1章-8

文字数 1,462文字

 一時間後。雄太の玄関のチャイムが鳴った。雄太には、チャイムを押した人物が容易に想像がついた。扉を開けると、予想どおり蒼白の顔で美帆が立っていた。雄太はすぐに彼女を招き入れた。

 なにが起きたのかは()かなくてもわかっている。なぜ、ここにきたのかを問う必要もない。美帆は人を(あや)めたのだ。となれば、真っ先に会いたいのは誰か。恋人に決まっている。案の定、美帆は恋人のもとを訪れた。

 事情はわかっているが、さすがに「コマンドメールでお前に田川を殺させた」とは言えない。まずは美帆を落ち着かせ、完全犯罪だから逮捕される心配はないことを理解させ、頃合を見計らって一仕事終えた美帆を優しく(ねぎら)えばいい。その後、とんとご無沙汰だった男女の営みでもすれば、再び美帆は自分のものだ。

 だが、美帆は震えの止まらない体を雄太にあずけようとはしなかった。両腕で肉体の存在を確かめるかのように自分の体をさすり続けていた。雄太の淹れたコーヒーにも一瞥もくれない。

(どうした美帆? 心細くて俺のところにきたんじゃないのか? 俺にすがりたいんだろう?)

 雄太が心の中で呟きながら、「コーヒー、飲まないのか?」と声を発したとき、ついに堤防が決壊したかのように美帆は悲鳴を上げた。

「ああ! わ、私。ああ!」

 その後も、美帆は判別不能な言葉を絶叫し続けたが、やがて声はしわがれ、また、エネルギーが底をついたのか、わめき声はすすり泣きへと変容していった。

「私、あなたに謝らなきゃ! たった今、と、取り返しのつかないことを……」

「謝る? お前がなにをしたのかわからないけど、謝る必要なんてないさ。それに、大丈夫。お前のことは俺が守る。お前は絶対に大丈夫だって」

 すると、美帆は怪訝な瞳で雄太の顔を見詰めた。

「私は絶対に大丈夫? ……。そう、そこがおかしいのよ。あれだけのことをしておきながら、なぜか私も自分は絶対に大丈夫だって思ってるの。この自信、一体どこからくるの?」

(コマンドメールがその自信を与えているんだよ、美帆。俺は、メールに「完全犯罪で」と書いたんだから)

 雄太は声にせずに呟いた。

「でも、なぜあんなことをしたのか、一時間以上たった今でもさっぱり自分の気持ちがわからない……。あれをしたのは本当に私? だったらなぜ?」

 雄太は、嗚咽する美帆の肩にここぞとばかりに手を伸ばした。それで拒否反応が見られなければ、そのまま美帆を抱いてしまおうという算段だ。

 だが、雄太の読みは外れた。美帆が、雄太の手を振り払ったのだ。

「雄太。ごめんなさい。私はあなたの大切なものを奪ってしまった。でも、信じて。あんなことしたの、私であって私でないの。意味がわからないと思うけど、少なくとも『私』という人格がしたことじゃない。私はなにも悪くないわ」

(なるほど。コマンドメールを使われた者はこんな気分になるのか。あれは自分じゃない。自分はなにも悪くない。なら、美帆はそう遠からず立ち直るだろう。そして、そのときは、再び俺を、雄太という男を愛している自分に気が付くはずだ)

「雄太、ごめん。私、行くわ」

「行く? 行くってどこに?」

「ちょっと行きたいとこ……。ううん、自分の家に帰るわ。お願い。今夜は一人にしておいて」

「あ、ああ。なにがあったのかさっぱりだけど、だいぶ疲れてるみたいだし、今夜はゆっくり休めよ」

 雄太は、不満気に下唇を突き出しながらも、そのまま美帆を見送った。
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