなー」
「けどイエスさま、今荒野で断食してるからねー」

「本当に、うちのダンナのお人よしぶりも度が過ぎるというか…」
「けど、イエス様はこう仰られてましたよ?」
「え?どんな…」

「憐れみ深い人は、幸いです。その人達は、憐れみを受けるでしょうと…」
「そうそう、そう言ってたよねーイエス。きっと旦那さんが困った時は、みんな助けてくれるよ?」
「まぁ…」

「…ええ、そうね。私はそんなダンナに惚れたんだものね」
「そうだよ。好きで一緒になったんでしょ?」
「けど、少しとっちめてやったらいいんだよ」

「ふふっ、何だか悩みが晴れました。相談に乗ってくれてありがとうございます」
「え、いえー」
「イエスさん本人じゃなくって、ちょっと悪いけどさ」

「お弟子さん達だけで、大変でしょう?」
「いえ、そんな事はありませんよ」
「うん。それに明日さ、やっとイエスが帰ってくるんだー」

「こんなにきちんと留守を守って。きっと褒めてくれるでしょうね?それじゃ、これで失礼しますね…」
「あ、はい、お気をつけて」
「また何か困ったら、相談に来てねー」

「ねぇねぇ、私達ってさ、けっこうちゃんとやれてるんじゃない?」
「ああ、きっと帰ってきたらいっぱい褒めてくれるよな、イエスさん!」
「そんな、ヤコブにアンデレ。驕りはいけませんよ?」

「ううん、絶対イエスさま褒めてくれるよねー?」
「せやなぁ。みんなで力を合わせてよう頑張ったしなぁ」
「ええ。明日、イエス先生がお戻りになられたら、きっと…」
「…うん、よくやったって褒めてくれるよね…」

「そ、そんな、イエス様が…うふっ、うふふ…」
「ペテロペテロ。顔が凄い事になってるよ?」
「素直に喜んでもええんやで?」

「とにかくみんな、あと1日ですねー?」
「そうだねー?いよいよ明日、イエスが帰ってくるねー?」
「いよーっし、イエスさんが帰ってきたら、お帰りなさいのお祝い会だー!」
「わーい、楽しみー!」
「早く顔が見たいでありますねー?」
「帰ってきたら、みんなで思いっきりねぎらっちゃいまショー!」
「よーし、覚悟しときなよーイエッさん!」
「はぁ、騒がしいなぁ」







どうにかこうにか、40日を過ごす事ができた。
荒野で過ごすのも、今日が最終日だ。
辺りは、夕暮れになろうとしていた。

俺は今、せめて最後ぐらいは日沈まで二時間、瞑想をやってやろうと
荒野で一人座って精神を統一し、日が沈むのを今か今かと待ち構えている所だ。

はぁ、大変だった…
こうやって一人過ごすうちにだんだん慣れてきたとはいえ、
やっぱり寂しいもんは寂しいし。

それに、何かいる気配も感じたりするし、妙な怖い事もあったし。
たまにサソリとかも出たし。

あと、腹減った…
断食しているはずなのに、あんまり血色ツヤツヤだと怪しいかなと思った俺は
5日ほど食事の量をかなり減らしていた。
まぁいいさ、帰ったら好きなだけ食べられる。

