5章-1 しあわせの吠える犬
文字数 1,370文字
強力な粘着力の円形シールを四ヵ所に貼ると、江利子 は残忍な笑みを浮かべた。それもそのはず。生殺与奪の権を握っているのは江利子なのだ。彼女は、冷血な表情を保ったままその場から三メートルほど離れ、高い声を発した。
「レオ!」
すると、三メートル先にいる子犬が江利子に向かって駆け出した。しかし、次の瞬間にはバランスを崩して、顔をしたたかにフローリングの床に打ちつけた。ゴン、という鈍い音がしたが、子犬は悲鳴を上げなかった。
チワワは、前後の足の裏にタイル用の円形シールを貼られていた。その状態で走ろうとすれば、ツルツルの表面では床を蹴れずに、足を滑らせるのも当然だ。江利子は、子犬を見ながら薄く笑うと、もう一度高い声で呼んだ。
「レオ!」
それを合図にチワワは体を起こすと、再び律義に江利子の元に駆け寄ろうとした。そして、また派手に転んだ。顔から床に落ち、部屋中に重い音を響かせた。それでも、子犬は叫ぶことなく、苦悶の瞳で江利子を見詰めた。
「なに、レオ。あんた、今にも泣きそうじゃない。ハハハ。本当に愉快ね」
レオは、瞳でしか感情を訴える術がない。だが、皮肉なことに、その愛らしい瞳が江利子の嗜虐 性に火をつける。
「ほら! キャン、くらい叫んでみなさいよ! 悔しかったら、私に噛みついてみなさい!」
言って、江利子は小馬鹿にした顔を作ると両肩をすぼめた。
「って、あんたにできるわけないか」
その後も、江利子はレオと一定の距離を保ちながら、何度も子犬の名前を呼び続けた。レオも、その声に反応すれば待ち受けているのは転倒であることを知りながらも、忠実に四本の脚に力を込め、そのたびに自身の体を床に打ちつけた。
事は三十分にも及んだが、やがては江利子の口からゲームオーバーの言葉が漏れた。
「あー、楽しかった。ほんと、いいストレス発散になるわ。『しあわせを運ぶ犬』って、ひょっとしてこの『遊び』のことかもね」
江利子は、レオの足から円形シールを剥がした。
◆◇◆◇◆◇◆◇
江利子のこの“日課”が始まったのは一週間ほど前だった。
その日、江利子はむしゃくしゃした気分を会社から自宅に持ち帰った。会社では、従順な子犬でいなければならない。しかし、我慢の限度を超える日もある。
江利子が帰宅すると、上司の前では反論もできない情けない自分を、レオが嬉しそうに尻尾を振りながら玄関で出迎えた。だが、そんないたいけな子犬の仕草を見たら、かえってその能天気ぶりが恨めしくなった。絶対優位の自分の立場を利用し、会社で浴びせられた毒素を無性に排出したくなった。
江利子の中では、慈愛ではなく鬼畜が頭をもたげていたが、それでもレオは江利子の脚にじゃれついてくる。それが忌々しかった。そのとき、江利子のバッグにたまたま入っていたのが、キッチンのタイルに貼ろうと帰宅途中に買った円形シール、四個であった。
(これをレオの足の裏に貼り付けて走らせたらどうなるだろう?)
すると、予想以上に愉快に、ぶざまに、レオは滑り、そして転んだ。
その日から、江利子はこの遊びの常習者になった。一個百円の円形シールのおかげで、ストレスが毛穴から蒸発していく。これ以上ない廉価な麻薬であった。
「レオ!」
すると、三メートル先にいる子犬が江利子に向かって駆け出した。しかし、次の瞬間にはバランスを崩して、顔をしたたかにフローリングの床に打ちつけた。ゴン、という鈍い音がしたが、子犬は悲鳴を上げなかった。
チワワは、前後の足の裏にタイル用の円形シールを貼られていた。その状態で走ろうとすれば、ツルツルの表面では床を蹴れずに、足を滑らせるのも当然だ。江利子は、子犬を見ながら薄く笑うと、もう一度高い声で呼んだ。
「レオ!」
それを合図にチワワは体を起こすと、再び律義に江利子の元に駆け寄ろうとした。そして、また派手に転んだ。顔から床に落ち、部屋中に重い音を響かせた。それでも、子犬は叫ぶことなく、苦悶の瞳で江利子を見詰めた。
「なに、レオ。あんた、今にも泣きそうじゃない。ハハハ。本当に愉快ね」
レオは、瞳でしか感情を訴える術がない。だが、皮肉なことに、その愛らしい瞳が江利子の
「ほら! キャン、くらい叫んでみなさいよ! 悔しかったら、私に噛みついてみなさい!」
言って、江利子は小馬鹿にした顔を作ると両肩をすぼめた。
「って、あんたにできるわけないか」
その後も、江利子はレオと一定の距離を保ちながら、何度も子犬の名前を呼び続けた。レオも、その声に反応すれば待ち受けているのは転倒であることを知りながらも、忠実に四本の脚に力を込め、そのたびに自身の体を床に打ちつけた。
事は三十分にも及んだが、やがては江利子の口からゲームオーバーの言葉が漏れた。
「あー、楽しかった。ほんと、いいストレス発散になるわ。『しあわせを運ぶ犬』って、ひょっとしてこの『遊び』のことかもね」
江利子は、レオの足から円形シールを剥がした。
◆◇◆◇◆◇◆◇
江利子のこの“日課”が始まったのは一週間ほど前だった。
その日、江利子はむしゃくしゃした気分を会社から自宅に持ち帰った。会社では、従順な子犬でいなければならない。しかし、我慢の限度を超える日もある。
江利子が帰宅すると、上司の前では反論もできない情けない自分を、レオが嬉しそうに尻尾を振りながら玄関で出迎えた。だが、そんないたいけな子犬の仕草を見たら、かえってその能天気ぶりが恨めしくなった。絶対優位の自分の立場を利用し、会社で浴びせられた毒素を無性に排出したくなった。
江利子の中では、慈愛ではなく鬼畜が頭をもたげていたが、それでもレオは江利子の脚にじゃれついてくる。それが忌々しかった。そのとき、江利子のバッグにたまたま入っていたのが、キッチンのタイルに貼ろうと帰宅途中に買った円形シール、四個であった。
(これをレオの足の裏に貼り付けて走らせたらどうなるだろう?)
すると、予想以上に愉快に、ぶざまに、レオは滑り、そして転んだ。
その日から、江利子はこの遊びの常習者になった。一個百円の円形シールのおかげで、ストレスが毛穴から蒸発していく。これ以上ない廉価な麻薬であった。