43.  Blessed are the poor in spirit

文字数 10,772文字

いろんな訳が御座りますれば‥・

霊に貧しい人々は幸いだ,天の国は彼らのものであるから。
祝福あれ、胸の中が無垢な人たちに、それ、天国はその人たちのものだから!
スピリトの貧者は天の国を持つによってベアトなり。
ヒンナココロノヒトビトハ テンノクニヲモトメラレルナリ

マズシキモノハサイワイアリ、カミクニイマシナンジラガアルトコロヲモツテナリ
心のうちまずしき物(ママ)は福(さいはひ)なりそれ その人の国は天国なり
それこころにまずしきものハさいわいじゃけだしてんのこせいじそのひとのものなり

こころのうちにへりくだるものハさいはひなるものなり
いかにとなれバその人の国は天国なれバなり

心ノ中(うち)虚下者(へりくだるもの〉ハ幸福(さいはひ)アリ
如何トナレバ天国ハ彼レノ有スル処ナルヲ以テナリ

幸福ハ貧人ガ精心(たましひ)ヲ人ルニ在リ,
何トナレバ彼(かしこ)二天国アルヲ以テナリ

こころへりくだるものハさいはひなり,これてんのミくにかれらのものなればなり。

心裡謙遜ナル者ハ幸福ナリ何トナレバ其人ノ国ハ即チ天国ナレバ也

貧心(ひんしん)なる者ハ福者也。蓋天堂ハ彼等の者(ママ也)

心の貧しき者は福(さいはひ)なり
天国は其人(そのひ と)の有(もの)なれば也(な り)。

心ノ中ノ貧シキ者ハ真福(しんぷく)ナルモノゾカシ如何ニトナレバ
其人(そのひと)ハ天上ノ国ヲ得タレバナリ

こころへりくだるものはさいはひなり。てんのみくにはかれらのものなればなり。
心の貧しき者は福(さいはひ)なる哉(かな),天国は彼等の有(もの)なれば也。
神(しん)ノ貧シキ者ハ福(さいはひ)ナリ,天国ハ彼等ノ有(もの)ナレバナリ。

こころ謙遜(へり くだ)る者は幸福(さいはひ)なり
天の御国(みくに)は彼等の有 (もの〉なればなり

福 (さいはひ)なり心の貧しき者は。それ天国は彼等のものなればなり。
福 (さいはひ)なる から心の貧しき人,天国は彼 等の有(もの)なればなり。
幸福 (さいはひ)なるかな,心の貧しき者。天 国はその人のものなり。
福なる者は霊に於いて貧しき者 [なり]。そは天国は彼 等のものなればなり。

じまんする心のないものはしあはせです,其 人は神 様のお国のものになれます。
霊の貧 しい人々は幸(さいわい)である,天 国は その人のものである。
福 (さいは ひ)なる かな心の貧しき人,天 国は彼等の有(もの)なればなり。
幸いなのは霊的の貧しさを覚える人たち,天の王国はその人たちのもの である。
こころの貧しい人たちは,さいわいである。天国は彼らのものである。

霊において貧しい者 〈自分をつまらない者と評価 する謙そんな 人〉は祝福されている
〈幸 福である,うらやま しい状 態にある,霊的に栄 えている
[すなわち,外側の状 態にはかかわりなく神の愛顧と救いに生命の喜びと満足を得ている]〉。なぜな ら,天の国は その人たちのものだ か らである。

神に寄りすがる“貧しい人”は幸 (さいわい)だ,天の国はその人たちのものとなるからだ。

自分の貧しさを知る人は幸いである,天の国は かれらのものだからである。

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだ からです。

「心の貧しき者 」は「幸い」かさいわいなのは霊に貧しい人々,天国は彼らのものだから。
魂の貧 しい者こそ幸いだ,天国はその人のものになる。
自分の貧し さを知る謙遜な人は幸福です。天国はそういう人に与えられるからです。

自分の霊的な必要を自覚している人たちは幸いです。
天の王国はその人たちのものだからです。

ただ神に より頼む人々は,幸 (さいわ)いだ。天の国はその人たちのものだから。
ああ、なんと幸いなことでしょうか、むさぼらない人たち。
神様が,その人たちの心を支配 してくださっています。

