3章-7
文字数 2,929文字
マスターは、おおかたの質問を終えた。それはすなわち、千夏が悪夢についてほとんどを吐き出したことを意味する。すると、聞いていなかったはずのヨーコがカウンターに戻ってきた。
「お姉さん。事情は飲み込めたわ。で、真相もある程度、突き止めたよ」
「真相?」
「うん。まず、睡眠薬まで処方してもらっておきながら、一ヵ月も毎晩同じ夢を見る。これは明らかに異常よね。お姉さんが樫村医院に頼りたくなる気持ちもわかるよ。この場合、考えられる仮定は二つしかないわ」
「二つ?」
「そう。一つは、お姉さんは、潜在意識で夢のようなけがらわしくて怖い体験を望んでいるってこと。それも強烈に……」
千夏は、烈火のごとくヨーコの言葉を遮った。
「ふざけないで! 誰があんな体験を望むものですか!」
「でも、お姉さん……。レイプされている最中、相手を煽 るような言葉を叫んでるんでしょう?」
すると、マスターが意味ありげに笑った。
「あれ? ヨーコちゃん、僕と里谷さんの会話、聞こえてないはずなのに、なぜ里谷さんがレイプ犯を煽っていたことを知って……」
「あー、うるさい。想像よ、想像」
「へえ、意外。ヨーコちゃんはそんなこと想像するんだ」
マスターの言葉に、ヨーコは頬を膨らませた。
「里谷さんはきっとこんなことを夢の中で言ってると思うな。『ああ、剛 ! もっと深く突い……』」
千夏はマスターに平手を食らわそうと思わず立ち上がったが、一瞬早く、ヨーコの手のひらがマスターの頬をはたいていた。
「いてえ! じょ、冗談だよ」
「冗談にもほどがあります! それに、夢の男の名前なんて知りません。誰です、剛って!」
「あ、剛は僕の名前。いや、セックスの最中に女に自分の名前を叫んでもらうって、すべての男が共通して持ってる願望なんですよ」
憮然とする千夏に、マスターは白い歯を見せた。そのやに下がった笑顔を見て、千夏は再び手を上げかけたが、ヨーコに制された。
「まあまあ、お姉さん。こんなスケベおやじは放置して先に進もう。で、お姉さんはその体験を望んでいないわけね」
「当り前よ」
「だとしたら、考えられる線は、残ったもう一つね」
「それは?」
「生き霊よ」
「生き霊?」
千夏は黒目を上に寄せた。
「そう。生きている人の怨霊。お姉さん、過去に、今のご主人以外の人に死ぬほど愛された経験は?」
千夏は、心当たりはあったが、あえて口を閉ざした。その様子を見てマスターが口を挟んだ。
「ヨーコちゃん、そんなのあるに決まってるだろう。こんな美人なんだから。ほら、里谷さんって、日本酒のCMに出てくるあの人にそっくりだ」
「日本酒のCM?」
「うん。着物姿で亭主の帰りを待っているあの女優。あの艶のある顔。あの白いうなじ。あの柔らかなおくれ毛。男から見たらもうたまらないよ。酒も夕飯も後回しで、まずは一発……、いてえ!」
再びヨーコの手のひらが直撃した頬を押さえるマスターを横目にヨーコは続けた。
「このスケベおやじの言うとおり、お姉さん、本当に綺麗だし、色気もあるし、過去に誰かに愛されていないほうが不自然よね」
千夏は、次の言葉を手繰るために、まずはすっかり冷めたコーヒーを飲み干し、それから口を開いた。
「それは、人並みに恋はしてきたわ。でも、だからって生き霊っていうのは……」
「その男性とはスムーズに別れられたの? 『別れるなら死んでやる』とか、『一生まとわりついてやる』なんて言われなかった?」
千夏は唇を噛んだ。その仕草がヨーコの質問を肯定しているようなものである。
「でも、仮にヨーコちゃんが言うような人と私が過去にお付き合いをしていたとして、だけど、夢の中に出てくるのはその人じゃないわよ」
「だから、その人の怨霊が、お姉さんが作り上げた架空の男性の姿を借りて夢に出てきてるのよ」
「そうそう。だから最初に、その男性が里谷さんの好みなんじゃないかって、僕も訊いたんですよ。僕も、生き霊の線を疑っていたんでね」
取ってつけたセリフを吐くマスターを、ヨーコは横目で軽く睨んだ。
「夢の中の男が私の好み? その姿を借りて、過去の男の怨念が私に乱暴している……」
あり得ない話ではないと千夏も感じた。
「そう。過去の男の怨念がお姉さんにレイプをしている。それに対して、お姉さんは最後の抵抗で、男の顔や姿を自分のタイプに差し替えている。どう? これですべての説明がつくでしょう?」
