2章-3

文字数 1,693文字

「そうだ、お兄さん。特性コーヒーにしない? 二日酔いに飛びっ切り効くよ。その名も『ビター&スイート』」

「ビター&スイート? 苦くて甘いって……。なに、それ?」

「また、質問。お兄さん、それ、悪い癖」

 ヨーコが隆を軽く睨む。その瞳を見詰めた瞬間、隆はコーヒーの値段も訊かずに「じゃあ、ビター&スイートで」と答えていた。

「かしこまり!」

 ヨーコはにこやかに微笑むと、そのまま厨房へと消えていった。

 程なくして、ごりごりとミルで豆を挽いているような音が聞こえ、コーヒーの香りがカウンターにまで届いてきた。ほろ苦さと甘みが混和一体となっているかのような芳香に、隆の唾液が分泌を促される。隆は、香りだけでも二日酔いが吹き飛びそうな気がした。

◆◇◆◇◆◇◆◇

「お待ちどう。ペニーレイン、オリジナルの特性ブレンド、ビター&スイートよ。昨日、いい材料が手に入ったから、それを使って()れたんだ」

 ヨーコは、隆の目の前にビター&スイートを置いた。隆は、それを見ながら心の中で呟いた。

(うーん。なんだろう、この不思議な感覚は。高揚感というか、頂上まで上り切ったジェットコースターに乗っている気分というか……。コーヒー見詰めてこんな気分になるか、普通? でも、これはありきたりの代物じゃないな。店内を包み込む香りがそれを証明している。なんとも見事な褐色だ。これに不純物を入れるなんて、このコーヒーに対する冒涜だな)

 隆は、ビター&スイートを鼻と目で心ゆくまで楽しむと、砂糖もミルクも入れずにカップを口に運んだ。

 舌の上に苦味が広がる。奥歯のさらに奥、耳の下が軽く痺れる。子どもの頃、懸命に風船を膨らませようとするたびに感じた痺れを思い出し、懐かしい感覚に捕らわれる。なにか切ないような、ノスタルジックな風味であった。同時に、その痺れている部分でかすかな甘みを感じたが、さすがにそれは気のせいだろうと、隆は甘みに関してはやり過ごした。

 いずれにせよ、初めて体験する味だった。内臓の中心にあった硬度のある塊が心地よく溶けていき、イルカと対話をするとこんな気分になるのかもしれないと、ふと思った。隆の精神はたちどころに安寧の度合いを深め、胃に落ちたコーヒーの熱が、じわーっと腹部から全身へと広がっていった。

(美味い。本当に美味い。それに、ヨーコちゃんの言うとおりだ。一杯どころか、一口で二日酔いなど醒めてしまった。それにしても、思わず身を委ねたくなるこの幸福感はなんだ……)

 隆は、顎を上げて目を閉じ、再びカップを持ち上げた。

◆◇◆◇◆◇◆◇

「どうだった? ビター&スイートは?」
 飲み終えた隆にヨーコが笑顔を向ける。

「美味しかった。いや、お世辞抜き、こんなコーヒーは今まで飲んだことがない」
「でしょ?」

「秘訣は豆? それともブレンドの比率?」
「フフフ。ベースは普通のキリマンジャロよ。特に上質なものでもないわ。でもね、ビター&スイートはもう一つ、特別な豆を挽いてブレンドしてるの」

「へえ。それは一体……」
「あ、あと、一番の秘訣は『これ』かしら」
 ヨーコは右腕で力こぶを作り、左の手のひらでそこを叩いてみせた。

(おや? 話を()らされたかな。ビター&スイートのあのうま味は企業秘密ということか)

 隆は、残念だがそれもしかたがない、という表情を作ると言葉を放った。

「なるほど。たいした腕だね、ヨーコちゃん」
「まあ、それほどでもあるけど。フフフ」

「ハハハ」
「ところで、お兄さん。昔の辛い思い出って覚えてる?」

「昔の辛い思い出? そりゃ覚えてるよ。ヨーコちゃんの倍近く生きてるんだよ。それなりに辛い思いはしてきたよ」
 隆は思わず苦笑した。

「じゃあ、お兄さん。なにか、辛い思い出、話してよ。あ、直近のやつがいいな」

「直近の辛い思い出? それを話せって? やだよ、そんなの」

「そんなこと言わないで。お願い」

 ヨーコが、目の前で手を合わせる。長くて細い白い指が、しなやかに天を指した。
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