6□   パートクドルグ義務(1)

文字数 23,370文字

今更ではあると思うだが、改めて、自分なりに解説させてもらっときます。
悪いけど、かなり素人さん、初心者扱いさせてもらった上での、話しになりますんで。
各自は各自なりに

研究をされておかれるのがいいかと思います。

天村



Being-Partkdolg-Duty, that is, to conscious labors and intentional sufferings."

conscious:
自分として

、ことをちゃんと

、意識的にてでの行いである、意識そのものが、そこにおいて、しっかりある、在り続けている‥。
labors:
重労働、大仕事、肉体的にも、精神的にも、いたく苦しみを難儀を伴うワークこれの複数形

intentional sufferings:
意図的に選択的にてで果たされてある、行われてる苦しみ/苦痛これらの受容甘受

まず自分として強調しておきたいのは、

、この義務としてのものは

んだってこと。云わばこれらは要約体だ。精髄としての、もの

抜き出してきてる。ものごとを、このように単純に総括できるってことは、実は、大したもんなんだ…。

でも本質、精髄それのみであるがあまり、要約体においての語りであるがあまり、八卦の卦と同じくして、解読が、いる…。背景、基礎において、語られずままにされているある条件についてを、探らなければ、明確にせねば、ならない…。

馴染の言葉にてこれら二種を変換するならば:

「ちゃんと、真面目に、熱心に、集中して仕事をする」。

「こころをおおらかに、それを広くもって、他者との関係において、親和的にてあらんとす」。
*つまりは仲良くしてありなさいってことでしかない。

至ってあったりまえの、極普通一般の言葉、話しではないか…。それを御大層にも、えらく勿体つけた造語をもって語ってきてる。Being-Part-K-Dolg-Duty …。前段はその実在してある全体システムの一部としてちゃんと存在していなさいよーっと…。これはあなたにとって義務としてのことなんですぅーっと…。 問題は、真ん中の”K-Dolg”だ。これは意外なことに、あらゆるすべてにとっての功徳とならん

、して〜〜!、なのだーwww。なにかが埋めれているんだろが、こいつに関してはわかりません…。

、この

としての話においては、まずここにおける行為の主体としての自分とは、さてなにもの、いかなるものなのか?ってのがある。また、これらの義務の履行においての

なんなのか?。我等にとって、どんな/なんのメリットがあるのか?。日常生活における

とはならない。また金銭等における具体的なメリットを、報酬を、リターンを、保証するものではないんだ。じゃっ、何の為に?、汗水たらしての、その苦しくしてあるばかりの、重労働ってやつに、励まなければならないのか?、取り組まなければならないんだ?!てんだ!。

この辺のことに関しては今回は触れない。今更なのと長くなってしまうんで…。一つ前提としては、キリスト教における文化が、そこにおいての言説が、ことにおける背景となってる。だから、イエスを主として仰がない、仰いでいないもの等にとっては、ことは、確実に、意味不、曖昧、ナンセンスに、なっていってしまう。真実たるものの普遍性においては、仏の教えとも通じる部分が、あるにはあるのだが…。

まずね、大きな前提になっているのは、人類は、どこか

ってことなんだ。なにかとんでもない欠陥を持ってるっと。具体的には真実そのものを覚知できなくなってしまってる。頭の中の解釈においてことの真実を

それだと認識してしまってるーだ。結果、黒を白だと、白を赤だと、言い張るようなってしまってるー。まったく

ものを在るとし、そこに、しっかりと、眼の前にて在るものに関してを、まったく気にかけないと…まったく認識していないと……。短くして有限なる生を、夢見のままに、各自各様のそれの状態において、生きてるだけだと…。

このことの原因はなんだ?。どこで、いつ、どうして、なぜに始まってしまってあるのか?。
ことの根幹としてのその原因、その傾向性は、生まれる前に、既に始まってしまってるーっ。
一種の呪いとしての、その効力の発現なのだ…。

マハラジの解説が驚くほどまでに的確だ。「我々は

生まれる前に接種して、されてしまって、きて、あるのだ…」。ここにおいても経験に基づいた想像力が大切だ。タバコ、ニコチン、コーヒー、カフェイン、アルコールから始まり、マリファナ、コカイン、ヒロポン、覚醒剤、等。どれも即効性としての効能/効果がある。

、自分を彼方へと連れて行って、連れ去って、くれることになる。非日常としての、その世界へと。確実に其処は奥深くしての世界なのさ。感覚が鮮明に、

敏感になってる。連想においてのその幅も、もうとんでもなく拡大されてしまってある。奥深くしのて思考が、止めどもなく、延々と、溢れてくる…、溢れ出してくる!。だが、そこは完璧に外部とは遮断された、されてある、主観オンリーとしての世界なのだ。そして、この状態には長くには続かない。薬効が切れれば、即刻元の状態へと、戻らなければならなくなる。これがまた地獄としてのもの、その体験なのだ…。薬効における人工的にして即物的な達成であったことが問題になってくる。ことはいたって簡単なのだ、それで〜で、しかなかった。薬の力さ。なので、もう一回それを試したくなる。あったりまえの話し、恒常的になっていってしまう。金がやたらめったらかかる。それを手に入れる為に働いてるばかりとなる。なんにも手元には残らない。そして、事件を起こして、薬物不法所持において、刑務所送り、もしくは、精神病院等に収容されることとなるっと…。おもんネ〜〜。