心の貧しい人たちはさいわいである,なんとなれは天の支配は彼らのものだからである。
幸いなのは,心の貧しい人々,天国は,その人びとのものです。

神によろこばれるほんとうに幸福な人は、だれだと思うか。
ほんとうに幸福な人,それは自我を捨てた人たちである。
天国は彼らのためにあるのだ。

霊において貧しい者たちに救いがある。なぜなら天国は彼らのものだから。

幸いだ,乞 食 (こじき)の心を持つ者たち,天の王国は,その彼らのものであ る

幸福だ,霊において貧しい人たちは,なぜなら,天の国は彼らのものだから。』



*同じ解釈をされているものが一つだけありますね。


さて回答編となるべきものをご用意いたしました。
考えるまでもないのです。
以下の内容を読めばあの一文の意味は自ずと分かります…。

*初稿扱いでお願いしたしやす。崇

The Imitation of Christ
Chapter 18, Of the Examples of the Holy Fathers

聖なる教父たちの、その生き様を模範として…

Look into the lively examples of the holy fathers, in whom true perfection and religion shone,
and you will see that what we do is very little---indeed , it is almost nothing. Alas! what is our life if compared with theirs? Saints and friends of Christ, the served the Load in hunger and thirst, in cold and nakedness, in toil and weariness, in vigils and fasts, in prayers and many grave troubles they suffered, the apostles, martyrs, confessors, virgins, and all the others who resolved to follow Christ! They did not care about their lives in this world, as long as they might possess them in eternal life.

真の完徳に至りて、またその信仰そのものが輝きに満ち満ちていた、我らに先行する、
あれら教父たちの生きざまを、(今)我々は(改めて)手本とせねばならない。
そうしたなら、あなたは、私たちの神への帰依において為すことのすべてが、
あまりにも少なく、また僅かでしかないことを知るであろう―
実際、それは、ほとんど何もしていないにも等しい状態なのだ…。

嗚呼、なんと悲しむべきことであろうか!。我々信仰者の日々における信仰生活のあり方と、
彼らのものとを比べたならば。あれら初期に生きた聖人たち…そしてキリストを友として
生きたものたちのものと比べたならば!。

彼らが、主に仕え奉るべく、まさに今こそがその実際の試練の到来であるとの思いもて、
耐えに耐え抜いた苦難の数々を思い起こすがよい!。

飢えと渇き、寒中にて裸身であったこと、骨を折る労苦/就労の数々、そが故の疲労の蓄積、
その堆積/困憊、寝ずの番と断食、祈りを日々数え切れないほどに捧げる中に生きていた。
また、まさに死へと至らんばかりの多くの苦しみ、障害/困難/迫害/虐め/侮辱たるものの
到来に際しては、彼らは、むしろ喜んで、敢えて、その身をもってして、それらを快くも
受入れていたのだ。

*これは、かの時代の信徒だけに限った話なんかではなーいー。w。
*信徒となったならば、これらのこと(試練)は生活の中に自然と備えられる。
*小さなスケールで、各自に合った形で、イエスのたどった道を歩かされる。

使徒たちの内にあって、真に(われらがその存在を)認めるべきなのは、
殉教者たち、勇気ある懺悔告白者たち、処女であることを固く守り通したものたち、
そして他のすべての、キリストに従うことを決意していた人々のことであろう! 。

彼らは、この世での、彼らの人生の満ちたりなど、一顧だにもしていなかった…。
彼らが思いを馳せたのたのは、あくまでも永生において彼らが所有するに限った
ものだけだった。

*荻原訳では…
 「彼らは、永遠の生命を得るために、

のである。」
 ちと激しすぎるような…。
 要は普遍的なるもの、ときを超越して価値あるもんのことしか頭にはなかった?。

*ヨハネ福音書の12-25が下敷きになっているそうだ。
 The man who loves his life will lose it,
 while the man who hates his life in this world will keep it for eternal life.
 ここの口語訳は、「自分の命を愛する者はそれを失い、
 この世で(の)自分の命を(生存を)憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう」
 となっている。

*前半は分かりやすいのでノーコメント。後半は、一体何を憎むのかだ!?。()内に入れた
 言葉がヒント。器としてのこの入れ物は、ろくなことしか考えないし求めないし、やがてに
 は老化でメタ糞のポンコツに成り果ててしまう…。つまりは現世での生存こそを憎むの意味
 でしょう。肉体という軛に繋がれている状態こそを憎む。
 
Oh, how strict and renounced a life the holy fathers led in the desert;
what long and heavy temptations they endured;
how often they were harassed by the enemy;
how many passionate prayers the offered to God;
what rigorous abstinence the y practiced;
what great zeal and and fervor they had for spiritual growth;
what courageous struggles they waged to overcome their weakness;
what pure and upright efforts the continually made toward God!

