33.  エリ・エリ・レマ・サバクタニ? 

文字数 1,263文字

エリ・エリ・レマ・サバクタニ?          

神よ、神よ、なぜ私を見捨てられたか?(マタイ)

エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ?  

わが神、わが神、どうして私をお見棄てになったのか?(マルコ)


これは十字架上でイエスが発した言葉であるとのこと。

今は復活祭の時節にあたるので、本日のミサにてこの言葉が取り上げられていた。

何故にこのようなことを仰られたのか?


詩篇22:1に同じセリフがある。

わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。
なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。


My God, my God, why hast thou forsaken me?
why art thou so far from helping me,
and from the words of my roaring? (KJ)



以下は個人による見解:


殺される、死に渡される、がもう避けられない現実となるから。

その一事において発せられるにふさわしい声明だから、そうされた。

絶望の叫びを、残しておく必要があった。


何故にか?


後塵を拝する、後に続く信徒達が、どこかで、このセリフを魂の本音として叫ぶことが

予測されるから。ペトロが三度、イエスなど知らないと言ったように、「コケる」ことは

まず間違いのないことだから。


だから、そうなってしまっても、心が折れないようにと、この先例を自ら残された。


ゲッセマネの祈りもそう。

「怖くて怖くて、逃げたくて逃げたくて…」

これを敢えて、披露されたのも、後に続くものたちを慮って。


こうした配慮によって以下の言葉が生まれてくる。


『力は弱さの中でこそ十分に発揮される』


『わたしは弱いときにこそ強いからです』


ともにパウロの言葉。


何を言っているかというと...、


ヒトは、死においては、誰もが皆、恐怖で圧倒されて、その心は打ち砕かれてしまう。

死のみではない。他にもいろんな悪夢、悪想、妄想、強迫観念によって、

心は、いとも容易く、簡単にかき乱され、挫かれてしまう。

これら暴君らに抗うことが、イエスへの信仰によって為すことが可能となる。

努力を怠りなく、継続的に行うことができるようになる。

これが勤めだ。


例え、綱引きで、いっ時、一旦負けたとしても、

その間における奮闘は全力の、真剣なるものであったかもしれない。

また暴君らに、継続的に抗うことによって、力はいや増しにましてゆく。

宿敵がいるからこそ、強くなれんだよってな話しをパウロはされているのだと読む。

それが死闘であるが故に、主はあの言葉を発し、敢えて、弱き先例となって
ご自身を残されたのだと思います。

本日の牧師さんの話には、こう言った内容は一切ありませんでした。

多分に、ボクが、妄想逞しくも、意味不な解釈を行なっているのだとは思ひます。 

かしこ。


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