35.  ヨブ記より。

文字数 1,182文字

「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。
 主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。(口語訳)


「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。
 主の御名はほめたたえられよ。」(共同訳)


『わたしは裸で、わが母の胎を出てきたのだ。

 ならば、また裸にて何処へとやがては帰ろう。

 主は与え、主は奪うるものなり。

 (主はただ欲されるままに給うるまで。)

 然るにて御名はただ讚むべきかな。』(意訳:byMe)


試みとしてあった試練(災禍)に遭っても、
ヨブは唇もて罪を犯さず神にむかいて愚かなることを言はなかった。


+++++++++++++++++++++++++++++++++++


悪口とか不満を漏らすとか、糾弾や呪詛の言葉を神に返すとか一切しなかったとなッ!?。

これ中々できない!。

さてっと、翻訳がらみで愚痴を言いたかったのだけど、内容に踏み込もう。


ヨブ記の出だしの部分からなのだが、充分に要点と結論が含まれている。

ヒトは無所有でこの世に生まれ出る。(母の胎の助けを借りて)。

そして、ゆくゆくは独りでこの世を去ることになる。

その時には何も持って行けない。


生存の期間に起こる出来事は自力と思えてそうではない。

絶対者の関与を認めざるを得ない。

その関わり方、その意義、その目的を人に理解することは不可能。


そうなんだけれど、全力をあげての直感理解においては、やはり正しいとしか思えない。

その絶対的な存在を朧げながらも認識するならば、

『ただ讚むべきかな』とならざるを得ない。


もう、何も、更なる言葉を継ぐ余地はあり得ない。畏れ多いから。

ヨブのケースのポイントは、人生の悲惨なるの実体験を経ることなくしては

たどり着けない「感慨」とでも言うべき理解を、与えることに目的はあったのだと思う。

もう、ヨブは、ただの善人なだけではない。

存在が深まった。

そして、最後には立場は回復され、以前よりも豊かとされるようになる。

メデタシメデタシの締め括りとなっている。

しかし、これも自力ではないんだよと…。


最初の二つの訳は、気が抜けたもののように感じませんか?。





追記:22.5.11


簡単に言えば、神を崇拝する

彼の庇護に恵まれて幸福になれる。

こういった脳内前提を、物語を、徹底的に完全に破壊/喪失しなければならない。

ある時節においてからは!。

なにがどうなろうが、どうされようが、

それは自分にはまったく預かり知らないこと。天の采配でしかない…。

されど、それらはみな、正しいことと、虚心坦懐をもって認めなければなならない。

ただ、ただ、『イエス、イエス、イエス』として受入れて在れよだ。

もしくは、

いかに自分にとって都合良きものであったとしても、『ノー、ノー、ノー』だとして。

ヒトの狭量なる了見など、どこにも挟みうる余地などないのだから…。


最終的な結果は死んでからの話しー。






ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み