教父たちが、砂漠での信仰生活において、導入されたる、その生活とは、
嗚呼、なんと厳しくも、この世を捨て去る覚悟、その自分を捨てての犠牲
によって果たされた内容であったことか!。

彼らが耐え忍んだであろう試練とは、それに伴ってあった誘惑との交戦は、
なんと長期で、また深刻なものであったことか!。

敵するものから受けた嫌がらせ/苛めは、其がために味わえし悩みは、
数多、数限りなく、そして絶えることなど終ぞなかったのだ。

神へと、彼らが捧げた、その情熱的な祈りの数々とは、
いったいどれほどのものだったことだろうか!?。

彼らが、いかに厳格に、禁欲生活たるもの(断食?)を実践していたことか!。

霊的な成長がなされますようにと、彼らは、なんと多くの熱意と情熱を
そのこころに奮い起こして生きておられたことか!。

彼らが、己が弱さ(邪欲/邪心)を克服せんが為に、
なんたる勇気、尽きざる奮闘努力、
それらを振り絞って、戦い続けていたことか!。

神へと、こころを真っ直ぐに向けて、絶えずなされてあったその努力その祈りとは、
なんと純粋で清く尊く、力強いものであったことか!。

They labored throughout the day and at night they were free for long hours of prayer,
although during work they did not cease at all from mental prayer. They spent all their time profitably. Every hour free to attend to God seemed short, and in the great sweetness of contemplation they sometimes completely forgot to take care of their physical needs!
They gave up all riches , dignities, honors, friends and relatives; they had to, pained them,
So, they were poor in earthly things but very rich in grace and virtue. Outwardly they were in want, but inwardly they were refreshed with God's grace and comfort.

彼らは日中は労苦たる労働に勤めていたのだ。そして夜には祈りに長時間をあてるべく
自由だった。とはいえ、仕事の最中においてでさえも、そのこころの内では、祈りをまったく
やめてなどいなかった。彼らは、彼らにとってのすべての時間を有益に過ごしていた。
そうあってでさえも、神へとこころを向ける時間は、毎度短いもののように思えてしょうが
なかった。

*(ここは読むと身につまされるワ。
  やっぱ最後尾でぴょんぴょん飛び跳ねている自分しか思い浮かばない。)

そして、聖にして偉大なる恵みとしての、甘露の如き黙想/瞑想に入りたれば、
しばしの間、彼ら自身の体の必要性、その世話をすることさえも、
もう完全に、彼らは忘れ去ってしまっていたのだ!。

*(別次元なのだ。まったくの自由と感じられる。体からは隔たった無垢の実在感。)

彼らは、すべての富、尊厳、名誉、(尊敬)、友人、(家族)、親戚をあきらめていた。
捨て去ったのだ。彼らは、そうせねばならなかった。(そうするしかなかった。)
彼らを苦しめるものでしかならなかったのだから。

そうであったがゆえに、彼らは、世が認めるところの価値たるもの、それらすべてにおいて、
ひどく乏しかった。だが、(神よりの)恩寵と、徳たるものには大変に富んでいた。

外見上は、彼らは欠乏の最たるものと成り果ていたが、
内面においては、神よりの恩寵と慰めによって適宜リフレッシュされていた。

*(然るべきタイミングにおいて、つまりは最悪もここに極まれりといった状況において、
  新生とでも言う他にない新規の状態に暫時換えられていってたのです。)←意訳強。

The world saw them as strangers, but God saw them as close and intimate friends.
To themselves they seemed insignificant. The world often despised them,
but in God's eyes the were precious and beloved.

They were grounded int true humility;
they lived in simple obedience;
they walked in love and patience;
and so they grew daily in spirit, and they won great grace with God.
They are often given as exampled for all of us,
and they ought to challenge us more to progress well
than a legion of apathetic people tempt us to relax.

