2章-6

文字数 2,377文字

 ヨーコは、男のテーブルにアメリカンと伝票を置くと、カウンターに戻り、男に聞かれないように声のトーンを最小にまで落として隆の耳元でささやいた。

「ちょっと邪魔が入っちゃったわね。じゃあ、続けるよ」

 しかし、再び話し始めた声は、むしろ先ほどまでよりも大きなものに思われた。少なくとも、テーブル席の男には筒抜けだろう。

「でもね、人間は辛い思い出を『忘れ去りたいと思う生き物』ってところにビジネスチャンスが転がってるの」

「ハハハ。なんか、高校生っぽくないことを言うね。ビジネスチャンス、だなんて。なに? カウンセラーかセラピストにでもなるつもり?」

「違うよ。『辛い思い出を捨てたい』。だったら、それを『買ってあげればいい』ってこと。で、実際に、このお店、ペニーレインでは、その辛い思い出を買い取ってるんだよ」

 隆は、わざと大袈裟にこけてみせると、甲高い笑い声を上げた。

「あ、ムカつくー。お兄さん、信じてない!」

「信じるって、誰がそんな話を」

「いい、お兄さん。ペニーレインでは捨て去りたい辛い思い出を買い取って、それを抽出して豆にしてるの。方法は簡単よ。私が作った『辛いメモリー抽出マシン』があるから」

「ハハハ。ちょっと勘弁してよ。それに、なに、そのダサいネーミングは。『辛いメモリー抽出マシン』って、日本語と英語がちゃんぽんじゃないか。ハハハ」

「うるさいわね。大切なのは名前じゃなくて機能でしょう」

 ヨーコがヨーコでなければ、誰もが席を立つところだが、隆は皮肉のつもりで興味深げな表情を作ると訊いた。

「じゃあ、名前は『抽出機』でいいや。で、抽出機はどう使うの?」

「その人の両耳にチューブを差し込むだけよ。そして、スイッチをオンに入れたらそれで抽出完了。抽出された辛い思い出は、チューブにつながった黒い箱の中に溜まる。あとは、それを豆にするだけ」

「思い出がコーヒー豆になっちゃうんだ。ハハハ」

 隆は真顔を作ろうとするが、どうにも笑いを抑えることができない。

「真剣、マジ、頭にきたわ。まだ、信じてないわね。お兄さん、さっき飲んだじゃない。辛い思い出を抽出してできた豆が、当店オリジナルの秘伝の豆よ。で、その豆で淹れたのがさっきのビター&スイートなの。あの味の秘訣というか正体は辛い思い出なの!」

 冗談もここまでくると、さすがにヨーコの美貌なる神通力も効力を失い始め、隆も苛立ちを覚え始めた。思わず、いい加減にしてよ、と叫びそうになったそのときであった。知らぬ間に隆の横にテーブル席の男が立っており、彼は幽霊でも見ているかのようなまなざしをヨーコに向けていた。

「き、きみ……、ヨーコちゃんだろう? コマンドメールの……」

 男が言う。隆は、寄せていた眉を元に戻すと、気持ち目を見開いて男の顔を見た。男は狼狽し、驚愕し、そして憔悴していた。

「まさか、こんなところで会えるとは……。俺だよ。きみからコマンドメールを受け取った児玉雄太だよ」

 だが、ヨーコはにべもない態度で言い放った。

「お客様。どなたかと人違いなさっているんじゃありませんか。私はヨーコではありません。ちなみに、双子の姉妹もいません」

(おいおい。「ヨーコではありません」って、きみはヨーコじゃないか。なんだ、このやり取りは……)

 隆は訝ったが、その間にも、男とヨーコは激論を戦わせていた。

「先日、ここで探偵まがいの仕事をしている友達から写真を受け取って……」
「それが私となんの関係が?」

「……。そうか。それはまだきみからコマンドメールを受け取る前だった。ともかく、きみはヨーコちゃんだろう?」
「いえ、人違いです」

「じゃあ、今、きみのスマホにメールしてみせようか?」
「おあいにくさま。今、スマホは持ってません」

「ふざけないでくれ! あのコマンドメールのせいで!」
「コマンドメール? なんですか、それ?」

(いつまで続くんだ、この会話……)

 意味不明のやり取りに隆の苛立ちが限界を超えそうになったとき、まるで彼の愚痴が聞こえたかのように、ヨーコが鋭い眼光で強烈な一撃を放った。

「いい加減にしないと警察を呼びますよ!」

 ヨーコは、店の電話の受話器を持ち上げている。本当に今にも110をダイヤルしそうな勢いだ。

「わかった。わかったから受話器を置いて」

 男は、慌ててヨーコの所作を制すると、コマンドメールなる漫然な話題はやめて、抽出機の話を始めた。

「お願いだ。俺の辛い思い出を買ってくれないか」

 男は、手を合わせてヨーコに懇願している。

(おいおい。こいつ、本当にあの話を信じてるのか?)

 隆は、その滑稽な姿に失笑を禁じえず、笑っているところを悟られないように顔を下に向けた。

「ごめんなさい。あなたの辛い思い出は買えないわ」

「どうして!?」

「理由なんかありません。買いたくないから。ただそれだけです」

 ついに、男はカウンターに額をつけて、もう一度消え入るような声を出した。

「買ってくれ。お願いだ。田川のことを忘れさせてくれ……」

 だが、ヨーコは再び受話器を取ると先ほどと同じセリフを口にした。警察を呼ぶというのだ。

「わ、わかったよ……」

 男は捨て台詞とコーヒー代を残すと、パンチを食らったボクサーのように、よろけながら店を後にした。

「なんだ、今の人?」

 隆は、男の背中がドアの外に消えたのを確認すると、苦笑交じりに言った。

「なんでもないわ。ただの『これ』でしょ」

 ヨーコは、「これ」と言うときに、右手の人差し指を頭の横で回転させた。そして、苦々しい表情で舌打ちをした。

「誰が買うもんですか! あんな人の記憶」
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