3章-1 眠れる森の美女

文字数 1,164文字

 女は悲鳴も出なかった。男が持つそのナイフを見てしまっては――。

◆◇◆◇◆◇◆◇

 四基ある常夜灯のうち一基しか照明が灯っていない。真っ暗闇ではないが、だからこそ肝が冷える暗さと明るさだ。それでも、女はその公園に足を踏み入れた。そこを突っ切れば、アパートまでの時間を五分は短縮できる。早く帰宅してソファーに横になりたい。その欲求が恐怖に勝り、彼女に近道を選ばせたのが悲劇の始まりであった。

 女は、不十分な明かりの中で公園に誰もいないことを確認すると、両脚のギアを一段上に入れた。早足ではなく一気に駆け抜けたい思いもあったが、走ってしまうとむしろパニックに襲われそうな不安があった。なによりも、怖じ気ながらヒールで走る行為がぶざまに思えた。誰も見ていないのに、こんなときにまで美しくありたいと願うのは女の(さが)であろうか。

 そして、悲劇の第二幕が切って落とされる。女が公園の中央付近にあるベンチの横を通り過ぎようとした瞬間、黒い物体が湯をかけられた猫のような俊敏さでベンチの裏から飛び出し、彼女の前に立ちはだかった。

 薄明かりの中でも、その正体が人間の男であることは明白だった。女の脊髄が脳を介さずに指令を出す。「逃げろ!」と。女は、当然にしてその命令に従った。もはや、自分の身のこなしなど気にしている状況ではない。

 背中をひる返し、もときた道を公園の入口に向かって走ろうと、太股をトップギアに入れる。しかし、女の体は前には進まなかった。男に強烈な腕力で二の腕を鷲掴みにされていた。再び、脊髄が指令を送る。「暴れろ!」「抵抗するんだ!」。

 だが、女がその命令に従うことはなかった。否、男が右手に持つものに体がすくみ、暴れることも、抵抗することもできなかった。男は、鋭利なナイフを女の喉元に突きつけていた。

 女は、一瞬意識が遠のき、激しく脱力した。男は、彼女をベンチまで素早く引きずると、彼女を仰向けにして馬乗りになった。ナイフの腹で二回、彼女の頬を叩く。

 女は悲鳴も出なかった。男が持つそのナイフを見てしまっては――。

◆◇◆◇◆◇◆◇

 事を終えると、男はナイフを見詰めながら言った。

「こんな危険物に興奮するなんて、本当に変わった性癖だな」

 女は、糸の切れた操り人形のような姿勢で呆然と夜空を見上げていた。下半身を覆っていたものはすべて剥がされ、着せ替え人形にされた気分であった。女は、上半身だけ服を着ている自分の猥雑な姿を頭の中で映像化しながら、まだ男の感触の残る部位を熱くしていた。

「なあ、結婚してるのかい?」

 男の問いに、女は瞼だけでうなずいた。

「そうか。なら、なおさら悪い子猫ちゃんだ」

 男は、女の半開きの唇を挟み込むようにキスをした。

「また明日な」
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