社会/世間は、彼らのことを、見知らぬ人/外れもん/はみだしもの/不適合者/(宇宙人)と
見なしていた。だが、神ご自身は、彼らを友好に、親密なる友人として見てくださっていた
のだ。彼ら自身は、(最早)自分はまったく取るに足らない、無にも等しき存在だと覚えら
れてはいたのだが…。

世間は、ことごとく彼らを軽蔑していたが、
神の目には彼らは貴重なものと写り、愛しきものとされていた。
彼らの生存は、もう真の謙虚さたるものに基づいてのものだったのだから…。

彼らは、単純に忍従するだけをもって暮らしていた。
彼らは、愛と忍耐の内に歩んでいた。

*エペソ5:2を踏まえての箇所らしい…「キリストの汝らを愛し、我らのために己を
 

香の献物とし犧牲として、神に献げ給ひし如く、愛の中をあゆめ…」
 この「コウバしき」が自己内部でのイエス/ノーの葛藤であることはOKだよね?。

そのおかげでか、彼らは日々に霊的には成長していくこととなったのだ。
彼らは、神からの、大いなる恩寵を勝ち取ることが適っていた…。

彼らの生き様、そして彼らの残してくれた、あれら記録の言葉の数々が、
私たち全員にとって、真に模範とすべきものとして、絶えず思い起こされて
然りのものなのだ。我々が、更に、よりよく進歩ができるようにとの、
ある種の挑戦…、その意趣/意義/意向として意識されるべきものなのだ…。

あれら、冷えたるがままに暮らして生きる社会世間の人々、
あれらレギオン(軍団)たるものたちが、我らの気概たるを骨抜きにせんとして、
私たちに見せて、声かけるところの、あれらの誘惑などには一切目も向けずに!。

*ようつべで「Subscribe Please!」 を目的に趣向の凝らされたるもの数多を念頭に上げたし。
 
Oh, how great was the fervor of all religious men and women in the early days of their holy orders! Oh, how great was their devotion in prayers, and how great was their rivalry in virtue! What great discipline they had, and what reverence and obedience blossomed in them all under the rule of a Superior! The traces left even now speak to the fact that they were truly holy and perfect people, who, fighting vigorously, rose above all the temptations of this world.


嗚呼、初期の、三位よりの加護のもと、信仰に生きたる、すべての男たちそして女たちの、
その熱意/情熱/誠実なる様は、どれほどまでに素晴らしかったことか!。

あゝ、彼らの祈り、その信仰への献身は、どれほどまでに素晴らしいものであったことか!。
そして、徳において彼らが競い合ったその有り様はどれほどまでに素晴らしく微笑ましい
光景であったことか!。何たる素晴らしき自練、”練り”を、日常において行っていたことか!。そして上位の、目上の権威に接しては、彼ら全員に対して畏怖/畏敬の念たるものがしっかり自然と持たれていたのだ。そしてまた彼らに対しての従順なる態度かな!。それのみが果しうる徳たるものが、ものの見事に花開いて彼らには備わっていた!。←(自分を他者に明け渡すことはなかなか簡単にはできない。あるレベルの存在が獲得されてが前提になる。)

今なお残されてある、彼らの人生の様に関しての痕跡は/記録は、彼らが誠に真実、
聖にしてなる人々、完徳に至り着きし人間たちであったことの事実を証明している。

彼らは、たくましく、そして激しくも雄々しく戦ったのだ!。
真実、この世のすべての誘惑を超越して生きたという現実を、
あれらの記録は、証明を携えて、物語ってくれている…。

☆ここは嫌々ながら介入いれとく:

 *ある種の情感は獲得されるべきものなんだ。つまりは、通常の状態ではその味わいを
  我々はまったく知らない。その最たるものが畏怖とか畏敬の念。英単語では”awesome”に
  関わる印象。これは

になる…。
 *だれかをリアルに、素直に、道徳的に、良いと思えたならば、まずはなぜか嬉しい。
  安心する。そんで喜ぶ。次いで、自分もそうありたいと思う。いや彼を知った上ならば、
  自分はより善きものにならねば申し訳ないではないか…。
  こんな感じ。たんなる虚栄心プライドによるライバル意識なんかではな~いっ。
 *重々、意識/理解しといてもらいたいことは、ここに描かれていることは事実としての
  話しなのだ。空想や、創作、レトリック、イメージとしてのものではまったくない。
  やはり実践あるのみなのだ…。そのことの結果としてなにやら”奇妙なる事態”が到来する
  ことも真実あるのだなーと思ってくだされば十分かな…。
 *いまなおもってしても、このことは真実おこり得る。証人として証ししておきます。
 *超越はもう見たとしてもわたしには関係ない。勝手にしておくれやすの態度かな?。

