4章-6

文字数 1,177文字

 その日から、直人の鬼気迫る勉強が始まった。元々、直人に欠けていたのは「集中力」だ。ダルマがその集中力を与えてくれた。なにせ、不合格なら待っているのは死だ。

「ねえ。やっぱり、志望校を教和大学に変更できないかな? 僕、教和大学も一応、志望校なんだよね」

 受験勉強の過程で、こんな弱気なセリフを口にしたこともある。だが、ダルマはにべもなかった。

「ダメダメ。『都清大学』って三回唱えたんだから、変更は効かないよ。それに、教和大学は『志望校』じゃなくて『妥協』でしょう?『志望校』に合格させるのがボクの使命なんだよ」

 死と隣り合わせの受験勉強。しかし、直人は不安こそあれど、恐怖とは無縁だった。ヨーコにプレゼントされたピンクの錠剤。すべてはその効力だった。ダルマと初めて会話をした日、発狂しそうな動揺の中、直人は錠剤を一錠、口内に放り込んでみた。すると、たちどころに怖気(おじけ)は消えた。

 効き目が長続きするのもその薬の特徴だった。一度飲むと、二週間は心が安寧でいられた。十ヵ月の受験勉強期間を考えると、二十錠もあれば十分だった。だから、ヨーコは適量分を無料でくれたのだろう。ヨーコの言うとおり、薬には害も副作用もなかった。

 友人がいないことも直人には幸いした。直人は、学校では誰とも口をきかない。授業中の“内職”はもちろん、昼休みの食事中も片時も参考書を手放すことはなかった。廊下を歩くときにも、その瞳に映るのは校内の景色ではなく参考書に躍る文章だ。

 ただ、まったく障害がなかったわけではなかった。ある日のことだ。直人は参考書を読みながら廊下を歩いていた。と、次の瞬間、なにかにつまづいて前のめりに転んだ。直人は、なにに足を引っ掛けたのだろうと、膝立ちになると床を見詰めた。その先には足があった。視線を上に滑らしていくと、当然、脚がある。そして、直人が上を見上げると、残忍な笑みを浮かべた後輩の井上の顔があった。直人は、井上に足をかけられたのだ。

「参考書なんか見てんじゃねぇーよ。ちゃんと前を向いて歩け! このボケナス!」

 後輩になじられている直人に、同級生の女子が哀れみのまなざしを向ける。こればかりは、孤独を受け入れようと決意した直人にとっても惨めの極地であった。井上に対して殺意にも似た敵意がこみ上げた。それでも直人の口をついて出たのは謝罪であった。

「ご、ごめんなさい」

 月に数回、井上のこんな妨害にこそ出くわしたが、言い換えれば、それさえ耐え忍べば、直人は勉強だけに集中できる環境にいた。

◆◇◆◇◆◇◆◇

 ダルマに左目を入れてから十ヵ月後。直人は、都清大学の合格発表の掲示板で、自分の受験番号を見詰めていた。ヨーコの言葉に嘘はなかった。ダルマは「百パーセント合格ダルマ」であった。感慨で瞳が潤んだ。
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