荒野の向こうに、ゆっくりと夕日が沈んでいく。
そして、辺りから夕日の残りが消えて…


「いよーっし、終わったー!」

日が沈みきり、俺は伸びをして立ち上がった。
はぁ、これでやっとこのエピソードを終えた…
今までで、1番大変だったかも。

「タローにジロー、ありがとな。ハナコも。俺がいなくても大きく育つんだぞ」

世話になったタローとジロー、それにハナコに話しかけながら
俺はせいせいした足取りで小屋に戻った。

寝て起きれば、明日は久々に弟子達に会える。
みんな、俺の帰りを待ちわびているだろうな…
帰ったら、思いっきりみんなの頭を撫でてやろうっと。

そうそう、小冊子によれば今日は悪魔が現れる事になってるけど。
ほら、やっぱり何も現れなかった。悪魔なんて居るわけないし。
さーて今日は早く寝て、明日朝イチで…

その時、小屋の外から誰かが近づいてくる足音が聞こえたような気がした。

気のせいか…?
いや違う。はっきりとした足音がこっちに向かってきているのが聞こえる。

弟子の誰かが、待ちきれなくなって迎えに来た…?
いや、明日には会えるんだし違うだろう。
ここの場所も知らないだろうし。

この前の夜に見た、怪しい人影だったりして。
けど、あの時こんな足音は立ってなかったし。

それともまさか、本当に悪魔が?
いや、悪魔なんて居るわけない。
それじゃ、一体何だ…?
俺は足音の招待を確かめようと、小屋の外に出た。

「…お前は!」

この男は…


「久しぶりだな、救いの御子イエスよ」

あいつだ…モレクの司祭!

「な、何をしに来た!」

俺は手に持った杖を構えた。
まさかこの男、俺が一人でいる所を見計らって、俺を殺しに…?

「そう構えなくてもいいだろう。少し話をしにきただけだ」

俺は杖を構えたままだった。
一見武器は持ってないようだけれど、この男のことなどなに一つ信用できない…。

「ククク…救いの御子、か。お前が本物なら」

「そこの石をパンに変えてみたらどうだ」
「ひ、人はパンのみで生きるわけじゃない!」
「なら、高い建物から飛び降りて見せろ。本物なら無事だろう?」
「か…神を試してはならない!」
「クックック…」

この男…ふざけているのか?
いかにも芝居がかった様子で、小冊子に書いてある悪魔が言ったセリフを…

「なぁ、イエスよ。お前はこの時代の人間ではないな?」
「な、なぜその事を」
「やっている事が、明らかにこの時代にそぐわんからだ。蒸留水、蒸留アルコールを用いた手当て…」
「…」
「そして、水をワインに変えた奇跡。あれは、水に蒸留酒を混ぜたんだな?ククク…」

こ、この男、そこまで見抜いて…

「お前は、今までずっと監視されていたのだ。我が教団の者によって」
「何だって…」
「お前の信者の中に、何人か紛れてな。どうやら気がついてはいなかったようだが」

この辺から姿を見かけなくなってたから、てっきりどこか遠い所にでも行ったのかと思っていた。
ずっと近くに潜伏して俺を見張っていたのか?俺の信者の中に、自分の手下をスパイみたいに紛れ込ませて。
それにしても、なぜこうもあっさりと俺がこの時代の人間ではない事を見抜けたんだ?

「なぜそんな事がわかるのかという顔をしているな」

「なに、簡単だよ。私も君と似たような立場だからな」
「なに?という事は、お前は、まさか…」
「そう。私もこの時代の人間ではない。君と同じように、未来から飛ばされてきた人間だ」

…そうか。だからか。
だからこの男には色々と不思議な噂があったんだ。
病気も実際に治せたんだろう。俺と同じように、この時代にない未来の知識を使って…。

「なぁ、なぜお前はイエスキリストの真似事をしている?本人でもないのに」
「そ、そりゃあ、そうしなければ、未来が変わってしまって」
「放っておいたらいいじゃないか。今ここに居る私達に、未来の事など何の関係がある?」
「…それに、お前が広めようとしているモレク教。あんなもの、広めさせるわけには行かない」

そう。やっとこの辺りから人間性を、社会を荒廃させる古代の邪教の影響が消え、
未来からきた俺からしてもまともと言える倫理観が人々に根付き始めたんだ。
これが失われたら、また野蛮で物騒な事件が増え、神の生贄にするために子供が誘拐され始め…

