56・イエスか、バラバか

文字数 5,056文字

「あなたは、ユダヤの王であるのか」

前に立つ、ローマのイスラエル総督ピラトが俺に訪ねる。

「はい」

俺は、その質問に素直に答える。

「その通りです」

答えを聞き、ピラト総督はしばらく眉を寄せて何事かを考え込んだ。
その間にも、周りにいるパリサイ派、サドカイ派の祭司長達が
あれこれ盛んに俺の犯したという罪を並べ立てる。

いくらユダヤ議会の祭司長達といえども、
ローマに断りもなく勝手に死刑を執行する事はできないらしい。
なので、俺はイスラエルのローマ総督府に連行され、
その総督の前に引き出され…









その少し前のこと。

「ふん。いいざまだなナザレのイエスよ」

一時的に牢屋に収容されている俺の前で、
あの偉そうなパリサイ派の男が勝ち誇った様子でふんぞり返る。
そしてその近くには、モレクの司祭の姿も。

「これで、お前は自分がどれほどの過ちを犯したか十分にわかっただろう」

余裕たっぷりに、
いかに自分の方が正しかったかを俺に思い知らせでもするかのように。

「さて。ここで1つ、お前に反省の機会を与えてやろう」

パリサイ派の男は、
もったいぶった様子で話を続ける。

「知っての通り、祭りの時期には罪人を一人許す事になっておる」

「自分が間違っていたと素直に認め、今後二度と我々に逆らうような真似をしないと誓えば」

その男はいかにも愉快そうに言う。

「お前の命ばかりは助けるよう、私が周りに進言してやる」

パリサイ派の男は上機嫌でそう言い、俺の返事を待った。
俺は、黙ったまま何も答えない。

「…どうした?ナザレのイエス。死刑を免れる機会を与えてやろうと言っておるのだ」

「今までの行いを反省し、惑わしてきた人々に対し自分の過ちを認めるならば」

そう言われても、
俺は黙ったままだった。

「…お前は、死ぬのが怖くないというのか?」

不思議そうに、
パリサイ派の男が尋ねる。

「なぜだ?ナザレのイエス。自分の過ちを認めさえすれば、お前は死なずに済むのだぞ?」

「なぜだ?」

そう言われても、俺は沈黙を続けた。
ついにパリサイ派の男はしびれを切らしこう言った。

「せっかく、命ばかりは助けてやろうと言っておるのに!」

「この不遜者が!もうどうなっても知らんからな!」

言い終わると、
パリサイ派の男は憤慨した様子で出て行った。










ピラト総督が、俺に聞いた。

「あんなにまで、次々に周りの方々があなたに不利な証言を立てている」

「あなたには、聞こえてないのか?」

俺が黙ったままでいるのを、ピラト総督は不思議に思ったのか
俺にそんな事を聞いてきた。俺は答えずに黙ったままだった。

ピラト総督はやがて周りを見回し、
周囲の人々に聞いた。

「お前達は、誰を許して欲しいのか。死刑囚バラバか、それとも」

「キリストと言われるイエスか」












パリサイ派の男が牢から出て行ってからしばらくのあと。
モレクの司祭は俺を眺めていたが、やがておもむろに
俺が捕まった時に取り上げられた小冊子を懐から取り出した。

「ほう。これでか」

「お前はこれを頼りに、未来が変わるかどうかの判断していたというわけか…」

モレクの司祭は小冊子のページをめくり、
確かめるようにして裏や表を確認している。

「ま、私と似たようなもんだな」

「これは…日本語か。するとお前は…。まぁ、今さらそんな事はどうだってよろしいか」

モレクの司祭は、しばらくの間黙って小冊子を眺めていた。
やがて、俺の方に向き直り。

「なぁ。お前はなーにをやっている?」

いかにも呆れたような様子で声を出した。

「お前はまさか、自分が本当に生き返ると思ってでもいるのか?」

そんなわけ、ないじゃないか…
俺は、あんたが見破った通り本当の奇跡なんて起こした事はないんだから。

「はぁ、全く…。いいか、人々がお前が復活したと思うような小細工をしていたとしても」

「私が、墓を掘り返しお前の死体を人々の前に晒す」

モレクの司祭は、
聞きわけの悪い子供にでも言い聞かせるような調子だ。

「そうすれば、それで全て終わりなんだぞ?」

…俺が、一番考えたくなかった可能性。
俺が死んだあとにこの男の邪魔が入って。
俺の死体が人々の前に晒され、復活のエピソードはなくなり、それでキリスト教は広まらず…