刑法と大金を必要とするってところに、これらおいて

、ブレーキが効いてくれてるまで。

問題はあれ等ほどの薬効はないが、同じよく似た効果を及ぼしてくれるものがある。ある意味、芸術全般が、それだっていっていい。アニメ、音楽、アイドル等らも、食事としての辛いもん好き、こってり大好きってやつも当然それさ。あれら程までの出費はいらないが、かからないが、それでも、決して少なからずとしてのお布施は必要になってくる。ラーメンに、ちょっとした腹ごなし程度のスナックに、千円って…。即物的にして、あくまでも簡易なる方法によっての、その幸福感の入手。これにおいても問題は、再帰が、再現が、終わりなくして強制されてきてしまうってこと。癖に、習慣に、なってしまって、ゆくんだる。すると、もうどうしても止められない。退屈な時間においてこそ、この自分には、それが耐えられないんだ。そんで、多幸感ってやつを、どうしても、是が非でも、味合わざるを、得ないんだーー!。

これって、このことは、自分の意志だけでは、どうにもならないことの一つ。


これはどっかで、いつか、見ときましょう。

【神の失敗】アヘンの歴史と医薬業界の功罪
 〜アヘン戦争、関連薬と薬害地獄〜 そしてフェンタニルへ 睡眠用 作業用

https://www.youtube.com/watch?v=BiEURqwO7DM

構成がほんとしっかりとよくできている。これの隠されたメッセージは、私達に今の時代においての警鐘を、鳴らすべき、危機を、伝えるべくしてのものなのだ。なんとかワクチンを強制接種させるべくしてのオペレーションが、現在長く発動中だ。こと、これにおいてともなれば、なんの躊躇もなく、ジャブジャブと、資金を、税金を、投下してしまってある。国としてだよ。WHOとしてのその権威の命令、指示においてだ。権威には逆らえないんだ…。でもこのことは一種の策術としてのものなのかもしれませんネーってことをこれを含みを持たせたうえで語ってくれている。

さて、閑話休題、話しは戻して:

原因についてだったな…。なんについてだ?、なんのことにおいてだ?……。

地球上において、人類だけが、他の動物と比べて、

。自然からの支配を、それによっての強制力から、完璧に脱してしまってる。その証拠として好き放題をやってるではないか!。環境と調和してない、できてない、しないで、利用してあるばかりの動物、生命、生存体!。恐るべきスピードで他の動物においての説滅種が増えて、いってる…。

このことにおいての生物学者等の見解は、その総括は「本能が壊れてある」との見解を表している。もしくは、

、現在獲得中のものであるのだと、新種としての動物だからなのだと…。

このことにおいてもおかしさ、異常さってのを確認することができる。
では、改めて、なぜそうなってしまってる?。

旧約によれば、ことの発端は、神から食することを禁じられてあった樹の実を食べて、(まなこ)、開いてしまったことにある。そして、これはあくまでも自説としてのものになるのだが、あのヘビにおけるその分霊が、そのときに構成システムおいて注入されてしまったからなのだ。クンダリーニのことさ。

ホーレン(Fallen)堕天としての、次元降下としての事態が起こる。それは、あくまでも自動的にであったと思うのだが…。人間、人の子らは、その生存を、下層階としてのこの地球に、移したのだ。そこでの生存の為に、原生種としてのとある動物の体に入った、入れられた。それは然るべくして、爆発的な進化をすることになった。

このとこはとにかく調和と建設的なることをモットーとする世界全体からすれば、不慮の、突発的にして、またまったくのイレギュラーなる出来事で、あったのだ。全体においての調和を守る持続させることを優先として、ある意味からすればことの最たる犠牲者であるとも云える人の子らにおいては、即席の、その場におけるありあわせの対処しかできなかったのだ。だから、以後において、齟齬が破綻がほころびが、異常そのものが、如実にて、現れてきてしまうこととなる。



ちょっとコラムとして…

一切皆苦って言葉が仏教にはある。これは

なのか?。

、苦としてのものだと云えるのか?。あなた…答えられる?。


おそらくとしは〜には、なるのだが、人間がマインドベースで、対象認識を行うことになったが為だ。認識において、余計な観念を、

習慣となってしまったが為だ。この

は、とある歴史ある教会の地下にあった秘密の小部屋で、これは最近になって初めて発見されたものになるのだが、そこで大切に、秘密裏に、保管されてあったものだ。熟成期間としてはなんと百年以上が経過しているのは間違いない。これを今日はあなたの為に、開けようと思う。わたしからの好意の証だ。「トクトクトク…」。これをあなたは喜びをもって飲む。するとほんとにそれは今まで飲んだことのない特別にして奥深い味がした。どうしたものなのか夢心地としての状態に、あっという間になってしまってて、異常なる程までの多幸感ってやつに包まれてしまってあった。ほんと、素晴らし一品に、恵まれてしまってあったのだ!。これの正体は三ツ矢サイダー1に対してサントリーブランデーの一番安いやつを、ほんの微々たる程度混ぜ込んだものに過ぎなかったんだ……。まっ、喜んでくれた、感動してくれたってのなら、最早なんだって良いだがね…。

