1章-7

文字数 1,055文字

 コマンドメールは本物だ。これを使えば田川を死にいたらしめることができる。しかし、自殺させることはできない。では、誰に田川を殺させるか。雄太の中ではその候補は確定していた。

 美帆だ。田川と逢瀬を重ね、体を重ね、自分を裏切った美帆。彼女には、田川を殺す義務がある。そして、自分の非を詫び、再び恋人にその心と体を捧げてこそ、はじめて彼女は自分の罪滅ぼしができるというものだ。そうすれば、雄太は美帆の一時(いっとき)の気の迷いを許し、一からやり直しができると確信していた。

 件名に、今度は美帆のメールアドレスを書く。そして、本文にはコマンドを書いた。

――田川を完全犯罪で殺せ!――

 次の瞬間、雄太は自分でも驚くほど冷静に、そのコマンドメールをヨーコに送っていた。ただ「殺せ!」ではなく、「完全犯罪で」の文言を念のために入れるほど雄太は冷静であった。

 自分の恋人を殺人者に指名し、しかし、罪は負わなくて済むように配慮する。否、すべては自分のためであった。

 再び美帆との甘い生活を取り戻したい。あくまでも自分が幸せになりたい。どんなにあがいても美帆は自分の所有物なのだ。その所有物を失いたくはない。その思いが「完全犯罪で」の五文字に集約されていた。雄太は、かくも狡猾な男であった。

 コマンドメールを送った雄太は、その後、預金通帳を凝視し続けていた。帰宅したときには空だった灰皿は、もはや吸殻が溢れそうに賑やかだ。雄太の肺の辺りでも、吸殻の数が増えるたびに賑やかさが充満していった。

 今、預金通帳の残高は1,922,640円と刻印されている。これに、財布の中身、48,642円を合算すると、雄太の全財産は1,971,282円。だが、必ずやこの数字が半分になるときがくる。二度目のコマンドを下すためには、全財産の半分が必要だからだ。すなわち、預金通帳から985,641円が引き出されたそのときこそ、美帆が田川を殺した瞬間なのだ。

 できることなら、この目でその現場を見たい。雄太はそう願ったが、すでにコマンドメールは送られてしまっている。であるならば、預金通帳の数字でも見ながら田川が死ぬ瞬間を美帆と共有しよう。雄太はそう考えた。また、何日も待たなくても、その瞬間はすぐに訪れるであろうという根拠のない確信があった。

 その確信は間違っていなかった。預金通帳の数字を見続けて約二時間後。雄太は「その瞬間」を恋人と共有することができた。

 預金通帳の残高が、985,641円、目減りした。
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