51・ゲッセマネの園

文字数 2,758文字

それから、すっかり日も落ちた夜の街中。
俺は弟子達を引き連れ、オリブ山の近くにある
ゲッセマネと呼ばれる庭園に向かっていた。

小冊子によると、イエスキリストは大勢を引き連れた
パリサイ派に捕まるまで、そこで最後の祈りを捧げてたという。

いよいよ、その時が近づいたか…
何だか、不思議と落ち着いた気分だ。
まるで、これから起こる事がどこか他人事のように思えて…。

「今夜、あなた方はみな私につまづくだろう」

俺は小冊子にある、イエスキリストが弟子達に語ったという言葉を
皆に聞かせていた。

「『私は羊飼いを打つ、そして羊の群れは散らされるであろう』と書いてあるからである」

「しかし、私はよみがえり、あなた方より先にガリラヤに行くだろう」

俺がそう言った時、
ペテロがぽつりと呟いた。

「例え、皆がイエス様につまづいても、私はけっしてそんな事は…」

小冊子の、通りに…
けれど、ペテロは俺が捕まったあと、俺の事を知らないと三度否定するんだっけ…?
俺は、ペテロを見つめて言った。

「よく、あなたに言っておく。今夜鶏が鳴く前に」

「あなたは、三度私を知らないと言うだろう」
「そんな…!」

こう言われ、ペテロはショックを隠しきれないようだった。
確かに、普段のペテロの性格じゃ考えられない事だけど…

「例え、イエス様と一緒に死ななくてはならなくなったって…」

「イエス様を知らないなんて、決して言いません!」
「そうだよイエス!私もだよ!」
「イエスさん、ペテロは絶対そんな事言わないって!」

俺を裏切るみたいな事を言うのは、純真なペテロにとって酷く辛い事のはず。
けれどやっぱり、死ぬのは誰でも怖いって事なのか…?

…いや。違う。
今ならわかる気がする。イエスキリストがこう言ったのは、きっと…

辛くたって、ペテロは必ず言った通りにする。
信じてるよ、ペテロ。







「…よくも、よくもみんなの前であんな仕打ちを!」

「せんせー。僕のこと、わかってくれると思ってた。思ってたんだよ…?」

「とんだ、思い違いだったって事だね、アッハハハハハ!」


「…それじゃあ、あんたのお望み通りにしてあげるよ、せんせー」

「愛してるよ」







それから、しばらく行った先。
オリーブの木の生い茂る、ゲッセマネの園に俺達は到着した。

「みんな」

中へと進んで、少し開けてる所を見つけると
俺は弟子達に言った。

「私が向こうで祈っている間、ここに座っていなさい。それと」

俺はペテロとヤコブ、ヨハネの3人を呼び寄せた。

「ペテロとヤコブ、ヨハネは近くに…」

小冊子に書いてある通りにそうすると、
俺はみんなに向けて言った。

「私は、悲しみのあまり死ぬほどである。ここで待っていて、私と一緒に目を覚ましていなさい」

…確かに。
悲しくて、死にそうだ…。

いくらこの時代から後の未来を守るためとは言え。
なぜ、俺は死ななくちゃならないんだ?
一体なぜ?

「…わが父よ」

俺はいたたまれなくなり、
思わず地面にひざまづき、祈った。小冊子に書いてある通りに。

「もし、できる事でしたらどうか…。この杯を私から過ぎ去らせて下さい」

「しかし…。私の思う通りにではなく、御心のままにして下さい」

俺は、真剣に祈った。
怖い。死にたくない。
みんなと、みんなと別れたくない…

イエスキリストの教えでこの時代の人々を導くために、あちこちかけずり回って。
時にはバカな事をやって、みんなして笑いあって。
そうやって、ずっと一緒にみんなで過ごしてたい。
…神様。どうか、どうかお願いします。

俺はどれくらい、そうしていただろう。
しばらくたってから顔を上げ。
それから、小冊子を開いてみた。

やっぱり…。変わらないか。
もし今逃げたらと考えると、たちまち内容が変わってしまって…

俺は、ため息をついて小冊子を閉じた。
そして、ちらっと後ろを振り返ると。

ははっ…
小冊子にある通りに。弟子達がみんな、うつらうつらしてて。

ここの所、色々あって神経が張り詰めっぱなしだったんだろう。
それに、もう夜も遅い。
まだまだ子供と言えるみんなが、眠気に勝てなくたって仕方ないか…

「みんな」

俺は、みんなに声をかけた。
弟子達はハッと目を覚ました。

「あなた方は、ひと時も私と一緒に目を覚ましている事が出来なかったのか」

「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい」

「心は塾しているが、肉体が弱いのである」

イエスキリストの言う通り、体力に溢れる人間なら
言いつけどおりに起きても居られたんだろう。
だけど、ここに居るのはみんな年若い少女達だ。けど…

みんな、今まで本当によく付いてきてくれたな。
あちこちに布教に出かけたり、俺の行ないにつれパリサイ派と対立する事になったり。
きっと、色々と大変だったろう…。

「も、申し訳ありません、イエス様」

ペテロが、眠そうに目をこすりながら言う。

「言われた通りに、必ず…」

そうは言っても、ペテロはとても眠たそうだ。
はは…。あんまり無理に起こしておくのも、可哀そうだな…
俺は振り返って、再び小冊子にある通り神に祈りを捧げた。

「…わが父よ」

「この杯を飲む他に道がないのでしたら、どうか御心のままに…」

祈りを捧げている内に、今まであった色んな出来事が頭に思い浮かぶ。
楽しかった事も、苦しかった事も…。

出来れば、俺が死なずにイエスキリストの教えをこの時代に根付かせたかった。
けれど…。
俺の死で教えを人々の心に刻まなければ、未来はひどく荒れ果てて。

人の心とはそういう風に出来ていて、
これはどうしようもない事だったのかも知れない。
そうだとしたら、その摂理に従うしか…

それから、また後ろを振り返ってみる。
はは…。みんな、ぐっすり眠り込んで。本当にしょうがないな。

俺はみんなをそのままに、
再び神に祈った。

「…わが父よ」

「もし、できる事でしたらどうか…。この杯を私から」

その時、
誰かがこちらに近づいてくる足音が聞こえた。

…来たか。

俺は、弟子達に声をかけた。

「まだ眠っているのか、休んでいるのか」

「見よ…時は迫った。人の子は罪人らの手に渡されるのだ」
「ん…イエス、様?」
「時…?時って、何?」

俺は寝ぼけまなこの弟子達を起こすと、
向かってくる足音の方に向き直った。

「立って、見よ。私を裏切る者が近づいてきた」

俺は、近づいてくる者に対して目を向けた。
暗がりの中から、姿を現したのは…。


「やぁ。せんせー」




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