追記:
牛丼屋で出されてある

の紅生姜、カレー屋でまずか違いなく付いきく福神漬。これらは、あの色、あの発色具合であるからこそ食欲が湧くんだ。人工の着色であろうがなかろうが、体に良いだの悪いだの、そんなことはどうでもいい!。あの色のやつとしてのものを出してくれ!。これは自分の思いとしてのものではないが、サンプルとしてしては最高だ。どっかで習慣、セットとなるよう埋め込まれてしまってあるのだ。ことにおけるハーモニーってやつをあの毒毒しての色が色彩が片棒担いでいるって寸法さ…。

まっこの試飲においての感想が、当人においては、正しかったとしてもだ、話を聞いて思い浮かべてしまってた、イメージってやつが、賞味においての評価において、それに大きく影響を投げかけてしまってたってのも、また事実だろう。LEXUSの、ジャーマンメイドの、神戸牛の、旬真っ盛りのこのカツオ、センターに今度抜擢されてある何々ちゃん、掲げるにおいては暇がない。いろいろたくさん山ほどある。要はブランドとしてのものの魔力なのだ。


閑話休題!。要はマインドベースでものごとを考えたり嗜好/志向することこそが、既に、幻想としてでしかないその対象物との連結、固着になってる。執着を引き起こしている。極度に主観的な思い込みにおいて。こりゃ〜ゆくゆくには、とどのつまりには、現実において裏切られること請け合い。100%の達成、到達率だ。だから、すべてが苦となる、苦としての結果しか、結ばないんだ。苦にしか過ぎないものを求めてあるっていうその行為も努力も、やはり同じくして苦だ。それがどうしてもつきまとってくる、きてしまう…。

でっ、仏教としては、「ただ縁のみにて従って在りんなさいって」ってことを云われるわけだ。自然体でいなさいってことでしかない。でもね〜、そんな事、できるかい!ってことにはなるんだ。儂らは動物としてのその存在なんだぞー、そんな植物みたいな生態を儂らにはとれね〜ってね…。そーすると、そう云うと〜、ぼんさん達はまたこうも云うわけさ、無心にて、こころを澄まして、一念において何事をも一如となってやってんさーいって。これができる、できてる人は、万人に一人ぐらいだろう…。ぼんさん界においても、これが真実出来る人ってのは、数えるほどしかいない。これまでの日本における記述されてある仏教の歴史、そのすべてを振り返って、それらすべてを射程に収めての、話しなんだがね〜…www。

これは最終到着地点としての立ち振舞。解脱が達成されてあってこそのその状態になる。
これへと至る業法は、ワークは、数限りなくある。でもどれもこれも各個人個人において
合う合わないってやつがどうしても出てくる。どのセンターに本拠をもってるか、置いて
いるかの話しさ。

そんでどうしても、概要としての示唆、教えにおいて、集約ってやつが為されて

得ないんだ。いろいろ山程ある。文化としての中にて、それは確認できる。ことわざ、金言としてのものの中に。一心不乱に〜なんてもこれだ。

数限りなくしての言説を聞き、知り、真剣なる超長期に渡る努力の末に、高次の存在への変性を成し遂げたグルジェフが、ことの精髄のみを取り出して、まとめたのが、この二種としてのパートクドルグ義務になる。たったの二つのみに絞った、絞り得てあるってところが味噌さ。

彼の奮闘には感謝の思いしかない。

とにかく、いろんな方法、業法、ワークってやつがあるにはあるのだが、それらの真の目的ってやつを、直感理解しておかなければならない。これは比較対象としての知性の動員が必要になってくる。でも、統合、総合、精髄の部分をとらまえてくるためには、個人における経験が、実体験が、そしてまた同時に、他者においてのその挙動、行動における、観察によってのその情報もいる。

この二種の義務としてのその対象範囲は、実際は莫大……。

あらゆる機会において、この二種の義務を、こころにて、命じておくことが、意識しておくことが、一番効率のいい修練になると思う。クリスチャンならば尚更だ。なにせ、イエスと云う最高のお手本がおられ、それにかしずくもの、彼の代行者として、あなたの人生は、あるのだから…。

二律がある。いや、二律、二極においてのものとして、まとめられている。

自分発、自分由来においての苦と、外、外界由来としての苦たるものに。

これら両方においての苦たるものを、受容しなさいが、

が、
この義務においての命令、その課題だ。

前者はね〜…これは、選ばれた人のみにおいての、そのケースの話しになる。非常に稀だろうから、ここでは触れないことにしよう…。おっと、ひとつだけ。ことの事実において、彼は、もう逃げられない。そんな選択権は、彼には、もう、あり得ないのだ…。

問題は後者だ。周りの人々からの関係において、寄せられてくる、持ち込まれてくることにおいての、ことになる、その不快感、不自由さだ。これはね〜よくできたもので、避けようがないものなんだ。それとしてのものになるよう、状況は、自動的に、整えられくる。世界はそうなるよう、そうであるよう、できているんだ…。

だから、こっちに関しては、各自各様、ことにおいては、際しては、翻弄されてあるが、必然となる。ことの向こう側には、たしかに自分と同じ人間が確かにいるのだが、それらは同時に、幻としてのものでもあるわけさ。これが自分の思いとしての立脚点、考えにおけるその総括だ。

プラクリティーって呼称をもって総括してる。これは云わば、世界システムにおける、その管理、オペレーターとしてのものなんだ。超高性能のコンピューター。これの裏をかくことは、基本不可能。実際は、気付いたときには、ことは、もう済んでしまってて、既にどうしようもない状況に陥ってしまってる。日常生活においてひとの意識ってのは、ざるなんで、どうしても隙ってやつが常在してしまってる。これを逃さないんだ。いろんなことの流動性においてあちらとしての手数はもう無限大にもなってしまっている。