「うーん。確かに説得力のある説明ではあるけど……、最後のところで論理が破綻しているわよ、ヨーコちゃん」
「論理破綻?」
「ええ。生き霊については納得してもいいわ」
「あれ? お姉さん、霊魂は信じないんじゃなかったっけ?」
ヨーコが楽しげな笑みを浮かべると、千夏は苦そうな笑みを浮かべた。
「もう。意地悪言わないで」
「ごめんなさい。続けて、お姉さん」
「で、その生き霊への対抗手段で、私が夢の中で男の顔や姿を作るなら、その男は主人でなければならないはずでしょう? でも、夢の男はただの一度も見たことのない顔よ。二十五歳くらいの、まだ少年ぽさが残る、それでいて野性味のある男で……。それに、私は彼のような肉体労働者とは無縁の人生を送ってきたし」
「……。失礼だけど……、お姉さん、本当にご主人のこと愛してる?」
千夏は、一瞬目が泳いだように見えたが、すぐに滑舌 よく答えた。
「もちろんよ。だから結婚したし、今も夫婦でいるんじゃないの」
「本当に不満はないの? あの……、なんて言うの……。いわゆる……」
ヨーコは、マスターに目線を投げた。ヨーコと目が合ったマスターが話を引き継ぐ。
「里谷さん、セックスレスじゃないんですか? もしくは、ご主人とのセックスに満足していない」
「ちょっと、マスター! 表現が直接的過ぎ! 私、未成年なんですけど」
マスターの「直接的過ぎる」質問に、千夏はあきらかに狼狽した。
「い、今のマスターの質問には答えかねます」
「なぜ?」
「答える義務も必要もないからです。ただ……」
「ただ?」
「私は主人を愛しています」
千夏の声に怒気が帯びてきた。それは、あけすけなマスターに対する憤りなのか。それとも、明らかに動揺している自分に対するものなのか。
「まあ、所詮は夢だから、完璧な論理を求めてもしかたないわ。お姉さんが夢の中で想像している男がご主人でなく、若い肉体労働者でも、それは瑣末なことよ。それより、問題は過去の男の生き霊のほうね。となると、このヨーコさまも根本的な解決はできない。でもね、対処療法なら可能よ」
「根本的な解決? 対処療法?」
「うん。根っこから解決するなら、その生き霊を祓うしかないでしょう。でも、私、そっち系はちょっと苦手で。でも、お姉さんに霊がとり憑いていても、夢さえ見なければいいわけでしょう。ちょっと待って。いいものあげるから」
その言葉を残して、ヨーコは控室に姿を消した。
「お姉さん。事情は飲み込めたわ。で、真相もある程度、突き止めたよ」
「真相?」
「うん。まず、睡眠薬まで処方してもらっておきながら、一ヵ月も毎晩同じ夢を見る。これは明らかに異常よね。お姉さんが樫村医院に頼りたくなる気持ちもわかるよ。この場合、考えられる仮定は二つしかないわ」
「二つ?」
「そう。一つは、お姉さんは、潜在意識で夢のようなけがらわしくて怖い体験を望んでいるってこと。それも強烈に……」
千夏は、烈火のごとくヨーコの言葉を遮った。
「ふざけないで! 誰があんな体験を望むものですか!」
「でも、お姉さん……。レイプされている最中、相手を
すると、マスターが意味ありげに笑った。
「あれ? ヨーコちゃん、僕と里谷さんの会話、聞こえてないはずなのに、なぜ里谷さんがレイプ犯を煽っていたことを知って……」
「あー、うるさい。想像よ、想像」
「へえ、意外。ヨーコちゃんはそんなこと想像するんだ」
マスターの言葉に、ヨーコは頬を膨らませた。
「里谷さんはきっとこんなことを夢の中で言ってると思うな。『ああ、
千夏はマスターに平手を食らわそうと思わず立ち上がったが、一瞬早く、ヨーコの手のひらがマスターの頬をはたいていた。
「いてえ! じょ、冗談だよ」
「冗談にもほどがあります! それに、夢の男の名前なんて知りません。誰です、剛って!」
「あ、剛は僕の名前。いや、セックスの最中に女に自分の名前を叫んでもらうって、すべての男が共通して持ってる願望なんですよ」
憮然とする千夏に、マスターは白い歯を見せた。そのやに下がった笑顔を見て、千夏は再び手を上げかけたが、ヨーコに制された。
「まあまあ、お姉さん。こんなスケベおやじは放置して先に進もう。で、お姉さんはその体験を望んでいないわけね」
「当り前よ」
「だとしたら、考えられる線は、残ったもう一つね」
「それは?」
「生き霊よ」
「生き霊?」
千夏は黒目を上に寄せた。
「そう。生きている人の怨霊。お姉さん、過去に、今のご主人以外の人に死ぬほど愛された経験は?」