そして。俺は十字架にかけられて死んだ後。
俺には、キリスト教がちゃんと広まったかどうかを確かめるすべはないんだ。
こんなに苦労して、命まで賭けたってのに。

結局は、全て無駄だったのかも知れない。
俺と同じように、未来から転生してきたモレクの司祭。
今後の歴史がどうなるかを知り、
どうすれば影響を与えられるかを知っているこの時代のイレギュラー的存在。
キリスト教が広まるのを妨害しようとすれば、この男はきっとこの時代の誰よりも的確に…

「キリストを気取って、ただの人のお前が死んだって何になる?」

「よほど、イエスキリストに心酔してるというなら話は別だが…お前はそんなんじゃないだろう?」

俺は、何も答えずに俯いていた。
やがて、モレクの司祭はため息をついて懐から鍵を取り出し牢の扉を開けた。

「ほら。鍵をあけてやる。どこにでも逃げろ。キリストのマネをして死ぬなんてバカな死に方だ」

俺は、何も答えない。
そんな俺の様子を見て、モレクの司祭は首を振った。

「私が、情に動かされるなんて考えない方がいいぞ?」

「私はこの時代を、自分がやりやすいようにする。ただそれだけの話だ。やれやれ、全く…」

牢に鍵をかけると、
モレクの司祭は牢を出て行った。

牢屋に一人、ポツンと取り残され。
俺は明日の死刑を待つばかりになった。








「二人のうち、どちらを許して欲しいのか」

「バラバを!」
「バラバの方を!」
「バラバに許しを!」

ピラト総督にそう問われた時、
祭司長、それと彼らを取り巻く群集が一斉にバラバの方を許せと叫ぶ。

「それでは…。キリストと言われるイエスはどうしたらよいか」
「十字架につけよ!」
「彼には死を!」
「その罰を償わせよ!」









牢屋の中で、一人俺はあれこれと思いを巡らせる。
弟子達や、父さん母さんは今後どうなるんだろう。
小冊子には、そこまで書かれてなくて…

モレクの司祭が、
みんなに手をかけようとしないだろうか。

…いや。きっとそれはないだろう。
俺と同じく、弟子の誰かの死がキリスト教の広がるきっかけになる事を怖れ、
あいつは直接的な手出しはしないはず。
あいつは、キリスト教が広がる事自体を何よりも嫌悪してるようだから…

あいつは、自分がそうじゃないから。
常識的で良心的に生きる普通の人々に、わけもない嫌悪を抱いて。
だから狂気の儀式で、人が狂ったようになるのを見ると安心するんだ。
ほら、人はひと皮むけばこんなにも愚かなものじゃないかと…

きっと人がみんな理性のない、自分より下の
まるで動物か何かのようになってしまえばいいと心の底で思ってるんだろう。

今この時代のギリシャやローマにも、モレク教のような
神のイメージとはかけ離れた儀式を行う宗教が多数あると噂に聞く。
人々がそれを忌まわしく思うようになるきっかけは、
イエスキリストの死、そしてその復活…。

人々は、世を腐敗させる悪や不徳に立ち向かおうと、
そうやって信仰を作っていくんだろう。
きっと、多少の妨害があったって、これからの歴史の通りに。

…けれども。
あいつの…モレクの司祭の思惑の方こそ当たっていたとしたら。

俺が死んだあとに墓を暴かれ、死体を人々の前に晒されて。
死からの復活なんてなく、俺は人を騙すペテン師と喧伝され。

そして人々は手のひらを返したように、イエスキリストの教えを捨ててしまって。
人の心とは、その程度のものだったとしたら…?