他者においてのなにを、この自分は、不快に感じるのか〜?だ。嫌に思う、腹が立つ、気にさわる、さわってくる。気に食わない、許せない、呆れる、がっかりするさせられる、失望する…。ことは他者としての人間だけの話しではない。モノに関しても数え上げれば切りがない!。

食器の洗いものをしてれば、水は飛ぶし、ゴミが排水口に流れてゆかないし、事後にまわりを拭いても拭いても、なんか残ってるし、現れてくるし、見落としがあるし、なにか自分そんなに悪いことしました?ってな思いがこみ上げてくることは日常茶飯事としてのこと…。

苦たるものとしてのその本質は屈辱なのだと思う…。ヒューミリエーション、侮辱、ゴミ箱に投げ入れたゴミは紙くずは絶対に外れる、エンバラシング、動揺。では、このことにおいて一番苦しむことになるのはなんだ?。自尊心、プライド。では、それをそれらを養ってきたものはなんだ?。傲慢さだ。だから、この人の世において、自分はもっとも低きものだと思えるのであれば、かなりの苦境たるものを削減することが適う。あまりこれらとしての出来事に堪えなくなる。

。自分は、自分の過去を、しっかり思い出すことを通じて、ことの自覚を徹底するよう努めている。これも慣れだ、習慣。

苦に対しての反応は簡単、シンプルだ。その原因となるものを、取り除く、やっつける、無きものにするだ。不快、不愉快極まりないからだ。そうするのが一番、そうできるのがなにより、そうできたならもう安心だ。でも残念ながら、それらは尽きることなく、その姿を変えて、その当事者たるものを違えて、再帰してくるものなんだ。終わることはないし、尽きることはまずありえない。少しばかりの有閑期を置いては、また再び始まってしまってる。手数とそのオペにおける手管は鮮やかにして変幻自在。見事に過ぎる。人ってやつには、こだわりとしての、それにおいての、敏感性っては山程あるので、これは生来からしての、本来性からして一生変わらない質、傾向、そのこだわりってやつになる、だからあちらとしては突っ込みどころとしてのものは、弱点としてのものは、無限大、無制限ってことになる。

それは、それらは、避けがたくしてのものなんだとして、諦観してあるにしかないんだ。また、絶対に尽きざるもの、終わらざるものであるんだとの達観がいる。学ぶべきは、この避けがたくしての苦、苦境たるものを、どう利用することができるのかを、考えることになる。渦中においてなんもしなかったなら、それは怒りとしての思い、それに準じてのアクションにしかつながってゆかない。裁きとしての行為ってやつに、走ることになってしまうかも知れない…。これが自然さ。でも、それは、動物次元においての、その自然さ、ってことにはなる。

ここに、反自然なる志向としての、甘受する、甘受してあるまでっていう姿勢が、脚光を浴びることになる。これも先、云っとくなら、単になんにもしない、なんにもできないとしての受容としての行為ではないからね!。単に臆病であるがあまり、また実行力がない、非力であるがあまり対処のしようがないってことでは絶対ないので!。ことに対しての対処を自分は色々ととれるが〜、例えば、露骨に席を立ち上がって違う席へと移動する、でもそんなことは敢えてしないで、現状において甘んじてあるばかり…。荷物を携えて席を移動するのが今更面倒くさかったからだ!。…いや、これは違う、そうではなんかない…いまのこの状況が自分に与えられてある、この自分の為に世界が準備してくれているその環境なのだとして、…そして自分としてあるべき、とるべきとしての態度は、あくまでもこの状況が与えてくる”苦”、苦しみに耐えてあるばかなのだと思うことなのだ。これは試練なのだと、前向きにとらまえておくべきことなのだ…。

補記:ここはあの自分がラーメン屋で味わった不快極まりない体験としてのエビソードが絡んできてる。自分の向いに座ってあった、デカくて、ブサイクで、鼻水ズルズルすすりながら、同時に麺もすすってあったあの女性は、本いっときではあろうが、自分が堪えて我慢してあるばかりであったことによって、こころ静かに昼食を済ませることができたのだ。本人に自覚はないであろうが、それもまた平安としての賜物であったのかもしれない…。落ち着いてゆっくり食べることによって摂取した栄養が取りこぼしなくしっかりと体に吸収されましたとさっと。そして、またデカくなる、太くなることとなっちゃった。めでたしめでたし…、めでたくしてのことで、あったのだと、So祈っとこ…www。*テクニカル的には、目を伏せる、できるだけその人物が視野に入らないよう、入ってこないように、との工夫がある!。これは自分においてならできることっと……。

あなたを、ときに取り巻いてしまうクズ、ばか、あほ、低能たちは、実は、この世界を舞台としての役者らでしかないんだ。その証拠に彼らは長くにはその舞台上にては留まることはできない。確実に、やがてにおいては、はけざる得ないときが、間違いなく、やってくる。自分の母親なんか自宅の門前で転んでおっ死んじまった。それも正月に〜だ。なんにおいてであったって〜、それは永遠なるものではないんだ。このことだけは、しっかりと、認識しておいた方がいい。

