2章-8

文字数 1,454文字

(なんてことだ。このビター&スイート、さっきのよりも格段に美味いじゃないか。ほろ苦いのに甘い。しかも、信じられないことに、その甘みを感じているのは舌ではない。鼓膜だ。舌の上を満遍なく苦みが染み渡った後、強烈な甘みが鼓膜に残る。まるで、砂糖をまぶしたそよ風が、やさしく鼓膜を撫で続けているようだ。人間は、鼓膜でも味わえる生き物なのか。そんな馬鹿な。そんな非科学的なことが……)

――今のお兄さんに必要なのは、自分の限られた経験の中で培われた科学的な根拠。そのちっぽけな先入観を捨て去ることよ――

 非科学的といえども、経験してしまったのだからしかたがない。これは、ただのコーヒーではない。ただのコーヒー豆であるはずがない。それ以外の、特上のなにかが明らかにブレンドされている。でなければ、こんな味は醸せない。しかも、その味を舌だけでなく鼓膜でも味わえる。その正体は――、誰かの辛い思い出に違いなかった。

 ヨーコの話が事実であると確信し、興奮を禁じえずに隆は叫んだ。

「これは美味い! 一杯目よりもはるかに複雑な苦みと甘みのコクの二重奏には言葉もない。とても形容できない味だ」

「だと思ったわ。苦々しいから、みんな、その思い出をこのペニーレインに売るんだけど、やっぱり本人が気付いていないだけで、本当は忘れたくない、ゆくゆくは幸せな気持ちに浸れる『苦くて甘い思い出』ってあるんだよね。そして、そうした思い出が豆になると、鼓膜が震えるような、絶妙な味になるってわけ。お兄さん、今のビター&スイート、大当たり?」

「ああ。大当たりみたいだ。舌でほろ苦さを、そして、信じられないことに鼓膜で甘みを味わったよ。錯覚じゃない。スーパーモデルと裸で抱き合いながらドンペリを飲んでもこんな快感は得られないよ。こんな体験、もう二度とできないんじゃないかな……。それだけが心残りだ」

「なに言ってるの。ちょくちょくお店にきてくれれば、そのうちまた『当たり』が出るよ。それより、お兄さん。くどい、って怒らないでもう一度聞いて。お兄さんの辛い思い出、売ってくれない? お願い。抽出なんてすぐに済むよ。心配している痛みもないから」

 しかし、ヨーコの言葉は隆の鼓膜には届いていなかった。鼓膜でコーヒーの甘みを味わい尽くしたからではない。考えに没頭していたために、鼓膜の扉が固く閉ざされていたからだ。

(このビター&スイート、あいつにも教えてあげよう。考えてみれば、付き合い始めて十年。あいつは、これまでに何千杯のコーヒーを俺のために淹れてくれただろう。どの豆をどうブレンドしたら俺が一番気に入るか、随分と試行錯誤してたよな。確かに、派手に喧嘩してきたのは事実だ。別れようと思ったことも十回や二十回じゃない。でも、子どもがいなけりゃとっくに離婚しているような仮面夫婦ばかりの世の中で、まがりなりにも十年もなんとかやってきて、やっと婚約まで辿りついたんじゃないか。それに、喧嘩の数よりも、その何十倍もの回数、肌を重ねてきた女だ)

 隆は、無性に婚約者が恋しくなった。すぐに逢って抱き締めたい衝動に駆られた。それに、ヨーコには本当に大切な真実を教わった。その渦中は辛くても、時を経れば、ほろ苦く、そしてどこか甘くてコクのある記憶に変容する、そんなたぐいの辛い思い出もあることを。

(もう一度やり直してみるか。ゆうべのことは謝って。これからも喧嘩はするだろうけど、そんな衝突もいつかは「いい味の思い出」になるんだろうな)
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