58・十字架の上で

文字数 2,577文字

…あれから、
どれくらい時間が経ったんだろう。

「どうした?ユダヤの王。自分で自分を救って見ろ!」
「そうだ!お前が本物の選ばれた者ならな!」
「神殿を打ちこわし、三日で建て直す者よ!自分で十字架から降りてこい!」

周りには、俺を見張る兵士と
俺を眺めて野次を飛ばす人々が数十名。
はるか遠くには、遠巻きにそれらの様子を眺める人々が何人か。

俺の駆け寄ってこようとした弟子達は、
兵士達によって荒っぽく追い散らされて。

はは、全く…。俺は、三日後に復活するって言ったのに。
俺の事が、そんなに信じられ…

「おい。おい、あんた」

その時、隣から呼ぶ声が聞こえた。
俺と同じく、罪人として俺の両脇に十字架にかけられた二人の男のうちの一人。

「あんた、キリストなんだってな」

その男は言った。

「それなら、自分も救って俺らも救ってくれよ」

男は、
半分茶化すような調子で言った。

「おい」

今度は、反対側の
もう一人の男がそれをたしなめるかのように口を開く。

「お前は同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか」

「お前は自分のやった事の報いを受けているから当然だ。しかしこの方は、何も悪い事をしていない」

そしてその男は、俺の方を見た。
ああ、これも。何度も読んだ小冊子に、書いてあったっけ…

「イエスよ。あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、私を思い出して下さい…」

何度も読んだお陰で、
俺は覚えてしまったイエスキリストの言葉を言った。

「よく言っておくが、あなたは今日、私と一緒にパラダイスに入るであろう」

俺がそう言うと、男は安心したように微笑んだ。
そして体力の消耗をなるべく避けるかのようにうつむき、目を閉じた…
















それからまた、
しばらくの時が過ぎて。

かすれる目で、俺は両脇の十字架にかけられた男達を見る。
二人とも、しばらく前から身動きもせず、声も上げなくなって。
青白くなった顔で下を向き、うつむいている。

俺も、徐々に呼吸が苦しくなるのを感じ、
一瞬ひどいパニックに陥りそうになる。

「大分、のどが渇いてるようだな」

ローマの兵士がそう言って近づき、
長い棒の先につけた、苦いワインにひたした綿を俺の口に押し付ける。

「ほら飲め。楽になるぞ」

俺は、それを顔をよじって拒否する。
それを飲めば一瞬は楽になるだろう。けれど、その後はより増した苦痛が襲ってきて…

そろそろ、はっきりと息苦しさが感じられるようになってきた。
深く呼吸をしようとしても、胸が、肺がちゃんと動いてくれない。

頭が割れそうに痛む。のどが乾燥し、焼け付くようだ。
心臓がすごい速さで脈打っている。

…神。神よ。
居るなら、俺に一言くらいかけてくれたっていいじゃないか。

あんたの示した道の通りに。
そうしなきゃ、教えは人の心に備わらないようだから。
だから俺は、こうしてまるで本当のイエスキリストのように十字架にかかって。

このままじゃ…。俺はひどく不安に苛まされて死ななくちゃならない。
俺が死んだ後に、あのモレクの司祭が全てを台無しにして。
人々の、そして俺の弟子達の心までもから、教えは消えていって…

…頼む、神様。
あんたが一言かけてさえくれれば、俺は心から救われるんだ。
このままじゃ、俺…

「ぐっ…!」

苦しさと恐怖で、思わず身をよじりうめき声を上げてしまう。
…落ち着け、大丈夫。信じるんだ、歴史の通りになるって。

イエスキリストの教えは、信仰へと変わって。
そして信仰は受け継がれ、洗練され、高まっていき。
それを守り伝える、壮麗な教会が数多く建てられて。

そして未来では。人に優しくとか、不正に対して怒りを表すとか。
その精神性が、ごく当たり前のように社会に溶け込んでいて…

…未来の、ごく常識的に生きる人の心のどこかには。
程度の、差はあっても…
イエスキリストの、心の一部が宿っているのかも知れ…

「ぐはっ!」

だ、駄目だ、いよいよ苦しく…
苦しさが増すと同時に、恐ろしい疑念が再び頭をもたげてくる。
全ては、無意味に終わるんじゃないかって。

…神。神様。頼む。俺に、声をかけてくれ。
あんたが存在している証拠を見せてくれ…頼む。

「がはっ…!」

いよいよ、呼吸が苦しい。
肺が焼けつき、頭が破裂しそうだ。

「…神。神よ」

ひどい苦しみと同時に、
疑念が心を満たしていく。

「なぜ…。なぜ、あなたは私を見捨てたのですか!」

…思わず、口をついて出てしまったけれど。
言うべきじゃなかったかも知れない。
けれど…神の声なんて聞こえなくて。姿も…見えなくって…















もう、何度も意識が途切れる。
その度に、目の前がだんだんと暗くなっていく。

神の声は、結局聞こえない。
…やっぱり。俺の、やった事は。全部…無駄…


「何だ、お前ら。散れ!」

兵士の怒鳴り声で、ふと途切れかけていた意識が戻った。
かすむ目で辺りを見ると、遠くに、大勢の人々が…

それは、十字架の周りにいる人々よりはるかに多くて。
およそ千人以上の人々が、ゆっくりとこちらへ近づいて…

皆、顔を隠すようにフードなどをかぶって。
まさか、俺の、信者達…?

「散れ!さもないと…」

周囲にいた兵士が、
近づいてくる群集に対して槍を振りかざし、大声で警告する。

「向こうへ行くんだ!」

だ、駄目だ、頼む、騒がないでくれ、
ここで暴れられたら、下手したら…歴史が…
く、こ、声が…出な…

その時。
丘を囲んだ千人以上の人々が膝まづき。
そして、皆一斉に祈りを始めた。

「何だ。散れ、お前ら!」

ローマ兵士が、その人々の背中と言わず、
肩と言わず槍の柄で打ち、鞭や棒で叩いて。

けれども。人々は打たれ、
服が破け血が流れても涙を流して祈り続けて…

向こうには、マリアさんが立ってて。
それと…。ああ、あのナザレの司祭も向こうに…

皆の流す涙が…雨みたいだ。
神が降らす、晴れた日にも降る、不思議な…




…そうか。
神…そこに…





なら…




俺は…





安心…して………








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