1章-9

文字数 2,248文字

 不思議なことに、マスコミはどこも田川の殺人を報じはしなかった。調べた限り、警察が調査をしている様子もない。田川の葬儀に参列していなければ、すべては夢だったと勘違いしそうであった。

 しかし、雄太は棺桶の中で眠る田川をその目でしかと見た。断じて夢などではない。田川は死んだのだ。それは殺人であり、殺したのは美帆なのだ。

 にもかかわらず、美帆は瞬く間に元気になった。たとえ自分の意思でなく、得体の知れないなにかに突き動かされた結果としても、一人の人間の人生を自分の手で葬り去っておいて、どうしたらすぐにそれほどまでに回復できるのか。

 ましてや、死んだその人は、自分が愛し、愛されていた“男”ではないか。自分の恋人の大学時代からの親友じゃないか。

 田川の死から数日も経つと、美帆に殺害を命じた雄太のほうが憔悴し始めていた。確かに、浮気は許されたことではない。他の女ならともかく、あろうことか、自分の親友の恋人を寝取るなんて。

 だが、雄太は、浮気を理由にその親友を間接的に殺してしまった。自分の犯した罪に(さいな)まれ苦しみが増幅していく。それだけに、あまりに能天気な美帆の言動がどうにも理解できずに、それが雄太の(しゃく)(さわ)った。

 やがて、雄太の中で疑念が頭をもたげ始めた。

(美帆がここまで元気でいられるのはなぜだ? お前は愛する男を自分の手で殺したんだろう? それとも、浮気は所詮浮気。本気ではない。そんな相手が死んだところで痛くも痒くもないってことか?)

◆◇◆◇◆◇◆◇

 そんなある日、雄太は自室でタバコに火をつけて、自らの罪悪感と戦いながらも美帆の元気の(みなもと)を探っていた。

(美帆が以前にも増して快活なのはなぜなんだ? なにが美帆の気持ちを支えてるんだ? ……。少なくとも俺じゃないよな。美帆は、田川の死後も相変わらず俺に抱かれようとはしない。俺に甘えることすらしない)

 その瞬間、雄太のシナプスに電流が走った。

「ひょっとして、美帆はまだ誰かに抱かれているのか!? 俺の知らない男に甘えているのか!? ってことは、美帆は田川以外にも浮気相手がいたってことか!?」

 雄太の目に、先日から座卓に放られっぱなしの封筒が飛び込んでくる。その中には、美帆の浮気相手の写真と身元調書が入っている。

 今までは気にも留めなかった封筒が、雄太にとってこの世で一番気に掛かる存在となった。万が一、写真に写っている男が田川でなかったら――。

 雄太の不吉な推理は無残にも的中した。写真の男は田川ではなかった。

 雄太は、慌てて探偵まがいに電話した。

「おい。この前の俺の恋人の浮気調査だけど」
「ああ。児玉から電話がくると思ってたよ」
 受話器から、探偵まがいの気だるい声が漏れる。

「俺から電話がくるのを待っていた? なぜ?」

「いや。一応児玉の頼みだったし、俺も気になって、その後もしばらく調査を続けたんだ。あ、金はいらないぞ。それで驚いてたんだよ。お前の彼女、浮気をやめるどころか、前よりもお盛んじゃないか。お前、ちゃんと彼女と話したのか?」

「前よりもお盛ん?」

 雄太はスマートフォンを潰さんばかりに握り締めた。やはり、美帆には田川以外にも浮気相手がいたのだ。まさか、美帆がそこまで節操のない女だったとは。美帆を支え、元気付けているのはそのもう一人の浮気相手に違いなかった。

 雄太は、吐き捨てるように探偵まがいに訊いた。

「なあ、美帆は一体、何人と浮気をしてるんだ?」

「何人? 一人だよ。その一人の写真を先日、お前に渡したじゃないか」

「いや、そんなはずはない。美帆は、『田川』という男と浮気をしていた。だけど、お前からもらった写真に写っているのは別人だ。つまり、美帆は最低二人の男と浮気をしている」

「ちょっと待て、児玉。探偵の名にかけてはっきりと言う。お前の彼女の浮気相手は一人だ。その写真の男だけだ」

 電話を切った雄太は、写真の男の身上調書に視線を落とした。男は、美帆と同じ会社に勤務する四十五歳の課長。妻と二人の子どもがいる。周囲の評判では相当な女好き。年齢の割に幼稚なところもあるが、心のケアがうまく部下の信頼も厚い。近々、部長に昇進の噂も出ている。部下のみならず、他部署の女性の評判も上々。

 調書には次の文言も踊っていた。

――正社員、派遣社員、わけ隔てなく平等に接する人情派で受付嬢にも人気――

「こいつが美帆の浮気相手だったのか。この『三田秀吉』という男が……」

 雄太は、身上調書を座卓に放り投げると、そもそも、なぜ自分が美帆の浮気相手を田川だと決め付けたのか、久しく忘れていた原点に立ち返ることにした。

 すべての始まりは『愛楽園』だった。厳密には、そこに挟まれていたしおりに書かれていた名前だった。はっきりと「田川」と書かれていた。

 座卓には、その『愛楽園』もある。雄太は、脳みそがとろけてしまったような倦怠感の中、『愛楽園』に手を伸ばしたが、そのとき、つい今しがた放った三田秀吉の身上調書が目に入った。投げられた身上調書は、左九十度に反転し、横向きで座卓に乗っていた。それを見た雄太は驚愕のあまり色を失った。

「田川は、美帆に『愛楽園』を貸してはいない……。『愛楽園』のあのしおり。あれは縦書きじゃない……。横書きだ。横書きで『三田』と書かれてたんだ……」
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