2章-7
文字数 2,411文字
「さて。もう一度説明するからよく聞いて。今のお兄さんに必要なのは、自分の限られた経験の中で培われた科学的な根拠。そのちっぽけな先入観を捨て去ることよ」
そう言うと、ヨーコは隆の瞳を直視した。
「お兄さんがさっき飲んだコーヒーは?」
「え? ビター&スイート」
「どんな味がした?」
「どんな味って言われても……。美味しかったのは確かに認めるよ。でも、あの味を形容する言葉が……」
隆は吐息をついた。
「僕には見つからないよ」
「ほろ苦く、それでいてほんのりと甘く、どこか懐かしくて暖かい味だったでしょう?」
「うん。まさしく、そんな感じの味だった」
「人の辛い思い出をコーヒーにするとそんな味になるの。もっとも、本当に忘れ去りたい苦々しい思い出のときには、まったく甘味は出ないよ。たとえば、自分の彼女に命令して罪もない親友を完全犯罪で殺させてしまった思い出……、じゃ、ちょっとたとえがリアル過ぎるか」
隆は心の中で、そのたとえのどこがリアルなんだ、と突っ込みを入れたが、ヨーコは構わずに続けた。
「たとえを変えよう。そうね。両親を事故で失った。そうしたたぐいの救いようのない、死ぬまでただ辛さだけを引きずるような悲劇。そんな思い出をブレンドしたコーヒーなんて、苦すぎて、渋すぎて飲めたもんじゃないよ。ううん、臭いを嗅いだだけで吐き気がこみ上げるよ。さっきまでのお兄さんのように」
(そうか。元はといえば、俺はこの店がまだスナックだった昨晩、ここに酒を飲みにきたんだよな。なんかゆうべのことも、そして今目の前にいるこの美少女も、すべてが夢のような気がしてきたな。それもこれも、ヨーコちゃんの荒唐無稽な話のせいか……)
隆は、現実を実感したくて、ヨーコの頭頂から腹部あたりまでを軽くなぞってみたが、ヨーコは気にするそぶりも見せずに続けた。
「でも、私とレオの話を思い出して。レオの死という悲しみは、時が経てばレオを愛していた幸福感に上書きされるよね。要するに、そのときは辛く感じる思い出でも、時間が経過するに連れて、悲しみがやがては楽しさに変わっていく。そんなほろ苦くて切ない思い出をブレンドしたときには、それが極上のコーヒーに姿を変えるの」
隆は思案していた。いつまでこの作り話に付き合おうかと。金を払ってとっとと帰ることもできる。実際、先ほど抱いた苛立ちは、まだ心の中でくすぶっている。でも、だからと帰ってしまうのはもったいない。そんな欲望に打ち勝てない自分もいる。ヨーコこそ、頭の横で指を回したくなる「これ」じゃないか、と思いつつも、こんな美少女と話ができている状況は決して悪いものではない。
隆は迷ったが、今しばらくヨーコの冗談、作り話に乗ることにした。
「じゃあ、そのチューブで思い出を抽出された人はどうなっちゃうの?」
「別にどうもならないよ。いたって健康。ただ、その思い出にまつわる記憶は綺麗さっぱりと忘れちゃうけどね」
「へえ! それは、抽出された途端に?」
隆は、驚いた、ふりをした。なかなかに堂に入った演技だ。
「ううん。抽出した時点ではまだ覚えてるし、豆にした時点でもまだ覚えてるよ。さらにいえば、その豆が挽 かれた時点でも大丈夫。でも、ビター&スイートとしてお客さんに飲まれた時点で、その思い出は完全に失われちゃうの」
「ということは、昨日、この店に思い出を売った人は……」
「推察どおり! さっき、お兄さんがビター&スイートを飲み干した時点で、その辛い思い出はそっくりと忘れたよ。まあ、それがその人にとっていいことなのか、悪いことなのか、私にはわからないけどね」
ヨーコは笑みで窪んだ白い頬を中指でかいた。