In these days a person is thought to be great who stays out of trouble
and who patiently accepts what he has undertaken!
Ah, the indifference and negligence of the way things are today!
Nowadays we quickly fall away from our first intense spiritual feelings,
and out of weariness and indifference we so grow tired of living!
Oh, that the desire to grow in virtue may not sleep in you
when you have often seen so many examples of such great devotion!

今日においては、トラブルに巻き込まれたり引き起こしたりしなければ、
また、与えられた仕事であれば、なんの好き嫌いをも言わずに、
何でも引き受けいれる人が、偉大なる人格者なのだとして考えられている!。

*他訳では:(今は、規則会則を破らず、自分で堪えれそうなことを忍べば、それだけで
 立派だ、偉大だと、そのヒトはおもわれるのである。)←とっ言うことはだ普通は一般的
 には堪えられようはずのないことに堪えてこそと言うことになる。これを敢えてせいと、
 これに挑めよというのは無理があるな。これも自然とそうなるまで…。よって神に感謝。

嗚呼、今日の生存においては、生きているその状況/その環境たるものに関しての感性は、
なんと鈍いものとなってしまっていることか!。そして注意の足らぬことばかりなのか!。
(荻原訳:なんとなまぬるく、怠惰な者だろう)

今日、我々は、最初には持たれていた、あの強烈な霊性に感応しての気概から、
なんと簡単に、すぐに離れ去ってしまうことか!。(:はじめの熱心を失ったことだろう)

すぐに飽きてしまうが故にだ…。

そして、じきに距離をおきはじめ、やがてには甚だしくの無関心となる。

生きること自体に、もう飽き飽きしだしている(さま)ではないか!

嗚呼ー!かって実現されたる、あれら、偉大なる献身の有り(よう)を、あれら多くの模範を、
絶えず思い起こすならば、徳において成長したいという願望が、あなたがたの内において、
眠ってしまうことなど、まず、絶対に、ありえない話しではないかーーー! 喝。」



〈了〉



*基本、世界の中に包まれて我々は生存している。その世界たるものはよくできたもので、
 個々人の有り様に沿って、フィードバックを果してくれている。
*生きることに飽き飽きするのは、このフィードバックの質が落ちてきたことを表わして
 いる。もしかしたら途絶えてしまっているのかもしれない…。
*本源からさまよいでてしまい、もう遠く遠くに、いつのまにか来てしまっている…、
 その事態そのものが、それを証ししているのやもしれません…。
*前にも言ったけど、この本って、神父さん養成講座の教本だったのね。
 だからめちゃくちゃ厳しいの!。w。初心者向けではまったくな〜いー!。


かく熱きにもあらず、冷ややかにもあらず、ただ微温(ぬるき)が故に、
 我なんじを我が口より吐き出さん』(ヨハネ黙示録 第三章一六節)



つけたり:

Poor in spirit は実は反語で、spirit の中にはもう神との関係においての内容しかもうなにも
ありはしないの状態のことを指しているんかもね。日常は未だあるんですよ。でもね、
もうそれは通常のヒトにおける思いやら願いやらとからなる内容からはかけ離れたものに
なってしまっている。無形の、神たる方が、何を、どのようにお望みになっているか、
これを察して、これのみに準じて、即応するのみに生きるの状態のことなんかもねー?。
そこには聖霊の関与が当然ある…。

三位の庇護の腕の内にあれば、このことは自然と叶います。
然るべくのプロセスを経ての、その後のことにはなりますが…。

今回の内容は、自分においても、改めて、戒めとしての強烈な衝撃がありましたー!。
最近は、軽やかにしておふざけの内容に流れやすくなっておりますれば。
だからなのー、これとかあれとか、急にやりだしたのわーーー。W。






これがその記録のことなのかは分かりません。
今日、中古のを注文したばかりなので。
内容がよければ、どっかで掲載をしたしましょう。
こっそりね…。

一個だけ:

「闘士たちは進歩するほどに、より強い敵に立ち向かうことになります。」

 教母シュンクレティケの語りより。






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