千夏は、心当たりはあったが、あえて口を閉ざした。その様子を見てマスターが口を挟んだ。
「ヨーコちゃん、そんなのあるに決まってるだろう。こんな美人なんだから。ほら、里谷さんって、日本酒のCMに出てくるあの人にそっくりだ」
「日本酒のCM?」
「うん。着物姿で亭主の帰りを待っているあの女優。あの艶のある顔。あの白いうなじ。あの柔らかなおくれ毛。男から見たらもうたまらないよ。酒も夕飯も後回しで、まずは一発……、いてえ!」
再びヨーコの手のひらが直撃した頬を押さえるマスターを横目にヨーコは続けた。
「このスケベおやじの言うとおり、お姉さん、本当に綺麗だし、色気もあるし、過去に誰かに愛されていないほうが不自然よね」
千夏は、次の言葉を手繰るために、まずはすっかり冷めたコーヒーを飲み干し、それから口を開いた。
「それは、人並みに恋はしてきたわ。でも、だからって生き霊っていうのは……」
「その男性とはスムーズに別れられたの? 『別れるなら死んでやる』とか、『一生まとわりついてやる』なんて言われなかった?」
千夏は唇を噛んだ。その仕草がヨーコの質問を肯定しているようなものである。
「でも、仮にヨーコちゃんが言うような人と私が過去にお付き合いをしていたとして、だけど、夢の中に出てくるのはその人じゃないわよ」
「だから、その人の怨霊が、お姉さんが作り上げた架空の男性の姿を借りて夢に出てきてるのよ」
「そうそう。だから最初に、その男性が里谷さんの好みなんじゃないかって、僕も訊いたんですよ。僕も、生き霊の線を疑っていたんでね」
取ってつけたセリフを吐くマスターを、ヨーコは横目で軽く睨んだ。
「夢の中の男が私の好み? その姿を借りて、過去の男の怨念が私に乱暴している……」
あり得ない話ではないと千夏も感じた。
「そう。過去の男の怨念がお姉さんにレイプをしている。それに対して、お姉さんは最後の抵抗で、男の顔や姿を自分のタイプに差し替えている。どう? これですべての説明がつくでしょう?」
「うーん。確かに説得力のある説明ではあるけど……、最後のところで論理が破綻しているわよ、ヨーコちゃん」
「論理破綻?」
「ええ。生き霊については納得してもいいわ」
「あれ? お姉さん、霊魂は信じないんじゃなかったっけ?」
ヨーコが楽しげな笑みを浮かべると、千夏は苦そうな笑みを浮かべた。
「もう。意地悪言わないで」
「ごめんなさい。続けて、お姉さん」
「で、その生き霊への対抗手段で、私が夢の中で男の顔や姿を作るなら、その男は主人でなければならないはずでしょう? でも、夢の男はただの一度も見たことのない顔よ。二十五歳くらいの、まだ少年ぽさが残る、それでいて野性味のある男で……。それに、私は彼のような肉体労働者とは無縁の人生を送ってきたし」
「……。失礼だけど……、お姉さん、本当にご主人のこと愛してる?」
千夏は、一瞬目が泳いだように見えたが、すぐに
「もちろんよ。だから結婚したし、今も夫婦でいるんじゃないの」
「本当に不満はないの? あの……、なんて言うの……。いわゆる……」
ヨーコは、マスターに目線を投げた。ヨーコと目が合ったマスターが話を引き継ぐ。
「里谷さん、セックスレスじゃないんですか? もしくは、ご主人とのセックスに満足していない」
「ちょっと、マスター! 表現が直接的過ぎ! 私、未成年なんですけど」
マスターの「直接的過ぎる」質問に、千夏はあきらかに狼狽した。
「い、今のマスターの質問には答えかねます」
「なぜ?」
「答える義務も必要もないからです。ただ……」
「ただ?」
「私は主人を愛しています」
千夏の声に怒気が帯びてきた。それは、あけすけなマスターに対する憤りなのか。それとも、明らかに動揺している自分に対するものなのか。
「まあ、所詮は夢だから、完璧な論理を求めてもしかたないわ。お姉さんが夢の中で想像している男がご主人でなく、若い肉体労働者でも、それは瑣末なことよ。それより、問題は過去の男の生き霊のほうね。となると、このヨーコさまも根本的な解決はできない。でもね、対処療法なら可能よ」
「根本的な解決? 対処療法?」
「うん。根っこから解決するなら、その生き霊を祓うしかないでしょう。でも、私、そっち系はちょっと苦手で。でも、お姉さんに霊がとり憑いていても、夢さえ見なければいいわけでしょう。ちょっと待って。いいものあげるから」
その言葉を残して、ヨーコは控室に姿を消した。