「そうそう。時々、思い出を売ったはいいけど、『やっぱり忘れたくない』って慌てて取り返しにくる人もいるよ」
「取り返すって……。豆になってしまった思い出を?」
隆は再び驚いた。が、今度は演技ではなかった。気付かぬうちにヨーコの話に引き込まれ、自然に口をついて出た疑問だった。
「うん。それができるんだ」
「どうやって?」
「自分で、そのビター&スイートを飲むの。そうすれば、思い出は再びその人の元に戻るんだ」
「なるほど……」
「それより、お兄さん。さっき、婚約者とゆうべ喧嘩した話をしてたけど、いっそのこと、その婚約者との辛い思い出、売ってくれない?」
「あいつとの思い出を?」
隆は、ヨーコの提案に思わず口をつぐんだ。理由は二つあった。一つは、抽出機の話を信用していなかったため。もう一つは、そんなことが可能なら、本当に婚約者にまつわる思い出を売ってしまいたい、という妄想が脳裏をかすめたためだ。
束の間、店内は沈黙に包まれたが、隆は再びヨーコの話を信じているかの好演を見せた。
「ハハハ。遠慮しておくよ。耳にチューブを差し込まれるなんて気分のいいもんじゃないし。それに、痛そうじゃないか」
言って、渋面を作ったときに、隆の心の振り子が真逆に振れた。
(なんか、ヨーコちゃんのおとぎ話に付き合うのも疲れたな。そろそろ、帰るとするか)
隆は、それなりに楽しかった語らいと、実に美味しかったビター&スイートに敬意を込めるような心持ちで、破顔一笑しながら財布を取り出した。
「帰るの? ちょっと待って。お兄さん、結構、お金持ってるじゃない」
隆は、財布の中を見てコクリとうなずいた。
「じゃあ、今日、仕入れた豆でどう? もう一杯、ビター&スイートは?」
そのときのヨーコの笑顔は、その日最高のそれだった。神々しいほどに美しかった。それに、ビター&スイートは、確かに一度飲んだら忘れられない味だ。
隆は、今回もビター&スイートの値段を確認もせずに、ヨーコの提案に首を縦に振った。
そう言うと、ヨーコは隆の瞳を直視した。
「お兄さんがさっき飲んだコーヒーは?」
「え? ビター&スイート」
「どんな味がした?」
「どんな味って言われても……。美味しかったのは確かに認めるよ。でも、あの味を形容する言葉が……」
隆は吐息をついた。
「僕には見つからないよ」
「ほろ苦く、それでいてほんのりと甘く、どこか懐かしくて暖かい味だったでしょう?」
「うん。まさしく、そんな感じの味だった」
「人の辛い思い出をコーヒーにするとそんな味になるの。もっとも、本当に忘れ去りたい苦々しい思い出のときには、まったく甘味は出ないよ。たとえば、自分の彼女に命令して罪もない親友を完全犯罪で殺させてしまった思い出……、じゃ、ちょっとたとえがリアル過ぎるか」
隆は心の中で、そのたとえのどこがリアルなんだ、と突っ込みを入れたが、ヨーコは構わずに続けた。
「たとえを変えよう。そうね。両親を事故で失った。そうしたたぐいの救いようのない、死ぬまでただ辛さだけを引きずるような悲劇。そんな思い出をブレンドしたコーヒーなんて、苦すぎて、渋すぎて飲めたもんじゃないよ。ううん、臭いを嗅いだだけで吐き気がこみ上げるよ。さっきまでのお兄さんのように」
(そうか。元はといえば、俺はこの店がまだスナックだった昨晩、ここに酒を飲みにきたんだよな。なんかゆうべのことも、そして今目の前にいるこの美少女も、すべてが夢のような気がしてきたな。それもこれも、ヨーコちゃんの荒唐無稽な話のせいか……)
隆は、現実を実感したくて、ヨーコの頭頂から腹部あたりまでを軽くなぞってみたが、ヨーコは気にするそぶりも見せずに続けた。