ピラト総督が、
俺を十字架にかけろと訴えかける周りの人々に聞く。

「あの人は、一体どんな悪事をしたというのか」
「十字架につけよ!」
「彼は神を汚した!」
「十字架に磔にせよ!」








人には、原罪というものがあって。
どうしても過ちを犯してしまうものなんだろう。

キリスト教そのものだって、
色んな経過を辿っていったんだっけ…。

ヨーロッパにまで伝わって。
中世になる頃には、そこで大きな権勢を振るうようになり。

そして、まるでこの時代のパリサイ派やサドカイ派のような堕落にも遭い。
異端審問とか、魔女狩りとか、まるで生贄を捧げる異教のようだった時期すらあって…

人の心とは、そんな物なのかも知れない。
例え神が正しい道を示したって、迷い、過ちを犯し、
誘惑に晒されてしょっちゅう道を踏み外して。

…けれども。その過ちを悔い改めて。
そうやって、人類は過ちを犯しながらも少しづつ成長してるのかも知れない。
それこそ千年、二千年とかかりながら。

人の心には、いい面と悪い面の両方があって。
それでもきっと、最後にはいい方が勝つ。
俺は、それを信じるしかないんだ…

…神の道は、正しいけれど。
けど、完璧じゃない俺達人間は。
結局の所、神の教えと原罪の間で戦い、そうやって生きていくしかないのかもな…














ピラト総督が、再び人々に聞いた。


「あの人は、一体どんな悪事をしたのか」

どうやら、総督は俺をかばおうとしてくれているらしい。
どういう思惑からなのかは、俺にはわからない。
しかし、周りの人々は…

「十字架につけよ!」
「彼は神を汚した!」
「十字架に、磔にせよ!」










…そうだ、神は。
神は、居るんだろうか。
本当にいるのなら…俺は、奇跡が起こるのを信じて安心して死んでいけるのに。

けれど。
俺は今まで一度だって神の姿を見たり、声を聞いたりした事はなくて。

…いや、そう言えば小さい頃父さんが言ってたっけ。
大天使ガブリエルが夢の中に現れて、
そのお告げでベツレヘムでの事件から危うい所で逃れる事ができたって。

あと、母さんも。
俺が拾われる前に、夢で子供を授かるとお告げがあったと。
これは、もしかすると神が存在する証拠なのか…?

…いや、けれどそれも。
もしかしたら、単なる偶然かも知れないんだ。
二人とも信心深いから、神からのお告げと素直に受け入れてるけど…

これは神の奇跡か、それとも偶然なのか。
一体、どっちなんだろう。

俺には…
わからない。わからないんだ…

…もしかしたら、神の奇跡はあったとしても。
それが奇跡なのか、それとも偶然なのか。
それをただの人が見分けるのは、不可能な事なのかも知れない…










口々に、俺を十字架につけろと叫ぶ人々。
その様子を見て総督はため息をつき、そばの水差しを手に取ると
水を垂らし手を洗った。

「この人の血について、私は責任がない」

「お前達自身で始末をするがいい」

それに答え、
人々は興奮したように言った。

「その血の責任は、我々と我々の子孫の上にかかってもよい!」











…神は。
時々、選んだ人間に特別な試練を与えるのかも知れない。
イエスキリストに、与えたように…

俺も、こんな不可解な出来事に遭遇しなかったら。
きっと未来で、何も考えずに今まで通りに生きていただろう。
この時代の、多くの人々と同じように。

けれども、こうしてこの世界に飛ばされて。
未来が変わらないように色々苦労して、何とかここまでたどり着いて。

そのままだったら、きっと何の目的もなくただ生きてたはずの俺が。
こうして人々のために命を使える機会に恵まれたんだ、
イエスキリストのように…

…そう思うと。
俺は、神に感謝しないといけないのかも知れない。

何にもない人生を送るはずだった俺が、結果はどうあれ…
その最後だけは、世界の救い主のように。

そうだよな。
こんな、何でもない俺が。
…神が本当にいるのかどうかなんて、やっぱりわからないけれど。
それでも。

…神よ。感謝します。
俺に、試練をお与え下さった事に…。





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