さて、苦しみってやつを、堪えてあるってことは、どうゆうことなんだろうか?。なにが自分の内部、体内においては、進行してゆくのであろうか?。これも、その状況においての自分のあり方ってやつ次第になる。単にストレス、欲求不満の堆積にしかならない人もいるさ。上手く利用するならば、少なくとも忍耐力ってやつの強化にはつながるわな〜。そうそう愚痴や不満をもらさないようなる。これは、ゆくゆくには、中々に漢らいしって世間においての評価に、つながってゆくことにはなるわな〜。

補記:
勉学の次元としては、星気体だの活性元素としてのものが体内において合成生成されるだ。この辺に関しての理論理屈になればGが詳しい。でもね〜、あんまし、頭デッカチとしての理解に陥らないように。自分の体験経験において、

、生み出されてくる、達成されてくる、培われてくるのかを検証すればいい。後者の、あくまでも受け身としての、受苦甘受としての内容においてはあまりことは見えてこない。やっぱ、前者としての、自主的に苦境たるものに突入してゆく、ある、において検証するのがいい。簡単な例ともなれば、筋肉強化を目的としての腕立て伏せやら腹筋やらがいいだろう。これとしての苦を乗り越えたなら、あらあら不思議、筋肉が増強されてしまってる〜!。腕が太くなった。筋力が上がってる〜、持久力もどうしたものなのか付いてしまってる…。まっあんまり詳しくはやらないが、ことは、敢えて持っての苦を受け入れてこその、その結果だったってのが味噌さ。その結果へと至るまでの体内おける反応は、そのプロセスは、知らぬままでも構わないと思う。それらのまた別の生き物たちも(内蔵筋肉)、大いに、自己との相関関係において、活躍活動してくれてたってことには、思いは、馳せるべきことなのかも知れないが…。

結局は、自己におけるつまらん獣ベースの反射系が止んでゆくことになるんだ。それらからの介入が支配が弱まる止むことになる。(筋トレで最初に音を上げるのが獣としての肉体だ)。それらからの刺激(つまりは願望欲望)ベースで、副次的に回転していた思考が、止むってことになってゆく。そして、結局、人間由来の、人間本来の、真の精神としてのものが、菩提心って呼んでもいいんだが、行動選択においての差配を振る、舵を握るようなってゆく。その事態は、人格においてのその支配を脱するとしてもいい。裁きは無益なりとしての考えに落ち着いてゆくことにもなる。(無駄だし、極論的にはこの自分とはなんの関わりも、関係も、ない人間の話しなのだ!)。このことはある意味、その人間との関係を、自然と、遮断することに落ち着いてゆく。無効化することにもなってゆく…。自分とはどうしても自然と関係なきものとなっていってしまうのだ。ならばだ、そのことを見越して、その彼も彼女も、いつの日にか、天においての悟りの光が、理解が、気付きが、現れますようにと、世界に向けて祈願してあることが、彼らに向けての手向けに、手向け

、になることであろう…。ここまでやれて、やって、初めて”チョン!”(拍子木)。


補足の補足:

ことにおいての、その核心としての課題は〜…実は、”愛”なんだ。これの御託でなくしての、真実の実行。それはね〜、相手を選ばずしての行為に、‥なるはずなんだ。選ぶことが、そもそもから不可能、出来ないように、なってる!。なんらかの苦しみが、不快感が、不自由さがそこにおこってるってことが、サインなんだろう。

ひとつの真実、事実として、各人は、各様としてのその拘りをもっている。片や、そうであってくれなきゃ、嫌なことってのがある。そしてもう一方においては、そうであってくれるなら、安心する、快く思う、ありがたいなって思う。いやいや、その場合には、もごとはただスムースに、なんの引っかかりもなく、動いている、流れてゆくだけになる。

その各人各様としての、そのスタイルに、こちらが都度!合わせてあげる。すると、問題は、なにも起こらなくなる。文句を聞くこと、聞かせれることは、なくなるわけさ…。ある種の八方美人としての人間としてある。これは実は大変難しいこと。各人各様としてのその快くしての形を理解してあらねばならないから。そしてまた、適宜、ふさわしくしてのマナーにおいて、ことを果たしてあらなければならないから。人間通としての存在でなければ、それは、そのことはできない。

このこと、この行為においては、一つの問題が、どうしても、はらんできてしまう。避けがたくして起こってくる。それは、そんなこと絶えずしていたら、こっちの身が保たないではないか!と…。誰も彼もが我儘で、それをすべて自分として許容していたら、こっちの身が保たないではないか!っと。こっちに残るのは苦しい思いばかり哉っと……。

他人との関係において、問題となってくるのは、いつも、形においていての、標準としてのものの、その考え方における違い、その齟齬なんだ。その各人各様としての習慣の、癖の違いだってことでもいい。問題の原因たるものは、その、それらの癖の違いだってことになる。

自分としてのその習慣、その当たり前、その癖を、相手に求める、当て嵌めることが、問題の起因。そこにはどうしても抵抗や確執、反発、抵抗、不快感の表出ってやつが起こってくる。ことはもう正しい正しくないの問題ではなくなってくる。これは間違いなく!。

例えば、エルゴノミクス的な考えにおいては、吸い物は、左方に置かれることを自分は好む。だか、懐石としての流儀ともなれば、それは右方に置かれて然るべきなのだとしよう。彼女は教えられてある由緒ある仕来りに則って、右方に置くことに固執する。これが正式なのだからだとして…。

