5章-8

文字数 2,048文字

 江利子は、円形シールでレオをひとしきりいたぶると、満足した表情でシールを剥がし、バスルームに向かった。だが、脱衣所で服を脱いだ後、今日は半身浴でもしようかと思い立った。ただ、このバスルームは半身浴に適した温度のお湯が出ない。そこで、湯船のお湯は適量で止まるので、蛇口をひねってそのまま放っておくことにした。しばらくすれば、当然お湯も適度に冷める。

 江利子は、お湯を溜めながら、深紅のパジャマを着て上から薄手の白いカーディガンを羽織った。そして部屋に戻ると、嬉しそうに尻尾を振りながら出迎えるレオを無視して、ソファーに座ってリモコンを手にした。昨晩は、レオが巨大な怪鳥のような声で吠えたために、途中で鑑賞をやめざるを得なかったスパイ映画を見るためだ。

 リモコンのボタンを押すと、テレビに大迫力の美しい画像が映し出され、瞬く間に恍惚ともいえる「音の洪水」に襲われた。

(さあ。秘密情報を盗み出した主人公は、どうやって敵と戦うのか……)

 江利子は、わくわくしながら身を乗り出した。が、その期待はすぐに打ち砕かれた。レオがまたまた吠え始めたのだ。つんざくような咆哮(ほうこう)の中、江利子は慌ててスイッチを切った。部屋が静寂を取り戻す。一寸の狂いもなく、昨晩の再現である。いや、事態は昨夜よりも重かった。

 二夜にわたるレオの妨害に、江利子は激高した。レオに向かって何度も手を上げた。

――ロボットといっても、痛みは感じるわ。心も体も。だから、絶対に酷いことしないでね――

 ヨーコの言葉が聞こえた気もしたが、すぐに両耳からこぼれ落ちていった。レオは、人間以下の畜生だ。否、畜生以下のロボットだ。そう思うと、なおのこと苛立った。ロボット相手に怒っている自分が惨めに感じた。だから殴った。殴り続けた。

 ついには自分の手のひらが痛くなったとき、レオに変化が現れた。レオの瞳が潤み始めたのだ。

「なによ! ロボットが偉そうに感情表現してんじゃないよ! とにかく、今度吠えたら、本当に承知しないよ!」

 江利子はレオに向かって吐き捨てたが、レオは血涙を絞るような拷問を受けながらも、愚直に江利子の横に座った。江利子はそんなレオの行動など意に介さずに、再びリモコンのスイッチを入れた。

 ところが、次の瞬間、江利子はさらなる驚愕の事態に直面した。レオが、江利子の手のひらの肉厚の部分に牙を立てたのだ。

「ギャー!」

 江利子は、激痛と混乱の中、慌ててリモコンのスイッチを切った。脳内でヨーコのセリフを再生しながら。

――レオは成長しても絶対に噛んだりしないよ――

「なによ、あのヨーコって子は! 言ってることが無茶苦茶じゃない! 吠えないって言ってたのに吠えるし、挙句に今度は噛みつかれたわ!」

 江利子は、興奮しながら叫ぶと、まだ痛みの残る右手に目線を落とした。相当深く牙が食い込んだらしく、鮮血が噴き出ていた。それでも、噛まれたのが手のひらだったのは不幸中の幸いだった。これが手の甲だったら、確実に骨が砕けていた。

 もっとも、レオにしてみれば、そこまでの傷を負わせないようにと考えての行動だったのかもしれない。江利子がそんな思いを馳せられればよかったのだろうが、すでに平静を失している彼女には不可能であった。

(犬のくせに、いや、ロボットのくせに、飼い主に歯向かうなんて許せない……)

 江利子ははっきりと自覚した。自分が殺意を抱いていることを。

 おとなしくなったレオが、江利子の右手を舐めようと近付いてくる。まるで、この世に生まれて、初めて江利子と出会ったときのように。親愛の情を表したいのか。それとも、レオなりに治療でもするつもりなのか。しかし、治療しなければならないような傷を負わせたのは誰だ。

 江利子は、レオを抱え上げると、バスルームに向かった。湯船には、いい具合にお湯が溜まっている。レオは、そのお湯を見ると、江利子の意図を理解したのだろう、愛する人に懇願のまなざしを注いだ。瞳からは涙が溢れている。

――声は出せないけど、涙は流せる、ってこと――

 ヨーコの言葉を思い出しても、江利子の決心が変わることはなかった。

「まったく。なにがラッキーアイテムよ。人の邪魔ばかりして。もう、あんたは用なし。くたばりな!」

 その瞬間、レオは、クゥーン、クゥーン、と小さく鳴いた。まるで、一縷の望みを託すかのように。再び、ヨーコのセリフが脳裏をよぎる。

――声は出せないけど、涙は流せる、ってこと――

「へえー、レオ。あんた、吠えるだけじゃなくて鳴けるんだ」

 しかし、レオの生に対する執着、そして死への恐怖から思わず漏れた声も、大しけの感情を持て余す江利子の心に刺さることはなかった。

 クゥーン……。

 生涯最後の鳴き声とともに、レオの体はお湯の中に消えていった。レオの泣き声が失せたバスルームには、電気のショート音が響き始めた。
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