「困るんだよ。せっかく神と言えば何でも信じる愚かなこの時代の人間を支配しようとしているのに」

そう言ってモレクの司祭は笑った。
俺は頭に血が昇りそうになった。
この男は、自分の事しか考えちゃいない。
自分が良ければ、この時代の人々が、未来がどうなろうと知った事じゃないんだ。

「モレクの司祭…お前の思い通りになんて、させやしないからな」

もし神の為に、利益の為になら人を殺すのは当たり前という価値観が
この時代に広がってしまったらどうなるか。

神と言えば何でも信じる人達ばかりのこの時代、
人を殺す事は神の為になるという常識が人々の間に出来上がってしまう。

そうなると、俺の知っている常識とはかけ離れたものがここからの未来では当たり前のものになって。
殺人や強盗が、当たり前のようにそこら中で…
だけど。

「俺がイエスキリストの教えをこの時代に広める限り、モレク教は広まる事はない」

そう。それはこの後の歴史が証明している。
きっと多くの人が人を愛せと説いたイエスキリストの教えを正しいものと受け入れたんだ。
たぶん、人は本能的にいい物を選ぶように出来てるんだ。多少、悪いものに騙される事はあっても…

「確かに、信者達は君を信じ切っているし人数も多い。正直君に対抗するのは少々骨が折れる」
「なら、諦めるんだなモレクの司祭。俺がいる限り、モレク教なんて広めさせや…」
「だが、その頑張りがいつまで持つかな?」
「なに…?」

モレクの司祭は薄笑いを浮かべて言った。

「お前は、一生イエスキリストを演じ人々に教えを説いて回る積もりか?お前に、そんな真似が出来るのか?」
「うっ…」
「いつか、決定的な失敗をやらかしてしまうかも知れないぞ?何せ、お前は偽者だからな」
「黙れ!」

「君の立場がよーくわかるよ。キリスト本人でもないのに、毎日大変なプレッシャーだよなぁ、クックック…」
「…」
「自由になりたいと、実は心の中では思ってるんじゃないのか?」
「うるさい!」

この男の言う通り。
人々にイエスキリストの教えを説いて回るという事は、イエスキリストを演じ続けるという事だ。
一体、いつまで?それに確かに、何か決定的な失敗をすれば全ては水のアワに...?

「いつか、必ず破綻が起こって全て台無しだろうよ。今すぐキリストの真似なんてやめた方がきっと楽だぞ?」
「黙れ...」

一体、どうしたらいい…
結局、偽者の俺が本物のイエスキリストみたく、この時代に、
そして未来にまでキリスト教を広めるような真似は最初から不可能だったという事か…?

「それに、君は大きな見落としをしている」
「見落とし…?一体何の事だ」

モレクの司祭は話を続けた。

「イエスキリストは歴史上の重要人物だ。この後の歴史くらい、馬鹿なお前でも知っているだろう」
「…」
「お互い愛し合えだの、神は皆を愛するだの下らんたわごとだが。が…」
「…」
「それが人々に大きな影響を与え、大多数の人間の思考の基礎となった」

「宗教的なものだけじゃなく、政治、法律、文化…それこそ、あらゆる物に影響が及んだのだ」
「…」
「もしかして、キリスト教がなければこの後の文明はだいぶ遅れたものになったかもな…フフフ」

そう。その影響はたぶん、遠く離れた日本に住む俺にまで時代を超えて届いて。
けどそんな深くまで、今まで考えた事はなかった。
ただ、俺は未来が変わらないように必死だっただけで…。

「君の影響力は絶大だ。そして、君はどうすればこの時代の人間を動かせるかも知っている。神を語り、この時代にない知識で奇跡を演じ…」
「…何が言いたい、モレクの司祭」
「やれやれ、ここまで言ってまだわからないか?」

