1章-3
文字数 2,595文字
(俺の思い過ごしじゃないのか?)
美帆の部屋で『愛楽園』を発見した頃から、自身の楽観的な予想に反し、雄太は苦悶を抱え込むこととなった。
雄太は最初、美帆と田川を泳がせることにした。美帆が浮気をするはずがない。田川も自分の親友の恋人に手を出すような非道な男ではない。官能小説を肴 に一緒に盛り上がるくらい構わないじゃないか。そんなゆとりがなせる技であった。
しかし、そのゆとりは潮が引くように浅くなり、一方で、疑惑が反比例するかのように深まっていった。
美帆は雄太に抱かれるのを拒むようになった。知り合って三年。もちろん、倦怠期を迎えるカップルもいるだろうが、つい先日までは当たり前のように互いを求め合っていた仲だ。美帆に、雄太には体をあずけられない、もしくはあずけたくない事情ができたのは明白であった。
会う頻度も減った。「残業」と言うが、受付嬢に残業はあるまい。彼女の嘘のあまりの稚拙さに、雄太は美帆に蔑 まされている気分になった。「私のこと、嫌いになるならどうぞ」と開き直られているようにも思えた。
そして――、弱気になった。
よくよく考えれば、田川は昔から軽率のそしりは免れない言動が目に付くことが多々あった。それに、田川も結婚してそろそろ三年だ。『3年目の浮気』ではないが、不倫願望が芽生えている可能性は皆無ではない。
美帆のこの変化に関し、雄太には一つ思い当たる節があった。以前、派遣契約で働いている美帆に対してつい本心を漏らしたことがある。
「なあ、美帆。派遣って、会社の業績が悪化したら真っ先に切られるんだろう。なんとも不安定というか、みじめというか……。お前、どんな気持ち?」
美帆は、悔しさからか目を真っ赤に充血させながらも、雄太に毅然とした口調で反論した。
「田川くんなら、そんなひどいこと言わないわよ。きっと、『派遣とか正社員とか、そんな区別はくそ食らえだ。楽しく仕事をして、きちんと会社に貢献してればそれでいいんだ』って、陽気に元気づけてくれるわ。それなのに、恋人である雄太がなぜ私のことを見下すの。そこまでして、自分の自尊心を満たしたい?」
美帆に変化の兆候が見え始めたのはそれからであった。雄太が「主」で美帆が「従」。長年のその関係に小さな亀裂が生じ、美帆は雄太に時折り盾つくようになった。
そして、ついに言われた。
「これからは、うちにくるときには事前に連絡をちょうだい。いきなりきても、私、鍵、開けないわよ」
美帆のセリフで雄太は決心した。
「あいつに相談するしかないか……」
「あいつ」は、“探偵まがい”の雄太の知人であった。雄太は、探偵などという道を選んだ彼を内心では侮蔑し、一生彼の世話にだけはなることはないと思っていた。そもそも、雄太でなくとも、自分が探偵にやっかいになるなどと想定して生きている人間はそうはいない。
世の中、探偵にせよ興信所にせよ、まともなところは山ほどある。しかし、「恋人の浮気調査をお願いします。浮気相手は多分、私の大学時代からの親友です」なんて恥辱に満ちたセリフを、プライドの塊の雄太が言えるはずもなかった。
雄太が本音を吐露してすがれるのは、皮肉なことに友人の探偵まがいだけであった。これほどの屈辱がそれまでの人生であっただろうか。雄太は、それでも彼に依頼せざるを得ない状況を呪った。雄太が、生まれて初めて自分の行為に嫌悪感を抱いた瞬間だった。
数日後、仕事を終えた雄太は、午後六時に「ペニーレイン」という喫茶店で男と落ち合った。相手は探偵まがいだ。調査結果が出たのだ。結果の受け渡し場所が、高級ホテルのラウンジではなく、貧層とはいわないがありきたりの喫茶店というのが、いかにも安物ドラマのようで、憔悴していた雄太の不安をさらに増幅した。