「でも、私とレオの話を思い出して。レオの死という悲しみは、時が経てばレオを愛していた幸福感に上書きされるよね。要するに、そのときは辛く感じる思い出でも、時間が経過するに連れて、悲しみがやがては楽しさに変わっていく。そんなほろ苦くて切ない思い出をブレンドしたときには、それが極上のコーヒーに姿を変えるの」
隆は思案していた。いつまでこの作り話に付き合おうかと。金を払ってとっとと帰ることもできる。実際、先ほど抱いた苛立ちは、まだ心の中でくすぶっている。でも、だからと帰ってしまうのはもったいない。そんな欲望に打ち勝てない自分もいる。ヨーコこそ、頭の横で指を回したくなる「これ」じゃないか、と思いつつも、こんな美少女と話ができている状況は決して悪いものではない。
隆は迷ったが、今しばらくヨーコの冗談、作り話に乗ることにした。
「じゃあ、そのチューブで思い出を抽出された人はどうなっちゃうの?」
「別にどうもならないよ。いたって健康。ただ、その思い出にまつわる記憶は綺麗さっぱりと忘れちゃうけどね」
「へえ! それは、抽出された途端に?」
隆は、驚いた、ふりをした。なかなかに堂に入った演技だ。
「ううん。抽出した時点ではまだ覚えてるし、豆にした時点でもまだ覚えてるよ。さらにいえば、その豆が
「ということは、昨日、この店に思い出を売った人は……」
「推察どおり! さっき、お兄さんがビター&スイートを飲み干した時点で、その辛い思い出はそっくりと忘れたよ。まあ、それがその人にとっていいことなのか、悪いことなのか、私にはわからないけどね」
ヨーコは笑みで窪んだ白い頬を中指でかいた。
「そうそう。時々、思い出を売ったはいいけど、『やっぱり忘れたくない』って慌てて取り返しにくる人もいるよ」
「取り返すって……。豆になってしまった思い出を?」
隆は再び驚いた。が、今度は演技ではなかった。気付かぬうちにヨーコの話に引き込まれ、自然に口をついて出た疑問だった。
「うん。それができるんだ」
「どうやって?」
「自分で、そのビター&スイートを飲むの。そうすれば、思い出は再びその人の元に戻るんだ」
「なるほど……」
「それより、お兄さん。さっき、婚約者とゆうべ喧嘩した話をしてたけど、いっそのこと、その婚約者との辛い思い出、売ってくれない?」
「あいつとの思い出を?」
隆は、ヨーコの提案に思わず口をつぐんだ。理由は二つあった。一つは、抽出機の話を信用していなかったため。もう一つは、そんなことが可能なら、本当に婚約者にまつわる思い出を売ってしまいたい、という妄想が脳裏をかすめたためだ。
束の間、店内は沈黙に包まれたが、隆は再びヨーコの話を信じているかの好演を見せた。
「ハハハ。遠慮しておくよ。耳にチューブを差し込まれるなんて気分のいいもんじゃないし。それに、痛そうじゃないか」
言って、渋面を作ったときに、隆の心の振り子が真逆に振れた。
(なんか、ヨーコちゃんのおとぎ話に付き合うのも疲れたな。そろそろ、帰るとするか)
隆は、それなりに楽しかった語らいと、実に美味しかったビター&スイートに敬意を込めるような心持ちで、破顔一笑しながら財布を取り出した。
「帰るの? ちょっと待って。お兄さん、結構、お金持ってるじゃない」
隆は、財布の中を見てコクリとうなずいた。
「じゃあ、今日、仕入れた豆でどう? もう一杯、ビター&スイートは?」
そのときのヨーコの笑顔は、その日最高のそれだった。神々しいほどに美しかった。それに、ビター&スイートは、確かに一度飲んだら忘れられない味だ。
隆は、今回もビター&スイートの値段を確認もせずに、ヨーコの提案に首を縦に振った。