モレクの司祭はあきれたような顔をし、こう言った。

「君は、今この時代にあって自由にできないものはないという事だ。例え、それが歴史であってもな」
「…」

しばらくの沈黙。
そんな…。俺は、そんな事、望んでなんか…
そんな立場なんて、俺は望んでなんか…

「なぁ。上手くやれば、まで誰も築いた事のないような大帝国を築き上げる事だって可能だぞ?」
「…」
「どうだ、試しにローマ帝国を滅ぼして見ないか?なに、簡単だ」

興奮したようにモレクの司祭はまくし立てる。

「ローマに不満を持つエジプト、ペルシアの王の前でほんのちょっと奇跡を演じ取り入って…」
「…」
「軍備や戦略も中世ヨーロッパ並に近代化し、同時にフン族にもローマに攻め入るようそそのかし…。なぁ、どうだ?」
「…」
「ワクワクしてこないか?歴史を知り、未来の知識があればこの状況ではそんな事も可能だぞ?」

目眩がしてくる話だ。
けど、この男のいう通りそれも可能なんだろう。
ほんの少しの歴史と、この時代にない未来の知識があれば、たぶんそれだけで…

「どうだ。まさに、高い山のてっぺんに立って世界を見下ろしている気分じゃないか?ハッハッハ…」

そう言ってモレクの司祭は愉快そうに笑った。
狂おしい権力欲。そして責任の無さ、傲慢さ…
いや、違う。この男は単に目茶目茶にしたがってるんだ、この世の秩序を。
きっと、それが理由もなく憎くて、目茶目茶にするのが楽しくて仕方ないんだ。

「法だの…常識だの…人への憐れみだの…」
「…」
「下らん。そんなものは弱い人間が縮こまり肩寄せ合って生きるための下らん取り決めだ」

「だが救いの御子。君と私はそんな連中とは違う。この時代を自由にできる君と私は絶対的な強者だ。そんなつまらん物に縛られてどうする?」
「…」
「そんな物は捨ててしまえイエス。布教などやめて、この世界を自分の思うままにしたらどうだ」
「…」
「私のモレク教に入れ。協力しあって、この世の全てを支配しようではないか」
「ふざけるな!」
「ハッハッハ…」

この男にはムカムカする。
それはたぶん、俺の中にも古代の預言者達から伝わり、
キリスト教となって世界に広がった倫理感が曲がりなりにも備わっていて…。
俺はモレクの司祭を睨みつけた。

「見てろ、俺は必ずキリスト教をこの時代の人々に根付かせて見せる。お前の広める邪教なんか、誰も耳を貸さなくなるぐらいに…」
「根性なしのお前がどうやって?一生、修道士のような生き方が出来るのか?ただの人のお前が?」
「そ、それは…」

考え込んでしまう。
未来への影響を気にして極力人との関わりを絶つ、今の孤独な生活が、一生。

いつか気持ちが折れてしまわないだろうか。
そしていずれ何か失敗をし、キリスト教が広がらなかった未来へ変わってしまって…?
一体、どうすればいい。

…そうだ。あった、一つだけ。
イエスキリストの教えを、この時代の人々に根付かせる方法。

「…辿り終えてしまえばいい」
「なに?」
「イエスキリストの生涯を辿り終えれば、きっと、人々にキリスト教は根付くんだ」

そういう事なんだ。
小冊子にある、数々の奇跡と行い。
それが人々の心に深く刻まれ、やがて信仰となって。

「…確かに、それはいい方法だ」

モレクの司祭は顎に手を当て、
俺の前を左右に行ったり来たりする。

「しかしな。お前にそれをやり遂げる事は不可能だ」
「どういう事だ」
「知らんわけじゃないだろう?イエスキリストの最後を」

モレクの司祭は、そう言ってあざ笑うような笑みを浮かべた。

「今までは上手く誤魔化してきたようだが。十字架に磔にされ、その後復活するのをどう演じる?」
「うっ…」

…実は、俺は最後のエピソードを。
イエスキリストが十字架にかけられ死ぬエピソードを、どうやって再現するか
怖くて今までなるべく考えないようにしていた。

もし、どんな方法を頭に思い浮かべても、そのとたん小冊子の記述が変わってしまったら。
イエスキリストの生涯を辿り終えるには、
俺は十字架にかかって、本当に死ななきゃならないんだとしたら…?