そんな雄太と探偵まがいの前に、アルバイトの女の子がコーヒーを置いて去って行く。
「おい、児玉。今の子、見たか。半端なく可愛かったぞ。それに、長身でスタイルも抜群だ」
しかし、雄太が喫茶店のアルバイトに興味を抱くゆとりなどあろうはずがなかった。雄太は探偵まがいに先を急がせたが、彼の一言で頭の中の爆竹が鳴った。
「児玉。お前の彼女、残念だが……」
探偵が封筒を雄太の前に置く。雄太は、生気を失った瞳で封筒を持ち上げたが、そのまま数秒固まると、封筒を鞄にしまった。頭の中では、まだ爆竹の衝撃と煙がくぐもっている。
「どうした? 中を見ないのか? 写真だけでなく、相手の身元調書も入ってるぞ」
「必要ない」
「なぜ?」
「相手は最初からわかってる。知りたかったのは、美帆が本当に浮気をしているかどうかだ。で、してるんだろう?」
「ラブホテルに入る写真と出てくる写真。かわいそうだが決定的だな」
◆◇◆◇◆◇◆◇
そして今、自室で『愛楽園』にまなざしを固定する雄太の脳内では、裸身の男女が激しく互いを貪っている。あろうことか、自分の恋人が自分たちの共通の友人である男に柔肌をあずけているのだ。
美帆を愛するときには先端を尖らせ、時折りこちらを見つめるときには嘲 るように歪む男の唇。その映像に接したとき、雄太の忍耐は臨界点を超え、つい先ほど「ちくしょう……。殺してやりたいな、こいつ……」と呻 いた雄太の口からは叫びが放たれた。
「ちくしょう! マジで殺してやる! 田川の野郎!」
咆哮 が部屋の空気を振るわせる。その振動に共鳴するかのように、さらに雄太の興奮は倍化され、もう一度絶叫しようと雄太が肺を膨らませたとき、タイミングを見計らったかのように彼のスマートフォンが音と光を出した。メールの着信だった。
血をたぎらせながらも、無意識のうちに雄太がメールを開くと、差出人には、名前ではなくメールアドレスが表示されていた。すなわち、アドレス帳にはない人からのメールである。この些細な、しかし非日常的な出来事で、雄太はわずかばかりの落ち着きを手に入れた。
叫ぶのをやめた雄太は、未知の人間がどんなメールを送ってきたのかと、次に件名に目を移した。そこには英文が踊っていた。
――The world is at your command――
美帆の部屋で『愛楽園』を発見した頃から、自身の楽観的な予想に反し、雄太は苦悶を抱え込むこととなった。
雄太は最初、美帆と田川を泳がせることにした。美帆が浮気をするはずがない。田川も自分の親友の恋人に手を出すような非道な男ではない。官能小説を
しかし、そのゆとりは潮が引くように浅くなり、一方で、疑惑が反比例するかのように深まっていった。
美帆は雄太に抱かれるのを拒むようになった。知り合って三年。もちろん、倦怠期を迎えるカップルもいるだろうが、つい先日までは当たり前のように互いを求め合っていた仲だ。美帆に、雄太には体をあずけられない、もしくはあずけたくない事情ができたのは明白であった。
会う頻度も減った。「残業」と言うが、受付嬢に残業はあるまい。彼女の嘘のあまりの稚拙さに、雄太は美帆に
そして――、弱気になった。
よくよく考えれば、田川は昔から軽率のそしりは免れない言動が目に付くことが多々あった。それに、田川も結婚してそろそろ三年だ。『3年目の浮気』ではないが、不倫願望が芽生えている可能性は皆無ではない。
美帆のこの変化に関し、雄太には一つ思い当たる節があった。以前、派遣契約で働いている美帆に対してつい本心を漏らしたことがある。
「なあ、美帆。派遣って、会社の業績が悪化したら真っ先に切られるんだろう。なんとも不安定というか、みじめというか……。お前、どんな気持ち?」
美帆は、悔しさからか目を真っ赤に充血させながらも、雄太に毅然とした口調で反論した。
