5章-9

文字数 1,399文字

 江利子は、右手を包帯で処置すると、再びテレビをつけた。やっとである。度重なる妨害で見られなかったシーンをやっと見ることができる。江利子は、右手の痛みとレオを始末した興奮のため、肩で息をしていたが、だからこそなにもかも忘れて映画にのめり込みたかった。

――秘密情報を盗み出した女スパイは、ひとまず自宅に戻った。疲労も激しく、傷も負っているので、まずは状況回復ということか。女スパイは、服を着替え、怪我の手当をすると、ソファーに腰掛けてテレビをつけた。

 カメラは女スパイを背後から捕らえているので、表情は読み取れないが、それでも呼吸するたびに上下する肩の動きと猫背のように丸まった背中から、女スパイのバテ具合が見て取れる。

 やがて、カメラが幾分ひいて女スパイの姿が少し小さくなると、画面の中では女スパイの右側に人ひとり分ほどのスペースができた。――

 それにしても、なんという長回しだ。アングルはずっと主人公の背後からだ。主人公がソファーに座ってからは、一度もカット割りがされていない。もし緊迫感を出すための演出なら、この監督の意図は完全に裏目に出ている。

――と、その瞬間だ。女スパイの右背後に男が立った。敵は、すでに女スパイの部屋に侵入していたのだ。このままでは、女スパイは右背後から襲われてしまう。――

 江利子は思わずずっこけた。

(なに、この安易な話の展開。それに、スパイともあろうものが、背後に人に立たれたら、普通気付くでしょう)

 ところが、話はさらにあり得ない展開を見せた。

――女スパイの背後に立った男が右腕を上げると、その手にはチェーンソーが握られている。男は、なんの躊躇もなく左手でリコイルスターターを引く。電動モーターが始動して、のこぎりが回転を始める。しかし、女スパイは、それに気付かずに前方のテレビに視線を投げている。

 男は、左手も取っ手に添えると、チェーンソーを右肩に担ぐように振り上げた。その角度で振り下ろせば、先にあるのは女スパイの首だ。――

 江利子は、ストーリーの陳腐さには辟易したが、監督が前代未聞の長回しをした理由は理解した。確かに、一気に緊迫感が増してきた。

 後方から鼓膜に届くなんとも不気味なエンジン音。これだ。これこそがサラウンドの魅力である。やはり、「音の洪水」の鍵を握るのは後方のスピーカーなのだ。主人公が、背後のチェーンソーの大音響に気が付かない不自然さなど、もはやどうでもよくなった。すでに、ストーリーなど期待はしていない。

――女スパイは、包帯を巻いた右手を目線の高さに持ち上げた。骨折しなくてよかったという安堵が、背中から伝わってくる。包帯の白とカーディガンの白。その純白に挟まれているからこそ、右腕を通したパジャマの深紅が浮き出るように美しい。

 女スパイは右手を下げると、テレビを見ようと幾分前(かが)みになった。しかし、男はチェーンソーを振り下ろす態勢に入る。その屈強な背中からは、情けも容赦も一切のためらいも感じられない。――

 後方で鳴り響く高速の金属音が一オクターブ高くなる。このリアルさと比較したら、「しあわせを運ぶ犬」なる子犬型ロボットなどちゃちな偽物だ。実際に、レオと巡り会ってから、ただの一度も幸運なことなどなかった。

「よーし! そんな間抜けな女スパイ、()っちゃ……」
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