「知ってるか?救いの御子。十字架にかかって死ぬのはとんでもなく苦しいようだぞ?」
「…」
「肺が体重で圧迫され、徐々に窒息死するんだ。何度か見たが、そりゃあ酷い有様で」
「やめろ!」
「フッ、ハッハッハ…」

怖い。
恐ろしい。
…いや、きっと大丈夫だ、大丈夫。
きっと、何とかする方法はあるはず。きっと…

「下手な小細工は無駄だよ、救いの御子くん。何か下らん方法で逃れようとすれば」
「…」
「私が、お前のインチキを暴く。それで全てがお終いだ」
「く…!」

くそっ、そこまで手を回されちゃ…
…たぶん、この男には誤魔化しは通用しないだろう。
例えば誰かを身代わりにし、俺はどこかに隠れて復活を演じるなんて事は。

きっとすぐに見つけられ、あるいは身代わりをばらされて。
それにそもそも、他人を身代わりになんて残酷な方法、俺にはとても…

「わかったか?救いの御子。…いや、単なる小僧」
「…」
「義侠心、憐れみ…そんなものに命をかけるなんて、並の人間には不可能なのだよ。フッ、ハッハッハ…!」

…詰んだ、のかも知れない。
きっと、どんな方法を考えたって、最後の最後にこの男にバラされてしまっては…

…いや。
まだだ。まだわからない。
きっと何とかする方法はある、何とかする方法が、きっと必ず…

「悩むだけ無駄だよ。もう答えは出てるじゃないか。今すぐキリスト教の布教などやめ、モレク教に…」
「…」
「いや、モレク教に抵抗があるなら無理強いはせんが。それなら布教をやめるだけでいい。そうすれば」
「…」
「お前と、それとお前の弟子達、それと家族にも約束しよう。危害は加えないと」

このまま布教を続けるなら、最後には、死…?
けど、この男の言う通りにすれば、俺と弟子達、父さんと母さん、それとその子は安全に…?、

「ハハハ…なーに、じっくりと考えたらいい。私が信頼できないというなら、どこか遠くへ逃げるというのも手だぞ?ハッハッハ…」

勝ちを確信したようにモレクの司祭は笑う。
読みきっている。知り尽くしているんだ。
イエスキリストじゃない俺の、人の心の弱さというものを。

道義、愛、慈しみ…。社会的正義、人類愛。
きっとイエスキリストは、自ら十字架にかかる事で皆にそれを示したんだ。
それに人々は大きく心を動かされ、それは世界に広まっていって。

俺に、最後に人のために、未来のために命を捨てるような真似なんてできるだろうか。
イエスキリストでも何でもない、この俺に?

「話は以上だ。このままイエスキリストの真似事を続けるか否か、よーく考えてくれたまえ。もし、私に話があるのなら」
「…」
「パリサイ派の偉いさんにでも言付けを頼んだらいい」

…やっぱり、この男は。
パリサイ派とも通じていて…。
きっとこの時代の権力者と話をつける事ぐらい、簡単なんだろう。
俺と同じくらい、今の時代、この男に出来ない事はないんだ。

「話せて良かったよ、救いの御子くん。愛だの道義だのに縛られてこのまま窮屈な生活を続けるか」
「…」
「それとも、全てを手に入れこの時代で王侯貴族か、はたまたそれ以上の暮らしを得るか」
「…」
「君なら、人として選んで当然のほうを選択すると思っているよ。では」
「待て」

