1章-1 ひとりぼっちのあいつ

文字数 1,430文字

 時刻は午後八時をまわっていた。だが、マンションに明かりは(とも)らない。部屋には、隣のビルが供給する光がカーテンの隙間から差し込んでいる。もっとも、その淡い照度さえもが、児玉雄太(こだまゆうた)には不快な異物であった。雄太は、完璧なる暗黒を欲していた。(おのれ)の苦悩を飲み込んでくれる暗闇を。

 薄明かりの静寂に軽い金属音が響き、小さな炎が生まれる。その赤が、雄太の顔面に張り付いた憂鬱をほのかに照らすと、ライターが姿を消して、先端から煙を上げるタバコが現れた。中途半端な暗闇の中で、タバコは呼吸をしているかのように赤みを変えながら、燃えカスを蓄積していく。やがて、灰皿が視認できなかった雄太の手によって電気がつけられた。

 煌々(こうこう)とした明かりの中、間一髪で灰が灰皿に落ちると、雄太は鞄から取り出した写真の入った封筒を見詰めた。写真は、知人の“探偵まがい”の仕事の成果であったが、雄太はそれを封筒から出すことを拒絶した。(いな)、確認の必要もなかった。写真に写っている人物は察しがついている。

「ちくしょう……。殺してやりたいな、こいつ……」

 封筒に視線を落としたまま、雄太が怒りの溶けたため息を発する。そして、スマートフォンと一緒に封筒を座卓に放った。

 タバコをもみ消す左手が自然と力む。そのとき、灰皿の横に無造作に置かれていた二冊の文庫本が視界に入った。雄太は、その本を自ら買い求めておきながら、途中で放棄し、放置していた。ページを()るたびに襲ってくる不快感は、雄太の我慢を超えていた。

◆◇◆◇◆◇◆◇

 半年前、恋人の部屋にいた雄太は、偶然に“それ”を見つけた。部屋の主である美帆(みほ)は、キッチンで料理に没頭している。テレビは、二流のタレントと三流の政治家が口角泡を飛ばす討論まがいのバラエティを垂れ流しており、雄太は見るともなしに画面に顔を向けていたが、その刹那、ベッドの下に隠すように置かれた二冊の本に目を奪われた。『愛楽園』の(上)と(下)だった。

 美帆とは三年の付き合いになるが、彼女が小説を買う場面にも読む場面にも出くわしたことはない。古びた文庫本。決して倹約家の部類には入らない美帆が、新本ではなくあえて古本を買い求めるはずはなく、それはすなわち、美帆が誰かから借りた本であることを容易に推測させた。

 他人に推薦するほどだ。元の持ち主にとってはよほどの愛読書だったのだろう。いや、きっと“彼”は、持て余すほどの不倫願望を抱いているに違いない。だから独身女性に貸したのだ。保管状態の悪い黄ばみの目立つ官能小説を女に手渡す。雄太はその光景を想像し、無自覚のうちに元の持ち主を男と断定していた。

(濡れ場の連続の不倫小説を貸し借りし合う男と女。ひょっとして、美帆とこの男は、文字どおりすでに“男と女”なのではないか……)

 雄太は、自ら組み立てた仮説に胸が悪くなった。

 よく見ると、(下)の途中にはしおりが挟まれている。美帆は(上)は読み終えたということか。次の瞬間、雄太の目はそのしおりに釘付けとなった。

――田川――

 真っ白なしおりの裏には、縦書きで無造作にそう書かれていた。「田川」こそがその本の所有者であることは理解した。それにしても、しおりにわざわざ名前を書く。なんとも子どもじみた行為だが、彼ならやりかねないと雄太は直感した。雄太と美帆の共通の友人、「田川」なら。
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