3章-9

文字数 982文字

 そのとき、千夏の背後で男の声がした。

「ヨーコちゃん。俺にもその白雪姫をくれないか」

 ヨーコは、声の主を見ると舌打ちをした。

「もう、児玉雄太!」

 入店したときにテーブル席で見た男が、やつれ果てた弱々しい声で、突如自分たちの輪の中に割り込んできたため、千夏は思わず小首をかしげた。

「児玉さん。あの、おとなしくテーブルでコーヒーを飲んでてもらえない?」

「お願いだ、ヨーコちゃん。あのコマンドメールの一件以来、毎晩、うなされるんだ。田川が夢の中に出てきて……」

「だから、コマンドメールなんて知りません」

「とぼけるのもいい加減にしてくれ!」

 (たけ)り立った男に、ヨーコは瞳だけで倍返しの威嚇をした。その迫力に、男は思わずたじろいだ。

「あ、じゃあ、コマンドメールは知らないなら知らないでいいよ。ただ、その白雪姫を……」

「もう、さっきから白雪姫、白雪姫って。眠れる森の美女! スリーピング・ビューティーよ! そんなことも知らないの!」

「ごめん。と、とにかく、そのスリーピング・ビューティーを俺にも……」

「ないわ。この一セットしかないの」

「そんな殺生な。じゃあ、すぐに作ってよ。お金なら払えるだけ払うから」

「作る? 新品を? 今のところその予定はないわね」

 すると、マスターが店の電話の受話器を持ち上げて言った。

「なるほど。あなたが児玉雄太さんか。ヨーコちゃんから話は聞いてるよ。さあ、帰ってください。帰らないと、この電話、警察に通じちゃいますよ」

「わ、わかりました……」

 児玉と呼ばれた男は、カウンターにコーヒー代金を置くと、背中を丸め、意気消沈しながら店を後にした。

 それにしても驚いたのは千夏である。マスターといい、児玉といい、大の大人が揃いも揃ってスリーピング・ビューティーの話を信じ込んでいる。児玉にいたっては、それが手に入らなければ自殺してしまいそうなほどの真剣さだった。

(まあ、今日のところは、ティーンエイジャーのおままごとに付き合ってあげるとするか)

「ありがとう、ヨーコちゃん。じゃあ、お言葉に甘えて、そのスリーピング・ビューティー、ぜひいただいて帰るわ」

「どうぞ。今夜からはぐっすり寝てね、お姉さん。眠れる森の美女のように」

 ヨーコは、千夏にウィンクを投げた。
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