一つ気になり、俺はモレクの司祭を呼び止めた。

「一つだけ答えろ、モレクの司祭」
「ん?何だね?」
「なぜ、今まで何もしてこなかった。邪魔をする気なら、いくらでもチャンスはあったはずだ」
「ああ、その事か」

「何度か試そうとしたさ。だが、強引に妨害するような方法では上手くいかないようだ」
「何だって…?それはなぜ」
「どうやら、歴史はある種の収束力…あるいは、復元力のようなものを持つらしい」
「歴史に収束力、あるいは復元力…?」
「そうだ」

歴史の持つ、復元力だって…?
そんなもの、聞くのは初めてだ。

「例えば、私が歴史を無視し、人を私の支配下に置こうとあらゆる手で強引にモレク教を広めたとしよう」
「…」
「しかしこのままでは、やはりお前の教えが勝りモレク教は消え去って本来そうあるはずだった未来へと収束していく…」
「…」
「君を殺そうとしても、無駄だろう。首尾よく行ったとしても、君は悲劇の主人公となり、その教えは人々の心に刻み込まれその後の歴史は似たようなものになり…」

つまり。
キリスト教の歴史に対して持つ大きな影響力は、
歴史を歪ませようとしてもそれをなかった物にしてしまうという事か…?

「なので、君がイエスキリストとして行動する限り私はこの時代で自由にしたくても制限されてしまう」
「…」
「邪魔をしても駄目。殺そうとしても無駄。全く、君は私にとって本当にやっかいな存在なんだよ?」

モレクの司祭はおどけたような表情をし、肩をすくめた。

「だから、私は待つ事にしたんだ」
「待つ…?」
「そう。君が何か失敗するか、イエスキリストとしての歩みを止めてしまうのをね」
「…」
「それが一番決定的だ。キリスト教が広まらなくなる要因のな」

…そうか。
だからあえて今まで強引な手には出なかったんだ。
やろうと思えば、いつでもやれたにも関わらず…

「私が今日こうして現れたのも、歴史の収束力を利用するためだ。いかにもキリストを試す悪魔らしいだろう?ま、ほぼジョークだがね。フッ、フフフ…」
「…」
「少しそれらしく振舞えば、歴史上起こった通りの出来事に収束していく…面白いもんだな、今の状況は」

この男、ここまで考察して…
それに比べ、俺は今まで何も考えてなかったに等しい。
恐ろしく頭が切れる男だ。たぶん俺なんかより、ずっと…

「そもそも、一度お前を始末しようとして無駄だったしな」
「一度、俺を始末しようと…?」
「ああ。お前は小さな頃、ベツレヘムで赤子虐殺事件に巻き込まれただろう?」

まさか…

「あれは、私の差し金だよ。ヘロデ大王をそそのかしてな」

それを聞いた瞬間、俺は頭に血が昇った。
ベツレヘムの惨劇は、歴史を変えようとしたこいつが引き起こして…!

「このっ…!」
「おっと」

俺は杖で殴りかかった。しかしモレクの司祭に軽くかわされ
逆に足をひっかけられ俺は地面に転がりヒザをしたたかに打ち付けた。

「つぅっっ…」
「ハッハッハ…。イエスキリストらしくないぞ。キリストが杖で悪魔に殴りかかったなんて、聖書に書かれていたか?」

俺を見下ろしニヤニヤするモレクの司祭。

「イエスキリストはどうしたと書かれている?ほら、やって見ろ。そうすれば、聖書にある通りの事が起こるぞ?」
「…去れ」
「ん?」
「去れ!この悪魔!サタン、主なる神のみを拝し…!」
「ハッハッハ…そうだ、それでいい。逃れられない死の運命が訪れるまで、キリストを演じ続けるがいい」

いかにも可笑しそうに、モレクの司祭は俺を哄笑する。

「そして、お前は必ず失敗する。きっとお前は逃げ出すだろう。…ハッハッハ」

夕闇に紛れるように、モレクの司祭は消えていった。
荒野には、膝を抱えてうずくまる俺ただ一人だけが残されていた…
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