「田川くんなら、そんなひどいこと言わないわよ。きっと、『派遣とか正社員とか、そんな区別はくそ食らえだ。楽しく仕事をして、きちんと会社に貢献してればそれでいいんだ』って、陽気に元気づけてくれるわ。それなのに、恋人である雄太がなぜ私のことを見下すの。そこまでして、自分の自尊心を満たしたい?」
美帆に変化の兆候が見え始めたのはそれからであった。雄太が「主」で美帆が「従」。長年のその関係に小さな亀裂が生じ、美帆は雄太に時折り盾つくようになった。
そして、ついに言われた。
「これからは、うちにくるときには事前に連絡をちょうだい。いきなりきても、私、鍵、開けないわよ」
美帆のセリフで雄太は決心した。
「あいつに相談するしかないか……」
「あいつ」は、“探偵まがい”の雄太の知人であった。雄太は、探偵などという道を選んだ彼を内心では侮蔑し、一生彼の世話にだけはなることはないと思っていた。そもそも、雄太でなくとも、自分が探偵にやっかいになるなどと想定して生きている人間はそうはいない。
世の中、探偵にせよ興信所にせよ、まともなところは山ほどある。しかし、「恋人の浮気調査をお願いします。浮気相手は多分、私の大学時代からの親友です」なんて恥辱に満ちたセリフを、プライドの塊の雄太が言えるはずもなかった。
雄太が本音を吐露してすがれるのは、皮肉なことに友人の探偵まがいだけであった。これほどの屈辱がそれまでの人生であっただろうか。雄太は、それでも彼に依頼せざるを得ない状況を呪った。雄太が、生まれて初めて自分の行為に嫌悪感を抱いた瞬間だった。
数日後、仕事を終えた雄太は、午後六時に「ペニーレイン」という喫茶店で男と落ち合った。相手は探偵まがいだ。調査結果が出たのだ。結果の受け渡し場所が、高級ホテルのラウンジではなく、貧層とはいわないがありきたりの喫茶店というのが、いかにも安物ドラマのようで、憔悴していた雄太の不安をさらに増幅した。
そんな雄太と探偵まがいの前に、アルバイトの女の子がコーヒーを置いて去って行く。
「おい、児玉。今の子、見たか。半端なく可愛かったぞ。それに、長身でスタイルも抜群だ」
しかし、雄太が喫茶店のアルバイトに興味を抱くゆとりなどあろうはずがなかった。雄太は探偵まがいに先を急がせたが、彼の一言で頭の中の爆竹が鳴った。
「児玉。お前の彼女、残念だが……」
探偵が封筒を雄太の前に置く。雄太は、生気を失った瞳で封筒を持ち上げたが、そのまま数秒固まると、封筒を鞄にしまった。頭の中では、まだ爆竹の衝撃と煙がくぐもっている。
「どうした? 中を見ないのか? 写真だけでなく、相手の身元調書も入ってるぞ」
「必要ない」
「なぜ?」
「相手は最初からわかってる。知りたかったのは、美帆が本当に浮気をしているかどうかだ。で、してるんだろう?」
「ラブホテルに入る写真と出てくる写真。かわいそうだが決定的だな」
◆◇◆◇◆◇◆◇
そして今、自室で『愛楽園』にまなざしを固定する雄太の脳内では、裸身の男女が激しく互いを貪っている。あろうことか、自分の恋人が自分たちの共通の友人である男に柔肌をあずけているのだ。
美帆を愛するときには先端を尖らせ、時折りこちらを見つめるときには
「ちくしょう! マジで殺してやる! 田川の野郎!」
血をたぎらせながらも、無意識のうちに雄太がメールを開くと、差出人には、名前ではなくメールアドレスが表示されていた。すなわち、アドレス帳にはない人からのメールである。この些細な、しかし非日常的な出来事で、雄太はわずかばかりの落ち着きを手に入れた。
叫ぶのをやめた雄太は、未知の人間がどんなメールを送ってきたのかと、次に件名に目を移した。そこには英文が踊っていた。
――The world is at your command――