もう一度、それは愛を目的としての、自身としての不自由、不快感、抵抗を乗り越えることにある。あなたがそれを快いと思うのであれば、自分としての拘りは、これが抵抗においての、自分としての引っ掛かりの原因になっているのだが、キッパリと、あっさり捨てましょうと…。これが課題。

あなたが、優美さ、軽やかにしてたおやかなるムードとしての衣装を好むのであれば、私は、そういったものは、

、あなたの前においてだけは、そういったものをまとうよう努力致しまようだ。自分としての、そのことにまつろう不快感を、我慢して、あなたにおいての快を、優先させて、ありましょうだ。これって、”

、できないことでしょう?。

心が狭い人ってのは、自分しかないからだ。心が頑な人ってのはその人としての拘りを絶対に離さないことでしかない。

対象は出会う人ぜんぶ、関係がしかるべく長く、持たれてある人たち、その全員になる。大した数にはならないように、プラクラティシステムにおいて調整されてある。あなたに選択権は実はないんだ。好悪としての思いは邪魔なだけ。そこに自然と準備されてある機会において、そう努力してあるだけでいい…。

人生において、幸せになる秘訣は、決して、自分のことを、自分自身が、考慮して、あらないこと。これはGからの、Gにおいての、そのアドバイスになる。


愛ってのは、愛ってものは、あくまでも一方方向においてのものにしかならない。
対象においてのその細々とした違いは、ある意味、すべて無効化されてしまってある。
そして当然に、リターンを、前提としてものではない。あらいえないんだ。

これは、とりあえずは、受け手にとってでは、大歓迎だ。否応は、ないはずなんだ…。ことは当たり前として見向きもされないこともあるにはある。むしろ、こちらの思いを、行為を、好意を、理解しないばかりか、我意の横暴、暴走をもって、仇でもって返してくる場合もある。
これは、非常に辛い経験になる。まず確実にこれはある。でも、それも、水に流してしまうんだ。ことに捕らわれないよう、引っかからないよう、努力してあるまで。

自分のことは気にかけないようにする。そんなもん、どうでもいいとさへ思っておく。出来る限りの、無理のない範囲において、その思いにおいてのアクションを、とってあるまで。もうそれだけで自分は満足、幸せなのだと感じてあれると良いのだが。この思いとしての泉が枯れること、尽きることはどうしたものかないのだ。気力、体力、精神力としてものはまた別にはなるのだが…。

Gによっての金言の一節「意識的な愛に、もし人が接したならば、その人は、どうしたものなのか同じくしての意識的な愛が、その相手に対して、芽生えてきてしまう、生まれてくることとなる、どうしても発生してくることになる」これの実証検証をしてみればいい。これはホント事実としての法則になってる。ならばだ、双方ともに、あくまでも自発的にして自然な行為、思いでしかないので、楽なんだ。聞く限りにおいておいては、なんのメリットもない、無理な、不自然な、行為にしか思えないかも知れないが、実際はそうではない。

肉体としての私、エゴ、人格としての人工的な、本来存在するわけがない私は、虚しくされて、無気力なるものに、おっそろしく虚ろなるものへとなっていっていってしまことになるのだが、それこそが目的なのだ。それを殺し切ることこそが、人生の目的なのだ。その為の手段としても、この自発的な自己放棄としての苦の甘受/受容は、役に立つ。そしてその結果は、実は莫大なのだ。そこに愛をもってしてのコミューンが突如、誕生することになるのだから。この地上にて、天国たるものが、出現してあることに、実は、なってしまって、いる……。

本稿はこれで終わり。













つづく



三の法則と並走させます。


あれでさ〜強調しまくったんで、これも、いまやらざる得なくなってしまったんだ。


読んでくれてもいいし、読まなくたっていいと思うよ。


なんたって、基礎の基礎の話しでしかないし、ひとの話しを聞いて学ぶ、理解することでもない。個人において、長きのときをおいてでもってでの、その熟考こそが大事なんだ。日々の出来事、行いにおいて、それらをモデルにして理解するにしかない。




以下はね〜単なるマテリアルとして。翻訳はあくまでも自動翻訳によるもの。
これらから自分なりに抜粋して、噛み砕いて、自説としてのその考察を交えて、
いろいろと訳の分からんことを駄弁るよ。

草々


But later, when they began existing in a manner more and more unbecoming for three-brained beings and entirely ceased actualizing in their presences their ‘being-Partkdolg-duty,’ foreseen by Great Nature, by means of which alone it is possible for three-brained beings to acquire in their presences the data for coating their said higher-parts—and when, in consequence of all this, the quality of their radiations failed to respond to the demands of the Most Great common-cosmic Trogoautoegocratic process—then Great Nature was compelled ... gradually to actualize the duration of their existence according to ... the principle upon which in general is actualized the duration of existence of one-brained and two-brained beings who have not the same possibilities as the three-brained beings, and who are therefore unable to actualize in their presences, the said—foreseen by Nature—‘Partkdolg duty.’5



“My dear and kind Grandfather, be so kind as to explain to me,
if only in a general way, why those beings there are such that
they take the ‘ephemeral’ for the Real.”

