2章-4

文字数 2,289文字

 隆は、婚約者の淹れたコーヒーを飲みながらテレビを見ていた。隆は、週に二、三度は婚約者の部屋で彼女の手料理を堪能する。その後、隆はシャワーを浴びるが、その間に彼女は丹念に食器を洗う。

 男女は平等じゃなきゃ。私が料理を作ったんだから、隆が洗い物してよ。

 そんな不満をこぼすこともなく。

 そして、隆がシャワーから出るタイミングで最高に美味しいコーヒーを淹れてテーブルに置くと、入れ替わるように彼女がバスルームに向かう。バスタオルを腰に巻いた隆は、カップを片手に一人で液晶画面に目線を投げる。もっとも、それは注視という行為には程遠く、彼女がバスタオルを巻いて再び姿を現すまでの時間潰しといっていい。本当の“二人の時間”はその後に訪れるのだ。

 しかし、昨夜は違っていた。

 シャワーがタイルを叩く音を聞いていた隆は、ふと彼女の裸体をイメージし、次に写真がどうにも気に掛かった。二人で頬寄せ合い、自撮りした、かなり顔のパーツが強調された写真だ。彼女はあまりお気に入りの一枚ではないようだが、隆はその写真が大好きだった。

 そこに写る彼女の口元からこの後、甘い吐息が漏れるのかと、隆は高揚した気分で写真盾のある場所、テレビの横の本棚に視線をずらした。彼女は、その高さ一メートル程度の本棚を壁には接着させずに、二十センチほどの隙間を作っていた。

 訊くと、壁に接着させると、地震でもあったときに本棚は前に倒れるしかなく、中の大量の本が飛び散ってしまうからだと以前彼女は言っていた。ならば、耐震グッズで本棚を固定すればいいだけの話だが、それよりも隆の興味はもとより本棚ではない。その上に置いてある写真盾だ。

 が、そこにあるはずのそれがない。なぜ、写真盾がないのかは考えるまでもなかった。彼女が別の場所に移動した以外にあり得ない。しかし、部屋をぐるりと見渡しても、写真盾はどこにも置かれていない。となれば、机の引き出しの中だろう。

 そして、隆は胸がざらつく結論にたどりついた。なぜ、彼女は写真盾を隠したのか。理由は一つしかない。写真盾を見られては困る“誰か”が部屋にきたからだ。

(なんてことだ! あいつは、婚約者である俺が年中訪れ、頻繁に肌を重ねている部屋に、別の男を招き入れていたのか!)

 考えてみれば、もう何ヵ月も前から本棚の上には写真盾はなかった――、ような気がした。その記憶は隆の都合の良い捏造かもしれない。しかし、少なくとも、今写真盾がないのは紛れもない事実だ。

 心なしか部屋には別の男の体臭や、自分のものとは違うフレグランスの匂いが充満している気がした。もはや詮索の余地はなかった。彼女の浮気は確定だ。隆が荒々しくバスルームの扉を開けるのをゴングに、二人の口論が始まった。

 隆は、延々続きそうな激論に、シャワーから生まれている湯気が自分の頭頂から生まれているそれであるかのような錯覚に陥り、無意識のうちに右手を振り上げていた。

(自分は裸の女を殴るのか? それではまるでレイプ魔じゃないか)

 隆は、怒りが臨界点を超えながらも、すんでのところでかろうじて残されていた理性にしがみつくと、自分の憤怒の象徴ともいえる右手を下ろし、そのまま彼女の部屋を出た。

(これじゃあ、せっかくの土曜日の夜が台無しだ!)

 そして、電車に乗り、馴染みのない駅で降り、見知らぬスナックで酔い潰れ、今アルバイトの女子高生に昨晩の痴話喧嘩を吐き出している。

◆◇◆◇◆◇◆◇

「ふーん。名推理、と言いたいところだけど……」
 黙って聞いていたヨーコが口を開いた。
「それ、間違いなく、お兄さんの勘違い、早とちりね」

「ちょっと待ってよ。なにを根拠に?」

「まず、別の男の体臭とかフレグランスの匂いがした、っていう部分は論外ね。勝手な思い込みよ。たとえばだけど、今この店に充満しているコーヒーの香り。これくらいの確かさでそんな香りが彼女の部屋に残ってた?」

「い、いや。それは……」
 香りについては、隆も多分に自分の想像も混じっていたであろうことは自覚があった。

「そして、問題の写真盾だけど、私だったら、仮に別の男を部屋に上げたときに隠したとしたら、むしろ自分の婚約者がくるときには絶対に元の位置に戻しておくよ。いい、お兄さん。後ろめたさがある人間は、必ず証拠は隠滅しようとするものなの」

「…………」

「要するに、写真盾が本棚の上になかったのは、言い換えれば、彼女はなにもやましいことはしていない証明でもあるの」

「じゃあ、写真盾はどこに隠したの?」

「だから、隠してない、って言ってるのに。おおかた、掃除でもしてるときに本棚の後ろに落としたんじゃない? お兄さん、部屋をぐるりと見渡したけどどこにもなかった、って言ってたよね。しかも、本棚と壁の間には二十センチほどの隙間があるのよね? ってことは、本棚の後ろ、一番疑わしい場所は確認していないんでしょう?」

 ヨーコは、両腕を組むと肩をすくめた。

「でも、あいつはそんなこと一言も言ってなかったよ」

「忘れてたか、なにかのついでに言うつもりだったんじゃない? いずれにせよ、彼女にとっては大きな問題ではなかったのよ。そもそも、本がぎっしり詰まった本棚を一人で動かして、後ろに落ちた写真盾を拾うのは大変よ。婚約者がいる女性なら、絶対に男手を借りたい作業よね。それに……」

「それに?」

「彼女は、その写真、気に入ってなかったんでしょう?」

 隆は二の句が継げなかった。
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