「親愛なる優しいおじいちゃん、親切に説明してくださいました。
たとえ一般的な意味であっても、なぜそこにいるそれらの存在がそのようなものなのか、
彼らは「はかないもの」を現実のものとみなします。

“It was only during later periods that the three-brained beings of the planet Earth began to have this particularity in their psyche, and just this particularity arose in them only because their predominant part, which was formed in them as in all three-brained beings, gradually allowed other parts of their total presences to perceive every new impression without what is called ‘being-Partkdolg-duty’ but just merely as, in general, such impressions are perceived by the separate independent localizations existing under the name of being-centers present in the three-brained beings, or, as I should say in their language, they believe everything anybody says, and not solely that which they themselves have been able to recognize by their own sane deliberation.

「惑星地球の三脳生物が精神にこの特殊性を持ち始めたのは、後期になってからであり、まさにこの特殊性が彼らの中に生じたのは、すべての三脳生物と同様に彼らの中で形成された主要な部分が原因であったにすぎない」 存在たちは、徐々に、その全存在の他の部分が、いわゆる「存在-パルクドルグ-義務」なしで、単に一般にそのような印象が存在の名の下に存在する別個の独立した局在化によって知覚されるのと同じように、あらゆる新しい印象を知覚できるようになった。 あるいは、彼らの言語で言うべきかもしれないが、彼らは誰かが言うことすべてを信じており、彼ら自身が正気の熟考によって認識できたことだけを信じているわけではない。

“In general, any new understanding is crystallized in the presence of these strange beings only if Smith speaks of somebody or something in a certain way; and then if Brown says the same, the hearer is quite convinced it is just so and couldn’t possibly be otherwise. Thanks merely to this particularity of their psyche and to the fact that the said writer was much spoken about in the said manner, most of the beings there at the present time are quite convinced that he is indeed a very great psychologist and has an incomparable knowledge of the psyche of the beings of his planet.

「一般に、新しい理解は、スミスが誰かまたは何かについて特定の方法で話す場合にのみ、これらの奇妙な存在の存在下で結晶化されます。 そして、もしブラウンが同じことを言ったら、それを聞いた人は、まさにその通りであり、そうでないはずがないと確信するでしょう。 彼らの精神のこの特殊性と、前述の作家がそのように語られることが多かったという事実のおかげで、現時点でそこにいるほとんどの存在は、彼が確かに非常に偉大な心理学者であり、比類のない知識を持っていると完全に確信しています。 彼の惑星の存在の精神の。

“But, as a matter of fact, when I was on that planet for the last time and, having heard of the said writer, once went myself especially to see him, on quite another matter, he was according to my understanding not only like all the other contemporary writers there, that is to say, extremely limited, and as our dear Mullah Nassr Eddin would say: ‘able to see no further than his nose,’ but as regards any knowledge of the real psyche of the beings of his planet in real conditions, he might safely even be called ‘totally illiterate.’

「しかし実のところ、私が最後にあの惑星にいて、その作家のことを聞いて、一度自分も特に彼に会いに行ったとき、まったく別の話だが、私の理解によれば、彼は単に次のような人だったというだけではなかった」 そこにいる他のすべての現代作家は、つまり、非常に限られたものであり、私たちの親愛なるムッラー、ナスル・エディンが言うように、「鼻しか見えない」が、彼の存在の本当の精神についての知識に関しては、 実際の状況では、彼は「完全に文盲」とさえ呼ばれても差し支えないかもしれない。

“I repeat that the story of this writer is a very characteristic example showing the extent to which, in the three-brained beings who have taken your fancy, particularly in the contemporary ones, the realization of ‘being-Partkdolg-duty’ is absent, and how their own subjective being-convictions formed by their own logical deliberations are never, as in general it is proper to three-brained beings, crystallized in them, but only those are crystallized which depend exclusively only upon what others say about the given question.

「繰り返しますが、この作家の物語は、あなたが興味を持っている三脳生物、特に現代の生物において、『存在=パルクドルグ=義務』の認識がどれほど欠けているかを示す非常に特徴的な例です。 そして、彼ら自身の論理的熟慮によって形成された彼ら自身の主観的な存在の信念が、一般に三脳存在に特有であるように決して彼らの中で結晶化されることはなく、与えられたものについて他人が言うことだけに依存するものだけが結晶化される方法 質問。

“It was only because they failed to realize ‘being-Partkdolg-duty,’ which realization alone enables a being to become aware of genuine reality, that they saw in the said writer some perfection or other which was not there at all.

「彼らが、存在者が真の現実に気づくことを可能にするのは、その実現だけで存在が真の現実に気づくことができる『存在であることの義務』を実現できなかったという理由だけで、彼らは、そこにはまったく存在しなかった何らかの完全性やその他のものを見ました。

“This strange trait of their general psyche, namely, of being satisfied with just what Smith or Brown says, without trying to know more, became rooted in them already long ago, and now they no longer strive at all to know anything cognizable by their own active deliberations alone.

「彼らの一般的な精神のこの奇妙な特徴、つまり、スミスやブラウンの言うことだけで満足し、それ以上知ろうともしないということは、すでにずっと前に彼らの中に根付いており、今では彼らは自分の言葉で認識できるものは何も知ろうとしません」 自分自身の積極的な検討だけです。

“Concerning all this it must be said that neither the organ Kundabuffer which their ancestors had is to blame, nor its consequences which, owing to a mistake on the part of certain Sacred Individuals, were crystallized in their ancestors and later began to pass by heredity from generation to generation.

「これらすべてに関して、彼らの先祖が持っていたクンダバッファー器官のせいでも、特定の神聖な個人の側の間違いにより彼らの先祖の中で結晶化し、後に世襲し始めたその結果のせいでもないと言わなければなりません。 世代から世代へ。

“But they themselves were personally to blame for it, and just on account of the abnormal conditions of external ordinary being-existence which they themselves have gradually established and which have gradually formed in their common presence just what has now become their inner ‘Evil-God,’ called ‘Self-Calming.

「しかし、彼ら自身が個人的にその責任を負っており、彼ら自身が徐々に確立し、彼らの共通の存在の中で徐々に形成してきた、今や彼らの内なる「悪」となっている外部の普通の存在の異常な状態のせいでした。 神様』と呼ばれる、≪《『自己鎮静》》』




"1. To exercise the Being-Partkdolg-Duty means that we not allow intellectual concepts to pass through our mind in a mechanical manner; in other words, we become cognizant of all the intellectual data that come to the mind. How do we become cognizant of that data? It is done by means of meditation. So, if we read a book, we should meditate on it, try to comprehend it.

「1. 存在パートクドルグ義務を行使するということは、知的概念が機械的に心を通過しないことを意味します。言い換えれば、私たちは頭に浮かぶすべての知的データを認識できるようになります。 したがって、本を読む場合は、それについて瞑想し、理解するように努めるべきです。

"2. We must become cognizant of all the activities of our Emotional Center. It is unfortunate to see how people move under the impulse of emotions, in a completely mechanical manner, without any control whatsoever. So, we must become self-cognizant of all emotions.

「2. 私たちは感情センターのすべての活動を認識しなければなりません。人々が感情の衝動に基づいて、まったく制御されずに完全に機械的にどのように動くかを見るのは残念なことです。したがって、私たちは次のことを自己認識する必要があります。 すべての感情。

"3. The habits and customs of the Motor Center. We must become self-cognizant of all our activities, of all our movements, of all our habits, and not do anything in a mechanical manner.

「3. 運動センターの習慣と習慣。私たちは自分のすべての活動、すべての動き、すべての習慣を自己認識しなければならず、機械的に何もしてはならない。

"4. We must become lords of our instincts and subdue them. We must comprehend them in-depth, integrally.

「4. 私たちは本能の支配者となり、本能を抑制しなければなりません。私たちは本能を徹底的に、統合的に理解する必要があります。

"5. We must transmute the sexual energy. We transmute our creative energies by means of certain alchemical procedures.

「5. 私たちは性的エネルギーを変換しなければなりません。私たちは特定の錬金術手順によって創造的なエネルギーを変換します。

"Obviously, our life unfolds harmoniously, when we fulfill in this manner the Cosmic Duty or Being-Partkdolg-Duty and we live in harmony with the Infinite, in agreement with the Great Law. Thus, we will be able to reach old age full of ecstasy; we will be able to attain mastery and perfection." - Samael Aun Weor, excerpts from Erroneous Functioning of the Five Centers

「明らかに、私たちがこの方法で宇宙の義務、つまり存在=パートクドルグの義務を果たし、大いなる法則に同意して無限と調和して生きるとき、私たちの人生は調和して展開します。こうして私たちは充実した老後を迎えることができるでしょう」 エクスタシーの中で、私たちは熟練と完璧を達成することができるでしょう。」 - サマエル・アウン・ウェオール、「5 つのセンターの誤った機能」からの抜粋

この彷徨えるアアア〜ンおうおうさんはメキシコ人だったはず。グルジェフのエピゴーネン。
あまりその活動は日本では広がらなかったな…。



3つの中心のそれぞれが同時に「努力する」ために努力し、そうすることができないことに耐えることを受け入れる。

: to make some small aim our ‘God’ as a way to relate—however tenuously to start with—to the huge life-changing, impossible-seeming possibilities he is telling us should be the true birthright, the property of a man “without quotation marks.” A small aim, one small thing done well, is proportionate to our realistic possibility: he once said that he could talk to someone who could make a good cup of coffee. So practical, possible, accessible, “try-able.”

それは、人生を変えるような不可能な巨大な出来事に、たとえ最初は弱くても、関係する方法として、何らかの小さな目標を私たちの「神」にすることです。 -彼が私たちに語っている可能性は、真の生得権であり、「引用符なしで」人間の所有物であるはずだと語っているように見えます。 小さな目標、小さなことをうまくやり遂げることは、私たちの現実的な可能性に比例します。彼はかつて、おいしいコーヒーを入れてくれる人と話ができると言いました。 とても実用的で、可能で、アクセスしやすく、「試せる」のです。

It came to me while studying some of his exercises in the Third Series that we are not to fixate on them or any other exercises per se for that matter. Their application is not in order to have a form, a stricture, a framework, but the other way round: they should come from the formlessness which lies behind them, that is, from that “next attention” which we can join only through that “being effort,” “the one thing” we can do, are obliged to do: that “self-remembering” which is “being-Partkdolg-duty.”

第 3 シリーズで彼の演習のいくつかを研究しているときに、私たちはそれらの演習やその他の演習自体に固執するべきではないことに気づきました。 それらの適用は、形式、構造、枠組みを持つためではなく、その逆です。それらは、その背後にある形のないもの、つまり、それを通してのみ私たちが参加できる「次の注意」から来るべきです。 「努力すること」、私たちができる「たった一つのこと」は、義務づけられています。それは、「存在・パルクドルグ・義務」である「自己想起」です。




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